第5話

 角野とは、それきり図書館で会おうともしなくなった。

 私はマッチを擦り、ロウソクに火を点けて日記を燃やし始める。寒い、寒い、凍えるような日だった。冬の寒空は、陰険そうな鈍色をしていた。築二十年の、一軒家の裏庭で、凍えながら日記帳を破る。無心に破り、破り離してはことごとく燃やしていった。 

 夏草が枯れ、雑草が慎ましく覆った地面を見る。

 隣には、椿の木が立っていた。灰が、灰が、まるで雪のように白い。

 黒く焦げた紙は、最後に驚くほど白い灰となって崩れる。紙というのは、とても脆い。火が付いたとたん、その端からめらめらと炙られていく。そうしてどす黒く、美しかった上質紙のおもてを、あっという間に、醜く焦がしていってしまう。

 これが、私の恋だったもの。私の恋。

 黒く焼かれ、爛れてしまった。燃え尽きたのではない。

 私が燃やすのだ、この恋を。すべて、すべて、燃やし尽くすのだ。

 ぽとり、と首のように椿の花が落ちている。さまは、斬首に似ていた。花の生首。私の燃やした灰が、白く白く募っていく。灰が、灰が、ただ白い雪のように。椿の花の上に、積もっていく灰の雪。頬を鑢で削る、真冬の空気に血の気も通わぬ灰がふりつのる。

 憎しみだけが、残っていた。がらんどうの、心の底に。

 人並みな恋心と、そしておんなの裏切りに対する憎しみが。

 私はじっと、自分が犯した、色狂いのようなあやまちを見下ろした。

 目の前で、はかなく燃え尽きていく帳面。黒表紙に、銀文字、そして銀の飾り縁をあしらった。わざわざ、文房具店で買った日記帳。彼女のことを、書き付けるために買ったのだ。そうして、三十五行の罫線の間を、貪るように放縦に書き尽くしていった。

 最初から最後まで、彼女のことだけが記されている。

 毎日のように、彼女を目で追っていた。通学電車に、乗り合わせれば、濃紺の制服姿を熱心に盗み見た。揃えた前髪を、重たそうに垂らし。黒縁の眼鏡で、端整な顔を隠していたことに。あの、真紅の唇さえも、肌色に塗り潰していたことに。

 私は、いつしか、気付いていた。それすら、甘美な秘密だと。

 思っていたのではないか。だから、飽き足らず、日記帳に思いの丈を綴った。夜毎、自慰に耽った。熱病にでも、罹ったように。熱に浮かされたように。彼女のことを、彼女のことだけを想っていた。あの、椿の唇が。硬く閉じた、まるで蕾のようなあの頑なな紅唇。

 それが、淫靡に綻んだりしなければ。

 こんなことにはならなかった。恋になど、落ちはしなかった。

「ふゆき、どうかしたの」

 あの日、私が帰宅すると、母は薄くなった眉を訝しげに顰めた。

 白熱球の、橙色の燈の下で、私はどんな顔をしていたのか。きっと、顔色を指摘された日よりも、酷い顔をしていたに違いなかった。泣いていた、とは思いたくなかったが。それでも、頬が攣るのは、乾きかけた涙のあとのせいかもしれなかった。

「ねえ、恋って、どんな気分かな」

 本物の恋は。人らしい、恋心とは。

 どんな気分なのだろう。どんな心持ちなのだろう。

 そう、出し抜けに尋ねれば、仰天したように目を見開くのが見えた。よもや、己の娘が。一人前に、色恋沙汰を、口にするとは思わなかったと。言いたげに、驚愕の面持ちで言う。その反応が、かえって滑稽さを誘ったようだった。喉の奥で、かすれたような笑いが唾に絡んだ。

「恋なんて。ろくなもんじゃない」

 だってあんなの。

 独り相撲みたいなものでしょ。

「自分の妄想を、相手にして。追っかけ回すんだもの」

 そのうえ、結婚までするなんて。

 妙にさめた、まるで生きることに飽いたような顔で母は呟いた。四十路を過ぎた、女の顔。若くは見られても、その目尻や口元には、かすかな小皺が寄っている。もしや、惰性で生きているのは。私だけではないのかもしれないと。ふと、諦めのように受け入れてしまった。

 自分という人間が。どこまでも、平凡な娘なのだと。

 靴箱の鏡台を、私は見た。紺色の、制服姿の、地味な女生徒。

 平々と、凡々とした、どこまでも矮小な姿だった。醜くもないが、美しくもない凡人の見本。なにも、見た目だけのことではなかったのだ。私という娘は、女は、その中身もありきたりで凡庸だった。特別なものなど、最初から、なにひとつ、持ち合わせてはいなかった。

「あんた、最近変よ」

 言われても、もう返す気力がなかった。

 私はようやく、これがとてもありふれた、恋であることを認めたのだった。なんだ、とふいに気が抜けたように思った。ただの恋心だったのだ。醜く、賤しく、あさましい恋心。くれないの恋情は、誰もが罹るような、そんなただの人並みな色狂いでしかなかった。

 心のどこかで、自分を特別だと思い込んでいたかった。

 言葉に溺れた、落伍者だと。

 でも、違った。本物の、人でなしとは。

 彼女にこそ。角野美紅にこそ、相応しい言葉だった。

 ただ生きている、己のことを。他人とは違う、人でなしと思っていた。

 二度と、会おうとはしなかった。私は、通学電車の時間を変えた。来春に、建て替えの決まった、市立図書館にも寄り付かなかった。そのうちに、私の裏切りを悟ったのだろう。高校の正門前で、一度だけ待ち伏せをされたが。端整であって、端正ではない顔を見ることはなく。

 雪化粧をした氷のかんばせ。横目にも、拝もうとはしなかった。

 ただ、行きずりに。私は、捨てるように科白を吐いた。

「書きません。あなたのことなんて」

 心根が、醜いもの。

 それだけを、私は告げて。長い坂を、反対に駅へと向かって下っていった。

 思えば、彼女の学年も知らなかった。今まで、知ろうとさえしなかったのだ。そのことに、気が付いたのは、長い坂道を下りきった頃だった。最早、涙の一粒も湧きはしなかった。咽喉の奥で、乾いた声帯が吸い込んだ寒気を顫わせていた。

 破って、破って、ひたすらに破った。

 黒く焦げ、白くなり、そうして雪の灰はゆっくりと地に落ちる。

 私は、上等な日記帳を、惜しげもなく破り続けた。もう、なにもかも、どうでもよかった。自棄になったように、無心になって紙を引き裂いた。そうして、何十枚も破って、火をつけ、黒ずみ腐り始めた、椿の花に捧げるように燃やしながら。

 灰が、灰が、しらじらと椿の首に降り積もる。断たれた花の生首へ、はらはらと音もなく、灰が首塚を埋めるようにうずたかく。燃やしても、燃やしても、まだ足りはしない。破っては、ロウソクの火にかざした。めらめら、とノートに綴じられた上質紙はよく燃えた。

 これが、私の恋のむくろ。黒く燃えて、爛れてしまった亡骸。

 裏切りだ、と私は思う。

 ありふれた女の。ありきたりな、十七歳の娘の。

 何故、微笑んだ。あのとき、私を見て、どうして笑んだのだ。

 椿の唇。硬く閉じた、椿の蕾。冬の気配の中で、その唇だけがやたら赤い。

「書かない」

 あなたのことなんて、書きはしない。

 言葉になど。永遠に、思い出になどするものか。

 椿の花よ。生首よ。今ここで、醜く腐りおちるがいい。

 だから、この日記帳も、書くかもしれなかった小説も。すべて、今ここで、燃やし尽くすのだ。あるのは、終わった恋と、胸の奥で、じりじりとくすぶるような憎しみ。その憎しみに、数多のページをくべて、とむらいのように燃やし続けた。

 白い、白い灰が。椿の、その首へと、ただ真っ白な紙の骸が積もりゆく。【了】



* 初出:第18回女による女のためのR-18文学賞 一次落選作(2019年)

  投稿に際し、右記の公募応募作を改稿しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

人並みの恋 蘆 蕭雪 @antiantactica

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画