第2話

 私たちは、三ヶ月のあいだ、不思議な関係のまま繋がっていた。共に出掛けることも、メールアドレスを教え合うこともない。もちろん、手紙の一通さえ。昔の、女学生たちのような。そんな、秘めごとめいた、文通や、交換日記の遣り取りさえもなかった。

 図書館で、会うだけの。互いに、読んだ本の感想を話すだけの。

 それだけの、関係が、ゆるゆると続いた。

 弛んだ糸のように。途切れず、ただ自堕落なように。

 選書は専ら、彼女が自ら手ほどきした。私には、特別、本の好みはなかった。選り好みをしないぶん、彼女の嗜好に自然と添っていった。私の自室の、隙間だらけの本棚にも、彼女の薦める本が増えた。本棚を眺めながら、ひとり、夜更けに悦に浸ったこともある。

 悪酔いに似た、酩酊じみた優越感。

 私だけが、知っている。他の誰もが、知らぬ姿を。

 知らぬ心のうちを。知っている、という優越は悦楽に等しい。

 ふたりで、分かち合っているのだと思った。森茉莉、夏目漱石、谷崎潤一郎。彼女の推薦図書は、もっぱら近代文学が多かった。それが、ことさら稚気じみた優越感を誘った。そう信じていたから、私は、この関係を、正しく糾すこともしなかった。

 通学電車で会っても、挨拶も交わすことはない。

 花が、果実が、腐るような逢瀬。そればかりを、暗黙のうちに繰り返す。

 彼女とは、通学に使う、私鉄の路線が同じようだった。ある日、地元の私鉄の、準急列車の車内で気がついた。彼女は、赤い車輌から、さびれた無人駅へと降り立っていく。ある朝、私はふと、偶然にも車窓の外を見たのだった。型落ちのスマートフォンから、ひそやかに顔を上げた。

 制服の群れに、角野の後ろ姿が混じっていた。

 ひっそりと。ひっそりと、息を、影を潜めて消える。

 そのことを、図書館で指摘すると、彼女が目を眇めて笑んだ。

 毎週、金曜日に待ち合わせをした。市立図書館の、薄暗い廊下で会うことが多かった。私語厳禁の館内で、そこだけが話の出来る場所だった。夥しく、蜘蛛の巣の張った蛍光灯が、私たちをまどろむようにぼんやりと照らしている。彼女と出会って、一ヵ月と半月が過ぎていた。

「目立っても、いいことないもの」

 女子高だしね。

 共学よりは、ましかもしれないけれど。

「浮くよりも、沈んでいる方がいい」

 その言い回しは、駅で見た、彼女の姿に似つかわしかった。ぱ、ぱたぱたっ、と急ぎ足に、ホームにむらがる女生徒たち。黒いコートで、着膨れをした。ハクセキレイたち。黒と、白の、小鳥のような。それがわらわらと、改札を通り抜け、女子高を目指してかしましく歩いていく。

 黒い小鳥の、群れに。

 紛れるのは、きっと、難しいのだろう。

 私のような、平凡な人間にはわからないことだ。私と違って、彼女は、角野は綺麗な顔をしていた。二重瞼に、黒々とした豊かな睫毛。高く、すらりと滑らかな鼻筋。なにより、あのくれないの唇が。硬い、硬い、椿の蕾のように閉じた唇。女の妬みを背負わされそうな軀だった。

 あれほどに上手く、馴染んでいるのが不思議なほどだった。

 口から、相槌のように言葉が洩れた。

「沈んで……」

「身を潜めて、いるほうが」

 人間のふりをするのって、疲れるじゃない?

「平凡な、人間のふりが?」

「そうじゃなくて」

 ただ、人間であることが。

 真っ当な人間。人間のような人間。

 かくあるべき、と定められた人の姿であることが。

 私は、ああ、と呻くように呟く。すとん、と言葉が腑に落ちるのがわかった。

 人の、人間のふりをするのは、とても難しいことだった。かくあれという、まっとうな人間としての鋳型。それに、自分を押しつけても、出来の良い塑像とはならないのだった。朝起きて、電車に乗り、授業を受けて帰ってくる。それだけでも、身が腐るほどの、懶い憂鬱を覚えずにはおれない。親が、教師が、あるいは日本という国の社会が。

 求める、人間のありかたを。

 まっとうすることを。困難だ、と感じていた。

 私は、生きることに向いていないのではあるまいか。とうに、私という優等生は気づいていたのだ。勉強に励めば、違和感を嗅ぎ付ける者はいなかった。いたとしても、それを面と向かって糾すほどのことはしなかった。利口でさえいれば、平穏につつがなく生きていけたのだ。

 学歴とは、とても便利な代物だった。

 私を巧く包んで、周囲の面罵から守ってきた。

 けれど、素知らぬ顔をして、私は彼女にむかって抗弁した。そのことに、同意すれば。私はいよいよ、角野という女に嵌り込んでしまう。底なしの、まるで沼のような。ぬかるんだ、女の深みに。足を取られることが怖ろしいと。思うことが、私の最後の理性だったのだろう。

「それじゃあ、まるで、よほどの変態か気狂いみたい……」

「そう?」

 あなたなら、解ってくれると思ったのに。

 雪平さん、と彼女が名前を呼ぶ。

 ゆきひらさん。

 甘たるい、甘たるい、酒に酔った女のような声が誘っている。

「あなただって、人間のふりは疲れるでしょう」

「どうして」

 どうして、そう思うんですか。

 拒まなければ。拒まなければ、と私は唇を噛み締める。

 そうしなければ。きっと、私は、角野に呑まれる。呑まれてしまう。

「好きではないんでしょう?」

 人間のことなんて。

 だから、ひとりが、好きなんでしょう。

 言い逃れることが出来ない。ああ、それは、私の心髄にほかならぬ。

「孤独を、愛しているんでしょう」

 私には、もう、逃れる言葉が見つからなかった。最早、免れようがない。彼女は、角野美紅は、とても周到な女だったのだ。なんと、あくどい。まさに外道。若い娘の姿をした、外道。熱い血潮も、鹹い涙も、まるで通わせたことのないような物言いだった。

 あまりにも、あまりにも、非情な人でなしだった。

「わたしと、同じね」

 わたしも。

 人間なんて、好きではないの。

 その時になって、ふと、彼女に問われた科白を思い出した。

 好きなものは、なにかとの問いかけ。あなたは、どう。あなたが、好きなものはと角野は言った。私が答える前に、乾いた唇を雪のような指で閉じた。好みの作家も。気に召した、本の題名すらも。それらは、すべて、彼女のうわべにすぎない。

 胸中に秘めた、まことの真髄ではないのだろう。

 図書館が、好きだということも。

「角野さんの」

 角野さんの、好きなものは。

 私は迂闊にも、踏み込んでしまった。

 蜜を湛えた沼のような。そんな、生々しい女の深みに。

「わたしが、好きなものはね」

 言葉だけよ。

 文章だけが、わたしの愛するもの。

 ねえ、雪平さん。

「あなた、」

 物を、書く人でしょう。

 小説を。物語を、綴るひとなんでしょう。

「わたし、あなたの書いた小説が読んでみたいわ」

 いつから、気付いていたのか。

 椿の、蕾の唇が、その花弁の尖端をそっと開く。

 彼女が、角野美紅が、莞爾とした笑みを目前に晒していた。

 彼女の前で、そんな素振を見せたことはない。明かしたことなどなかったのだ。誰にも。誰にも、気取られたくはなかった。私と、血を分けた両親でさえ。この悪癖を、明かしたことはなかった。世話の焼けぬ、ごく真面目な、品行方正な子供のふりをして生きてきたのだ。勘付かせるような、真似も。いちどたりともしたことはない。

 読書好きは、優等生の証だが。

 物書きは。生まれついての、落第生の証。

 私は、落伍者なのだ。どこまでも、生きるに向いていない。

「物を書くのって、どんな気分」

 私はまた、返事につかえた。

 ろくな気分ではない、ことだけが。確かな、ことだった。

 彼女のことを、日記帳に綴っていた。私の、目の前に、現れた日から。ずっと、書き付けてきたのだった。白い、まるで雪のような指。うつくしい顔、そして、血の露を蓄えた椿の唇。うなじに、細い首筋に、しどけなく垂れかかる髪。

 書いてみたい、と思ったことを。

 否定は、しない。いつか、書こうとしていた。

 彼女と。角野と、結ばれる、そんな愚かな恋物語を。

 黒いゲルインクの、ボールペンで。書き付けたのは、己の妄念だった。

 決してならぬ、かなわぬことだとわかっていたから。これは、恋などではないと。恋よりも、なお。醜く、賤しい劣情。若い身空で、熱い生き血を滾らせて。燃やしているのは色情。赤い、くれないの、なによりも鮮やかな情欲だ。

 そんなことは、もうとうに、悟っていたのだ。三十五行の、罫線の間に、几帳面な字を埋め尽くしていった。ただ、己の欲を、満たすためだけに。目の詰まった癖字は、私の妄執の証のようだった。彼女が、人でなしなら。私は、筋金入りの、人でなしの外道なのだろうと思う。

 同病相憐れむ。ああ。これは、きっと外道の恋だ。

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