第4話
翌週、訪ねた彼女の部屋は、高層マンションの一室にあった。
緩やかに、地価の高騰が続く、住宅街に建てられた二十階建てのマンションだ。隣地には、朴訥とした印象の結婚式場。まるで、古い小さな聖堂のような。それを抱くように、数棟が坂道に連なって、遠くから眺めると、臙脂色をした尖塔のある教会といった趣だった。
バス停で降り、そこから暫く曇った冬空の下を歩いた。
「遠慮しないで」
上がっていって、と彼女が玄関口で言った。
葡萄酒色のスカート。厚手のコーデュロイに、白色のセーターを合わせている。
私はぎこちなく、持参した焼菓子を差し出した。道すがら、最寄りのコンビニで買っておいたものだ。ガレットと、ブールドネージュの二袋。コンビニで買ったささやかな手土産だった。市販品の中では、手頃な価格と味の釣り合いが取れているからと選んだ。
「ああ、これ、美味しいから好きなの」
「それなら、よかったです」
ぎこちなく答えてから、袋を手渡して家に上がった。
「うち、今日、両親が出掛けてて」
そうなんですか、と相槌を打つ。
来客用のスリッパを履くと、彼女が細長い廊下を歩き始める。奥へと進むうち、間取りが分かってきた。両側に部屋のドアと、お手洗い、洗面所や倉庫と思しい扉が並んでいる。最奥は居間で、手前に襖を引いた和室があるらしい。襖の前に立ち、角野はぎこちない私を見咎めた。
そんなに、かしこまらなくたっていいのに、と淡い笑みでささやく。
「わたしと、雪平さんの仲だもの」
思わず、息が止まる。
その、仲とは、いったいどんな仲なのか。
私たちの間柄は。これは、なんと。名付けられるべきなのだろう。
「どうぞ、入って」
襖を越え、勧められるまま畳の縁を跨いだ。
まるで納戸のような部屋だ、と半ば拍子抜けに思った。
中京間の和室は、年頃の女子にしては手狭に感じる。壁際に、押入れがあるせいかもしれない。勉強机や衣装箪笥、キャビネット、箱型の本棚が片隅に身を寄せ合っていた。肩身が狭そうに、部屋の角に置かれているのだ。それらを取り巻く、雑然と積み上げられた本の山。
古い、中古本だろう四六判も少なからずある。
あちら、こちら、と、無数の古本を重ねた塔が乱立している。
「物置みたいでしょう」
実際、そうだったの。倉庫扱いされていて。
子供の頃、母がね、アロマの教室を開いていたから。
「大きい本棚が、入らなくて」
埃っぽい匂いは、本棚に収まり切らない本の臭気。あの、図書館の匂いと。近しいものを感じながら、私は畳の縁を避けて進んだ。襖のそばに、簀子を組み合わせた、折り畳み式のベッドが追いやられていた。押入れの前に、彼女がベッドを出し、毛布と羽毛布団を剥がしてのける。
そこに、図書館でするように、二人で並んで腰をかけた。
「本が、好きなんですね」
話題に迷い、そう呟いたときだった。
とたん、時が止まった。寒々と。空気が、凍てついた。
暖房が効いている、ことも。にわかに忘れるほどに、冷たく。
私のほうを、つい、と向いた顔を忘れはしまい。ああ、なんと非情な美しさ。目が合えば、誰もが凍りつきそうな。冷徹な表情を、真白く透き通るおもてに彫り込んだ。氷像のごとく、冴え冴えと美しいかんばせ。静かな、厳粛な声で、彼女は魂までも凝らせるように断じた。
「好きよ」
だって、小説は裏切らないから。
書かれた、言葉は。姿を変えることはないでしょう。
「美しい文章は、褪せたりしない。醜く、老いさらばえることもない」
だから、好きよ。
そういうものでなければ。わたしは、愛せないの。
「永遠に、変わらないものがいい」
わたしを、裏切らないものがいい。
文章が、いいの。言葉の連なり。かくあれと綴られた文字の羅列。
「人間なんて。所詮、いつか、腐るさだめのものよ」
彼女の指がおもむろに本の山を示す。
その頂上に、置かれていたのはやはり一冊の古本だった。
著者は、森茉莉、題名は『甘い蜜の部屋』。三方背の、化粧箱に仕舞われていた。その箱のおもてに、まるで、浮彫のような細密画。金色に近い、黄土色で塗り分けた。四六判の表紙に、やはり金文字の明朝体で題名が記されていた。背表紙は、豪奢な金の箔押しが目立つ。
「あの本、美しいでしょう」
彼女は、細めた目で、本の山の頂を見つめながら呟く。
香り紙に火を点け、じりじりと炙るような、燻るような色めいた声で囁いた。
あれがね、わたしの理想。「わたしの、理想とする言葉」
ただ、美しく。傲慢に。美しく在れ、と。
紙幅のすべてを費やして。それだけを、突き詰めたような文章。
「わたしはね、ずっと、ずっと、そういう、美しい言葉になりたかったの」
彼女が、私を見据えた。
ひた、と捉えて、そして角野美紅が告げる。
知らぬほうがよいことを。知らぬが仏、と思わずにおれない真実を。
「だから、あなたに近付いた」
雪平冬生さん。ゆきひら、ふゆきさん。
名前を呼ぶ。その声が。凛と、凛々と凄味をやおら増していく。
私は、なにか、怖ろしいことを知ろうとしている。そのことに、ようやく気が付いたが。耳を塞ぐことは出来なかった。身体は、最早冷たい屍のようだった。霜にまみれ、硬く、硬く、氷のように凍て付いた。まるで、凍死体のように、手足の先から血肉の熱が失せていく。
私という、哀れなむくろは、しばれてしまって動かない。
「あなたがね、インターネットに投稿した小説を読んだの。ああ、このひとだ、って思った。わたしが、出逢うべきひとは。このひとだったんだ、って。とても短い、ほんの掌編だったけれど。だって、短くたって、あんなに綺麗な文章が書けるなんて」
でも、まだ、原石みたいだった。
路傍に紛れた玻璃。わたしが、見出した。水晶の、原石。
「言うでしょ、瑠璃も玻璃も磨けば光る。わたしにはすぐにわかった。まだ粗削りだけど、磨けばもっと美しい文章を書くに違いないって。そんなひと、きっと出会えないものね。ただ生きていても、本物の作家には、物書きには出会えるわけないもの」
だから、わたし、これは運命だと思った。
それで、作者の、名前を調べたの。「最初は筆名かと、思ったけれど」
私は、場違いにも、己の名前を笑いそうになる。
まるで、生まれた時から。作家の、落伍者のような名前だった。
「本名だったのね。それで、すぐに判った。俳句のコンテストで、賞を取っていたから。受賞者の氏名と、在籍する高校の名前までわかった。それに、わたし、あなたの顔を知っていた。ねえ、あなた、電車の中で小説を書いていたでしょう」
思い出すまでもない。よもや、窃視する人間がいたとは。
通学の電車で、たまにメモを書き付けていた。スマートフォンを使って、それらの走り書きを、投稿サイトに投稿したこともある。手慰みの、慎みのない悪癖だった。今思えば、短慮が過ぎる話だった。誰も見てはいないだろう、と愚かにもたかをくくっていたのだ。
「わたし、あなたの小説に恋をしたの」
それでね。
ああ、わたし、このひとに書いてもらいたいって。
「解るでしょう?」
頷くことも忘れていた。ただ、すべてが腑に落ちた。
彼女は、角野美紅は。角野美紅、といううつくしいおんなは。
私を通じて、美しい言葉に翻訳されたかったのだ。私の手で、文字として書き起こされることで。彼女が、美しいと、綺麗だと心底認め得るに足るものに。そんな小説に、文章に、言葉の羅列になろうとしたのだった。理想の言葉に、絶対的な美の化身となることを求めた。
「小説に、なれば。その中の、人物になれば」
私は、永遠に、美しいままでいられる。
色褪せることなく。醜く老い、腐り果てることもなく。
「美しい言葉でいられる」
だから、近付いたの。
わたしに、興味を持って貰えるように。
「そして、あなたが、もっと、もっと美しい文章を書けるように本を薦めた」
谷崎潤一郎、夏目漱石、そして森茉莉。そのほかにも、彼女が薦めた作家や小説は幾つかあったが。どれも、彼女が理想とした作品だったのだろう。泉鏡花や、萩原朔太郎、近代の詩歌集もすべて、女の肖像に相応しい言葉を選りすぐったものか。
狡獪な女だった。
なんと、あくどく。狡辛い女だったのか。
私の本棚には、彼女の推選した古めかしい本ばかりが増えた。
文章は、しだいに磨かれていった。練磨され、彫琢され、彼女の望みどおりに敲き上げられていった。いつしか、玉鋼の輝きを得ようとしていた。すべて、計算ずくのことだったのだ。彼女の、意のままに、私はただ人形のように繰られていただけなのだった。
そこまで、考えて。私は、ようやく。
「雪平さん」
ふいに、身体が揺れた。
彼女の顔が、私の目の前に艶然と迫るのが見えた。
黒髪の、その細い筋が、墨のようにしたたる。つややかな、墨を含んだ毛先が頬に触れる。それだけで、頬が、身体が、否応もなく火照った。まるで、血が沸くような。彼女の黒髪を、束ねた化粧筆が、くれないの頬紅をほどこしていく。
白い指。押し固めた雪のような。冷えた指が、乾いた唇のうわべを這う。
私は、押し倒されたまま、見惚れるように赤い唇を見つめた。硬く閉じた、椿の蕾が、甘やかに咲きそめようとしている。そうして、割れた蕾の、僅かに綻びたはざまから、とどめていた熱い息が溢れた。香気のような、かぐわしいほどの色気が吐息とこぼれ出る。
紅色の唇が、二枚の柔らかな花弁となって開く。
耳元で、彼女が淡くささやく。雪平さん。「ゆきひら、ふゆきさん」
冬生まれゆえに、冬生と名付けられた。その名前を、愛おしそうに呼んで。
わたしはね。あなたが書く、小説が好きだったの。
「ずっと、ずっとね」
小説に、恋をしていたの。
あなたの書く、文章に。わたし、恋をしていたんだわ。
私は、ただきつく瞼を瞑って口を噤む。瞼裏の闇を、縋るように見つめていた。どうか、と乞いながら思う。ああ、ああ、どうか。もう、何も言わないでほしい。これ以上、なにも知りたくはない。知ってはならない。その先を、聞けば、私はきっと呪われてしまうのだろう。
けして、忘れられなくなると。おぞましい、悪寒のような予感があった。
「わたしを、書いてほしいの」
あなたの綴る、言葉に変えてほしい。
この體も、この心も。わたしという、人間をすべて。
「お願い」
彼女の、唇が、私の口を塞いだ。
喉の奥で、拒む言葉が飲み込まれていく。
そんな呪いは、聞きたくない。書いてほしい、だなんて。
裏腹に、その口付けに興奮してもいた。椿の蕾だと、思っていた。その、くれないの唇は、もうすっかり開いた花弁だった。甘い、あまい、真紅の花びら。それを、そっと食むように、目を瞑ったまま味わう。乾いた唇を覆って、惜しむでもなくあっさりと離れた。
生き血の、熱。ほんの、刹那の出来事だった。
「ねえ、いつか、書いて頂戴ね」
言葉のうち、どれだけが。真に、血の通ったものだったのか。
それすらも、分からない。
私は、ようやく、彼女が「人でなしの恋」を、面白いと言った意味を理解した。人ならざる、美しいものに、浮世人形に恋をする男を描いた物語。角野もまた、人ならざるもののみを愛する人間だった。生身の、人間ではなく、人の道理を逸れた物語ばかりに恋焦がれる。
納戸のような部屋で、私は彼女を見上げていた。
首筋は、嘘のように白く。知らぬ、甘い匂いをはなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。