仰げば尊し

諏訪野 滋

仰げば尊し

 つま先立ちを、してみる。やはり、もう少しのところで届かない。駅ビルに入っている書店の片隅で、私はため息をつきながら本棚の一番上を仰ぎ見た。

 まあいいか。どうしてもあの本が読みたかった、というわけでもないし。ネットでたまたま目に入った書評で、何となく面白そうだなと頭の片隅にあっただけで、わざわざ背伸びをするほどのことじゃない。

 私はいつもそうだ、仕事だってあきらめが先に立つ。第一希望にかすりもしなかったから、入社二年目だから、女だから。今だってやはり同じこと。背が低いから。たったそれだけの理由で、私はその本に対する興味を捨てようとしていた。

「お取りしましょうか?」

 不意にかけられた声に、バランスを崩して危うく転びそうになる。体勢を立て直して振り向いた私は、すぐ後ろに立っていた若い女性を見上げた。見上げた、というのは誇張でも何でもなく、黒髪をポニーテールにしたその女性の身長は、私のそれを頭二つ分はゆうに超えていた。白いカッターシャツに、書店のロゴが入った黒いエプロン。ここの書店の店員なのだろう。

 静かに見つめる彼女の視線に我に返った私は、慌てて本棚の上を指さした。

「あ、あの。棚の一番上。そうです、右から二冊目の」

 彼女は細い顎を軽く上げると、右腕をついと伸ばして、棚差ししてあった本の背表紙を長い指でなでた。

「……『純情と桜』。この本でよろしいでしょうか?」

 こくりとうなずく私を確認すると、彼女は文庫本をするりと抜き取り、両手を添えて私に差し出した。

「ありがとう、ございます」

 どもりながら受け取る私に、彼女は無表情のままでうなずくと、少し間を空けて切り出した。

「その小説、お好きなのですか?」

 型通りのやり取りとはかけ離れた言葉に、私はどぎまぎした。店員の方から私的な質問とは珍しい、何かのアンケートだろうか。

「いえ、どこかで記事を見て少し興味があっただけで。作者の名前もよく知らない……」

「そうでしたか」

 彼女は歯が抜けたような一番上の本棚をちらりと見上げると、私に視線を戻した。

「少しお読みいただいて、もし気に入らなければ、下の本に重ねて置いておいて下さい。私が後で戻しておきますから」

 きびすを返そうとした彼女に向けて、我知らず大きな声が出ていた。

「私。これ、買わせて頂きます!」

 手放したくなかった。チャンスに不感症な自分には、もううんざりだった。

「こんなにたくさん本がある中で、たまたま手に取ったのも、何かのご縁だと思いますから」

 初めて会ったばかりの、しかも店員に、私は何をむきになっているのだろう。やらかしたな、と熱くなった私の顔に向けて、彼女は初めて小さく笑った。

 ――お買い上げ、ありがとうございます。


 冷たい雨と残業とのダブルパンチで、私の脚は重かった。駅ビルの地下街で、半額のシールが貼られた売れ残りの総菜を二、三品購入すると、自然上りのエスカレーターに足が向いた。少しでも非日常を味わってから床に就きたいという、小さな贅沢ぜいたく

 いつもの書店に足を踏み入れると、客はほとんどいなかった。ウィークデーでしかも閉店まであと三十分しかないのだから、それも無理からぬところだ。売り物の本に水滴がかからないように折り畳み傘をデイパックにしまってから、私は平積みされた本を冷やかしていく。目立つようにディスプレイされたそれらのほとんどはもちろん新刊だ、コミック、写真集、新書……

 少しずつ書店の奥へと進んでいった私は、おや、と足を止めた。私の目の高さで、一冊の文庫本が表紙を向けてめん陳列ちんれつされている。驚いた、その本のタイトルがあの「純情と桜」だったからだ。隣には紙製のポップが貼ってあり、そこには薄紅色をした桜の花びらの手書きイラストとともに、短い言葉が添えられていた。

 ――好きなことを追いかけたいあなたに、元気をくれる一冊。当店スタッフのイチ推しです。

 私は顔を上げると店内を見渡した。はたして、少し離れた本棚の上から飛び出す形で、黒いポニーテールがふわりと揺れていた。あの背の高さなのだから探すのは簡単だな、と可笑しくなった私は、一度読んだ本なのに再びそれを手にすると、うつむきながら立ち読みしているふりをする。

「特設コーナー、作ってみたんです」

 思わずびくりと肩を震わせた私は、恐る恐る隣を見た。仕事中の彼女は手に抱えた本を棚に戻しながら、独り言のようにつぶやく。

「お客様が購入されたそちらの本、私も読んでみました。素敵なお話だったので、皆さんに紹介したいと思って。結構な数、お手に取っていただいています」

 黙っている私を横目でちらりと見た彼女は、やはり無表情のままで、小さく首をかしげた。

「いかがでしたか?」

 私はとっさに答えた。

「花びらのイラスト、お上手ですね」

 驚いたのだろうか、彼女はわずかに目を見開いたが、やがて桜よりも柔らかな笑いを私に向けた。

「いえ、本の感想を聞きたくて」

 またしてもやらかしたな、と赤面する私に向けて、彼女は体の前で両手を組むと頭を下げた。

 ――ごゆっくり、どうぞ。

 仕事に戻る彼女のポニーテールが、若駒わかごま並足なみあしのように小気味よく揺れた。


 その日も私は、これから登る山の頂上を眺めるように、本棚の一番上を見ていた。やがて背後から、よく響く靴音が聞こえてくる。

「お取りしましょうか、お客様」

 隣に来た彼女も、私と違う角度ではあるけれど、同じ棚を仰ぎ見ていた。私は小さく首を振ると、今度こそ諦めずに手を伸ばそうと決めた。

「肩、貸していただけませんか」

 無言のままの彼女の右肩に左手を添えて体重をかけると、私はつま先立ちをしながら思い切り右腕を伸ばす。もがくように動かした指が文庫本の一冊に触れると、私はそれを最上部の棚から引き出した。

 知らない本を胸に抱えて笑う私に、彼女は不思議そうな眼差しを向けた。

「その本で、よろしかったのですか?」

 私は満面の笑みで、大きくうなずいた。

「どれでも良かったんです、一番上なら」

 きょとんとする彼女の顔を、私は目をそらさずに見上げた。

「なんだか、二人で選んだような気がしますね」

 耳たぶを薄く染めた彼女は、怒ったように棚の方に向き直ると、本の整理を再開しながらささやいた。

 ――感想、きかせてくださいね。

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仰げば尊し 諏訪野 滋 @suwano_s

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