人並みの恋

蘆 蕭雪

第1話

 椿の、唇。つばきのくちびる。

 そんなものに、恋などしなければよかったものを。

 彼女と出会ったのは、冬のはじめ、地元の旧い市立中央図書館だった。

 そこは、急勾配の、長い坂道の途中にあった。住宅街を折れて抜け、最後に壁のような坂を超えると、県内でも屈指の公立高校が聳えていた。猛勉強の末、狭き門をくぐり辿り着いた母校となるべき学び舎。これから、生真面目に通い詰めるべき県立の高等学校。

 生徒でなければ、出会うわなかったのだろうか。

 この、建て替えの決まった図書館に。立ち寄ることも、なかったのか。

 茶色い、タイル貼りの、二階建ての図書館だった。昔ながらのタイルは、森永のミルクキャラメルを、少し焦がしたような色目をしていた。キャラメルを積み上げた、と喩えるのは、過分かもしれなかったが。私は、その古臭い外観も、埃っぽい館内の匂いも嫌いではなかった。

 時代錯誤なほど、古びた。古ぼけた、図書館。

 館内は、いつもうっそりと物憂げに青暗く澱んでいた。白い埃となった、時間のかさが、うずたかく掃き溜まっているかのように静かだ。美術館も併設されていたが、それでも、書道展や、市民絵画展などの、催事の期間中ですら人影はまばらだった。

 そんな人気のない、寂しい空間ほど、どうしようもなく好ましかった。

 私は、孤独を好む人間だった。孤独を好み、ゆえに孤立することをいとわない。読書が好きなのも、そのせいだ。ただひとりでいるよりもずっと、孤独になれる。言葉の砂山の中で、私はひとり生き埋めになる。読書をしているあいだだけは。

 だと、いうのに。何故、惹かれてしまったのだろう。

 国内文学の棚を、横目にして、静かに行き過ぎようとした。

 彼女は、書架の間に、ひっそりと佇んでいた。天井の蛍光灯が、ほとんど、風前の燈のように切れかかっている。ぱっ、ぱっ、と虫の息で、浅い瞬きを繰り返す。その、絶え絶えの光、本棚の薄暗い狭間に、濃紺の制服が影法師となって滲み出していた。

 どこの生徒かは、後姿でもすぐに判った。

 靴下に縫い取った、十字架の校章。白百合を象った刺繍。

 地元の人間なら、そのエンブレムを見るだけで誰でも気づく。確か、礼拝堂もあるという、私立の、カトリック系の女子高等学校。私の乗る、通学の電車でもよく見かける。濃紺の制服の女生徒の群れと同じく。清楚そうな、膝が隠れるプリーツスカートの裾に折目がついている。

 私の眼差しに、気が付いたのか。

 彼女が、やにわに、縛っていた髪を解いた。

 何気なく。とても、さりげなく。けれど、ぞっとするほど艶やかな。

 露わになった、そのうなじは嘘のように白く。首筋に、鴉の濡れ羽のような、黒髪がしなだれかかる。艶めかしく、ぞっとするほどうつくしい髪の流れ方に肝が潰れた。なにか、そら恐ろしいような。ごく何気ない、それだけの仕草だったというのに。

 娘が、女になるような。

 私が息を止めるのと、同時に、彼女がようよう振り向いた。

 椿の、唇。やたらに、赤い。硬く閉じた、椿の蕾のような唇だった。

 そのとき、ふっと、赤い蕾が綻ぶのが見えた。冬の空気に、皮が乾いていたのか。ぷつり、と糸切歯に当たった下唇が裂ける。すると、たちまち花弁が綻ぶように開く。それから、蕾の中にとどめた、かぐわしいような、甘い呼気を唇から吐き出した。

 裂けた傷口に、朝露のような血が浮かぶ。

「角野」

 かどの、と彼女がささやく。

 それが苗字だと、私は一息の間を置いて悟った。

 片隅に、人はおらず、ささやきは薄闇に馴染んで耳に届いた。ぼんやりとしている間に、彼女が、引き攣れた唇の傷を慰めるように舐めた。生き血の滲む、なまめかしい紅色の椿のごとき唇。くれないの、甘やかで、ひそやかな吐息がこぼれ出でる。

 溢れた血を、舌が掬い取っていった。

 角野美紅。かどの、みく。わたしの、名前、と真紅の唇が動いた。

「あなたの名前は?」

「ゆ、」

 ゆきひら。ゆき、ひら。

 雪平です、と朴訥につかえながら苗字を答える。

「そう」

 可愛い名前ね。雪の、ひとひら。

 ああ、その言葉が。これほど、呪いのようだとは。

 かすかに笑んでいた。彼女が、微笑んだまま角野が口にする。

 ぞくりとして、私は両の拳を握りしめた。奥歯を噛み締めていた。それでも、なお噛み殺せぬのは。まるで、生々しい怖気のような。あるいは、血腥い劣情のような。背骨の奥、その骨の髄を、ぬらり、ぬらりと、二日目の経血のように流れていく。

 私の平板な下腹が、甘く、痺れるように疼く。

 熱を、熱を孕んで。やたら赤い。くれないの、熱が。

 私は、自分が怖ろしくなって黙った。口を噤んでいなければ。そうでなければ、歯の隙間から、微かに開いた、唇のあいだから、卑しい熱が、密かに漏れ出でてしまう気がした。熱い、熱い、熱の吐息。くれないの、あさましい色をした。

 そんなものが、己の口から、吐き出されるのが怖ろしかった。

 娘が、女に。

 彼女は、勘付いていただろうか。

 本を携え、角野がやおら近づいてくる。間近で見ると、やはり端整な顔だった。そして、その端整さと、等しく釣り合う出で立ちだった。濃紺の制服も、女子高らしく端正に着こなしていた。丸襟のブラウスは、白貝のボタンを首口まで閉じてある。

 そこに留まった、紺色の蝶々。細いリボンを、蝶々結びに締めていた。

 なまめいた色気を、薄氷のように溶かして人懐こそうに言う。

 それらの、どこに。あの色気を秘めていた。

「雪平さんも」

 雪平さんも、本が好きなの。

 本が、と問われ、再び言葉に詰まる。

 私が本当に好んでいるのは、孤独だ。そのために、本が、読書が必要なだけだ。読書家ではあるかもしれない。けれど、それは、本好きであることの証左ではなかった。書物を、愛しているかと。問われれば、私はきっと否と答えるべきだろう。

 その程度の、浅はかな自覚ならば持っていた。

「本が、好きなわけでは」

 そういうわけでは、ないのですが。

「じゃあ、ここが?」

「ここ、というと、図書館……も嫌いでは、」

「ないのね」

 はい、と項垂れるように頷く。

 彼女の調子に、最早すっかり搦め取られていた。見えぬ糸のように、その口吻が、私の耳に絡みついて動けないのだった。絹を縒った、まるで上等な刺繍糸を擦るような。控えめで、つつましい。それは、けれども、悴んだ耳朶を愛撫するように柔らかく。

 私は悪い女に、捕まったのかもしれぬと思った。

「わたしはね、」

 わたしは、好きよ。

 そうでなければ。ただ、単に。恋を、覚えただけなのか。

「本が好きなの。読書もね」

 そうして、私に本を差し出しながら彼女が言った。彼女の私物だろう、鮮やかな真紅の小さな文庫本。銀の箔押しが、その赤い紙の中央でぎらりと光っている。新潮文庫刊『江戸川乱歩名作選』*。私も、漫画などに愛用している、透明なビニール製のカバーがかけてあった。

 これが、面白かったから。江戸川乱歩の本を借りようと思ったの。

「『人でなしの恋』」

 私はね、それが面白いと思ったんだけれど。

 あなたは、どう。あなたが、雪平さんが、好きなものは。

 そう言って、彼女の指がふいに唇に触れた。五本の指は、いずれもきりりと白かった。まるで、真新しい雪を、きつく押し固めたような。暖房の効いた室内でも、凍てついたままだった。そうっと、人差し指が、唇の真ん中を綴じるようになぞる。

 雪のように、白く。氷よりもなお、いっそう冷たい指が触れている。

 悴んだ、指先だけが、くれないの熱を秘めていた。

「それ。よかったら、貸してあげる」

 ああ。

 出会うべきでは、なかった。

 あなたが、人でなしだと。もしも、知っていたのなら。

 恋など。恋心など。人並みの熱を。色狂いを、知らずに済んだものを。

「感想を聞かせてね」

 私と彼女、角野美紅とは、そうして真冬のはじめに出会った。

 今になって、これが偶然ではなかったと笑いそうになる。ああ、あの女、あの血の通わぬおんな。忌々しい、椿の唇。そんなものに、恋などしなければよかったものを。私は、この時の私は、角野にすっかり恋をしていたのだった。やたらに、赤い。つばきの、くちびる。


 【注釈】

* 『江戸川乱歩名作選』 江戸川乱歩著、日下三蔵編、新潮社、二〇一八年

 

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