第3話
私はただ、毎晩、日記を書くという自慰に耽っていた。
夜毎、夜毎、紙面を文字で埋めた。そうして、綴ることで、己を甘やかし、ふしだらにほしいまま慰めていた。物を書くことは、自慰に似ている。放縦で、淫蕩だったのだ。ただ自らが、気持ちよくなるために書いている。そうして欲に随って、意のままに若い娘を貪った。
現実では手に入らぬものも。現実では、叶わぬことも。
白紙の上では、幾らでも満たされる。物語を綴るのは、都合がよかった。
彼女に、物を書く、気分を問われたとき、舌は縺れたまま動かなかった。なんと卑しい、ふしだらな女だろう。外道なら、私のほうが、よほど恥知らずの外道だ。彼女のことを日記帳に書き付ける。それは、己の自慰に、用いていたのとなんら変わらない。
彼女に抱いた、醜い情念の。
くれないの。赤い、赤い、色情の、憂さを晴らしていた。
それから、どんな顔をして。辺鄙な、家までの、帰り道を辿ったのだろう。
「おかえりなさい」
母が、私を見慣れた玄関口で出迎えた。
数年前から、専業主婦になった母親。父は、零細企業のサラリーマンだ。
夕食の匂いが、右手に細く開いたドアから漂ってくる。南瓜の煮物だろうか、甘辛い、醤油を炊いたような匂いがする。味噌汁と、ほかに主菜があるのだろう。平穏な気配が、建売の一軒家を浸している。一階の右端には、台所付きの、リビングダイニングが陣取っていた。真正面にはなんら変哲のない折り返しの階段。登校前、埃をかぶっていた床が綺麗になっていた。
「ただいま」
返事をして、踵の磨り減った黒い革靴を脱ぐ。
端に靴を揃えてから、上り框で脱臭炭の小袋を詰める。そのまま、背中越しに、母親とのいつものやり取りを済ませた。学校はどうだった、やら。図書館での勉強ははかどったか、といった類の、そんなつつがない日々の確認をされるだけのことだ。
冬用の、ボアのスリッパに両足を入れる。
「冬生。今日、なにかあった?」
ふゆき、と呼び止められた。
母親、というものは、よく鼻の利く生物だ。
私は、階段の三段目に、片足を乗せたところでゆっくりと振り向いた。
私の本性を、いまだ知らないのに、女としての変態は鋭く察する。聡明とも、穎悟であることとはも違う。ただ、女としての本能のような。鋭敏な、嗅覚のようなものなのだろう。その聡さを、巧みに欺くすべを、私は落伍者なりに熱心に培ってきたのだった。
黒髪の御簾が、私の横顔をうっそりと隠してみせる。
「特に」
なにもない。
変哲のない、一日だったよ。
答えると、母は訝しげに眉を寄せた。「でも、顔が」
赤くなってるわよ。まさか、恋じゃあるまいし。
ぴくり、と瞼が痙攣した。短い睫毛が、私の慄きに合わせて震えている。
「あなた、本の虫だもの。恋なんて、しそうもないものね」
女の勘。女の勘、というものは。
時々、とても、おそろしいほどによく当たる。
「ご飯はあとでいい? ああ、お風呂だけ洗っておいて。洗濯物は、部屋に置いてあるから。後でちゃんと畳んで、箪笥に仕舞っておきなさいよ。ねぇ、せめて宿題くらいはやってるんでしょうね。来年は受験なんだし、ちゃんと本腰入れてくれないと」
私は、うん、となおざりに相槌を打った。母は頷くと、暖房のかわりに、石油ストーブを焚いた居間へ引っ込んでいく。見れば、真横に鏡があった。玄関に据え付きの靴箱は、上半分が鏡台になっている。ぽかん、と呆けたように鏡を見つめた。
制服姿の、地味な女生徒。どこにでもいる、生真面目そうな女。
平々と、凡々とした、どこまでも矮小な姿だった。奥二重の目、太い眉毛、それから少しだけ潰れた鼻。人並みの、どれをとっても凡庸な顔だった。醜くもないが、けして美しくもない凡人の見本。ただ、乾いて、痩せた頬だけが。赫々とくれないの血色を差していた。
綺麗に色めく、紅潮した頬。まるで、紅粉を叩いたような。
「どうして」
声が、頼りなく震えた。
それは、恋する乙女の。娘の、証のように火照っている。
細々と、吐き出した息すら熱い。ああ、これが劣情か。醜く、卑しく、そしてあさましい人身の熱。真紅の、ふしだらな色情。紅色の熱。くれないが、身体の髄を燈芯のように燃やしている。その、火種を孕んだ胎が、やたらに生き血を滾らせているのがわかる。
これは、恋ではない。断じて、恋などでは。ないのだと。
「違う」
違うもの。
ぼそぼそと、まじないのように繰り返す。
頬が赤いのは、羞恥のせいだ。断じて、ほかに理由などない。
彼女に、物を書くという、己の趣味を知られた恥辱のせいなのだ。まさか、彼女の言葉を真に受けたわけはない。小説が、読んでみたいと。そんな、気紛れのような物言いを、鵜呑みにして、惑わされたはずはなかった。一瞬でも。颶風に舞い上がった、はずなど。
「わたし、あなたの、書いた小説が読んでみたいわ」
耳の奥で、彼女の声がする。なんと愚かな。
私は、節操のない淫売だ。本を読むのは、孤独になるため。
ならば、物を書くのは。────己の、色狂いを、慰めるためか。
彼女に出会う前から、私の癖は変わらなかった。自慰癖。物を書く、という手慰み。それとも、やはり手淫、という言葉で呼ぶべきか。現実は、生きづらかった。ただ、真っ当な、人の模範を遵守しながら生き永らえてきた。
十六年間、惰性のように、日々をやり過してきたのだ。
物語は、魅力的だった。自分を、甘やかせることに気付いた。
どんなものも、手に入る。望めば、望むだけ。妄想が、文章に取って替わった。
言葉で作られた箱庭の中で、私は自堕落に身を持ち崩していった。そのみだらな悪癖は、彼女に出会ってから、まざまざと、紅色の、くれないの色情を帯びていった。赤々と、生き血の滲む。椿の唇が、焦がれるほど欲しかった。私だけが、彼女の特別なのだと思いたかった。
「恋じゃない」
壁伝いに、右手をついて階段を上がる。
二階には、両親の寝室と、その東側に、短い廊下を挟んで自室があった。
赤らんだ頬を、拒むように自室に転がり込む。左の窓際に、勉強机と、小さな本棚を置いてある。私は、右隣のベッドに、辿り着く前に堪え性もなく折れた。鼓動が、
事切れた、とさえ、思うように力が抜けていた。
眩暈のように、冷たい床板に崩れ落ちる。尻をついても、まだ動けない。
それでも、かろうじて、自由の利く指先でポケットの中身を漁る。鍵を、玄関口に置き忘れた。そのことを、ぼんやりと、逃げるように思い出す。けれど、凍えて、強張った指の腹に何かが触った。薄い、薄い紙片が、かさりと乾いた音を立てた。
つまんで、掌の中でそっと開く。破られ、小さく折り畳まれた手帳の頁。
「今度の日曜日、うちに来ませんか。図書館で、午後の二時に」
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