クマと子鹿

緋色 刹那

👨‍🦰🧸

 チカはいつもつま先立ちで歩く。

 あこがれのお兄さん、オークマさんに少しでも大人に見てもらうために。


 大きなクマのように、ずんぐりむっくり。茶色い口ヒゲがチャームポイント。チカのお母さんいわく、「お兄さんじゃなくて"いけおぢ"」だそうだが、その程度ではチカの気持ちは揺るがない。


 オークマさんはチカの親戚で、近所の輸入食品店の店長をしている。お店にいるときはいつも大きなポッケのついたエプロンを着ていて、ポッケの中には外国のお菓子が入っていた。


 チカはお菓子をもらいに来たフリをして、オークマさんに会いに行っていた。


「オークマさん、こんにちは!」


 その日もチカはオークマさんの店にやって来た。店内にオークマさんの姿はなく、二階を探していると、「チカちゃん?」と下からオークマさんの声がした。


 一階を見下ろすと、オークマさんは大きな買い物カゴを提げていた。


「オークマさん、お帰り! お出かけしていたのね」

「うん。今日の夕飯の食材を買いに行っていたんだ」

「何を作るの?」

「ビーフシチューだよ」

「いいなぁ。私も食べたい!」


 チカは小走りで階段を下りる。いつも通り、つま先立ちで。


「ひゃッ!」


 急いだせいで、バランスを崩した。よろめき、世界がひっくり返る。


 倒れる前に、オークマさんが受け止めてくれた。柔らかくてたくましい、大きなぬいぐるみのクマさんのような感触だった。


 オークマさんはホッと、息を吐いた。


「大丈夫? 怪我はない?」

「うん……平気……」


(怒られる!)


 ところが、オークマさんは怒るどころか、にっこりとチカに微笑んだ。


「こんなところでもバレエの練習してえらいね。でも、階段では危ないからやめようね」

「う……」


 チカは大人ぶっていた恥ずかしさと、階段から落ちたら恐怖で泣き出した。


 オークマさんはオロオロと、ポッケに手を突っ込む。出てきたピーナッツ色のキャンディを、チカに差し出した。


「チカちゃん、泣かないで。ほら、パソッカをあげよう。美味しいよ」

「うわーん!」


 チカはオークマさんを困らせてしまった申し訳なさから、余計に泣いた。



  🧸



 十年後、チカはオークマさんの店でバイトを始めた。身長は思ったほど伸びなかったが、本気でオークマさんを狙っている。


「オークマさん! ここにある段ボール、そっちに運びますね!」

「うん。お願いね、チカちゃん」


 チカは鹿肉が入った段ボール箱を三つ積み、抱えて階段を下りる。


 あの日以来、つま先立ちはやめた。「背伸びをしても、オークマさんは喜ばない」と分かったからだ。


 ……分かっていたはずなのに、つい無理をしてしまった。


「あっ」

「チカちゃん!」


 重ねた段ボール箱に視界をさえぎられ、階段を踏み外す。よろめき、世界がひっくり返る。


 倒れる前に、オークマさんが段ボール箱といっしょに受け止めてくれた。大きなぬいぐるみのクマのようなずんぐりむっくりボディは健在で、少しも痛くなかった。


 それより、目の前にオークマさんの心配そうな顔があって、すごくドキドキした。


(今度こそ怒られる!)


 昔は子供だったが、今は大人。しかもバイトと店長だ。怒られても仕方ない。


 だが、オークマさんは今回も怒らなかった。


「大丈夫? 怪我はない?」

「は、はい。平気です」


 オークマさんはにっこりと微笑み、チカの頭を撫でた。


「今度は泣かなかったね、えらいえらい。ポッケにパソッカあるけど、食べる?」

「パソッカより、店長のビーフシチューが食べたいです!」

「しょうがないなぁ。いいよ、鹿肉の試食も兼ねて、お昼はビーフシチューにしよう」

「やったー!」


 チカは子供のように喜ぶ。「敬語じゃないほうが、チカちゃんらしくて可愛いよ」とオークマさんは笑った。


「えっ?」

「あ、いや、深い意味はないんだけど……」


 オークマさんは慌てて顔を背ける。クマのように丸くて大きな耳が、真っ赤になっている。


 チカの胸が高鳴った。


「オークマさん」

「な、何でもないんだよ? 本当に、何でも……」


 チカは十年ぶりにつま先で立ち、オークマさんの頬にキスをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クマと子鹿 緋色 刹那 @kodiacbear

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ