不明

謎崎実

不明

 アラームが鳴った。

 時計を見ると午前七時。起床の時間だ。

 今日は月曜日。また一週間が始まる。憂鬱だ。


 

 厳しい寒さが募る朝のバス停には多くの人が並んでいた。そのほとんどが社会人や学生で、定年を迎えたであろう高齢者の方はこの時間帯は見当たらない。

 しばらくすると、午前八時半発の青色の路線バスがやってきた。

 ほぼ毎日のように目にする、バスフロント上部の電光掲示板に表示された『133 南公園前駅』が長い一週間が再び始まると絶望感を与えてくる。

 

 いつもの如く、ICカードをかざして乗り込む。

 ここは出発地のため、車内の座席はガラ空き。いつものように、運転席のすぐ後ろにある一段と高い席へ向かった。

 しかし、そこにはすでに誰かが座っていた。

 自分の前に並んでいた誰かが座ったのだろうか、朝から気分が落ちた。

 仕方なく、その後ろの優先席に座り、いつものように外を眺めた。

 普段乗らない席だからか何処か新鮮で、前の座席の緩んだネジがこのバスの年季を感じさせた。たとえ同じバスでも、座る場所ひとつ変えるだけでこれほど違って見えるのか。

 

 車内アナウンスが鳴る。

 自分が降りるバス停が近づいていた。

 降車ボタンを押してバス停に着くのを待つ。

 今日も怠くて憂鬱な一日が始まる。

 曲がった背中をリュックと共に持ち上げ、出口へと歩いてく。途中、背負っていたリュックが前の席の人に当たったが、それよりも気怠さで謝る気にもならなかった。嫌な奴かもしれないが、そんなの俺にとってはどうでもよかった。

 ICカードをかざしてアスファルトに足をつける。会社はここから徒歩10分。クソ憂鬱だ。



 アラームが鳴った。

 時計を見ると午前七時。起床の時間だ。

 今日は火曜日。休日まで残り四日もある。憂鬱だ。



 今日も三番線のりばでいつものように列に並ぶ。

 時折吹き込む冷たい風が、全身を震わせ、必死にポケットの中にあるカイロを握りしめる。まだ朝を迎えて間もないが、早急に家に帰りたくなった。

 そんな冷たい停留所で凍えて待っているうちにバスがやってきた。

 今日はちょっと遅れていた。平日の道路はいつも渋滞しているため珍しくはなかった。


 いつものようにICカードをかざしていつもの席へ向かう。

 しかし、いつもは空いているはずのそこは、今日も誰かが座っていた。

 自分の前に並んでいた誰かが座ったのだろうか、寒くてすっかり見るのを忘れていた。

 それにしても早すぎる。最初からいるようにも感じた。だが、ここは終点。もしかしたら寝ていて、降りられていないのかもしれない。

 しかし、うちのパワハラ上司どころか、部下にもペコペコと頭を下げている俺に、声をかける勇気など一ミリもない。

 結局、昨日と同じようにその後ろの優先席へと座った。


 しばらく、外の景色を眺めていた。

 暖かい車内と柔らかい乗り心地のせいで眠気が襲ってくる。前の人みたく寝過ごしてはいけないと目を擦ると、車内アナウンスが流れた。

 自分が降りるバス停が近づいていた。

 いつも通り降車ボタンを押そうとしたとき、前の座席に自然と目が留まった。

 座席の背もたれに締められた、一本の溝の潰れたネジが、気のせいか緩くなっているような気がした。

 よく見てみると、ネジ頭と背もたれの隙間がかなり空いている。このバスのメンテナンスはちゃんと行き届いているのだろうか、少し不安になる。


「お降りの際は、お忘れ物なさいませんようご注意ください」


 いつのまにか、いつも降りるバス停へと到着していた。

 俺は急いで席を立ち上がり、ICカードをかざしてバスを降りた。



 アラームが鳴った。

 時計を見ると午前七時。起床の時間だ。

 今日は水曜日。ようやく週の半ばを迎えた。昨日は、皆の前でいつも以上に怒られた。憂鬱だ。



 いつもの三番線のりばへ訪れると、そこには人の姿がなかった。他の乗り場には何人かいるものの、それでもいつもよりは少ない。

 もしやと思いケータイで検索をかける。その予感は的中した。今日は祝日だったのだ。

 普段はこの三番線バスを利用する大半を学生が占めているため、一人もいないのだろう。

 羨ましい。

 うちの会社にとって祝日とは、ただの肩書きにすぎない。だが、おかげで先頭に並ぶことができた。今日はいつもの席に座れそうだ。

 しかし、そう思ったのも束の間。いつもの席には今日も誰かが座っていた。やはり、この男は寝過ごしているのだろうか。


「あの——」


 起こそうとする手が止まった。

 もしかしたらこの人も、俺みたいにブラックな会社で働いていて、心身ともに疲れ果ててしまっているのかもしれない。いや、本当はそんな辛い現実から少しでも長く逃げていたいのかもしれない。

 俺に声をかける勇気は一ミリもなかった。

 彼はどこか、俺と似ているような気がしたのだ。


 結局、後ろの優先席へと座った。

 だけど、何故か嫌な気分ではなかった。憂鬱ではあるけど、なんだか自分も頑張ろうと勝手ではあるが少し気力が湧いた。


 いつものように景色を眺めていると、車内アナウンスが流れた。降りるバス停が近づいている合図だ。

 スタンションポールに取り付けられた降車ボタンを押そうと手を伸ばすと同時に、あることを思い出した。

 前の座席の背もたれに目を向ける。

 一本の溝の潰れたネジが昨日よりもさらに緩くなっていた。少しでも引っ張ってしまえばすぐに取れそうなほどに。


 正直、一本のネジが大惨事を起こすかと言えば流石にないとは思うが、善意で締め直した。ドライバーではなく、素手で回したので完全ではないが、回るとこまで回して締め直した。

 

「あ、すいません降ります!」


 ネジに気を取られ、すっかりボタンを押し忘れていたが、口頭でなんとか伝わり降りることができた。

 大きな声を出すのは高校の部活以来だ。

 恥をかいた気がして気分が下がる。

 いつもより重く感じる背中をなんとか持ち上げて会社へ向かった。



 アラームが鳴り響く。

 起床の時間だ。

 今日は木曜日。

 休日まで残り二日を迎えた。昨日は車内で大声を出してしまった。祝日とはいえ、途中のバス停では数人が乗車してきた。

 しかし、今日と明日を終えれば待ちに待った休日。気分はそれほど落ちていなかった。



 いつも通り、三番線のりばで列に並ぶ。

 いつもの席に座る彼は今日もいるのだろうか。

 早速、大型車特有の排気音を鳴らせたバスがやってきた。

 いつものようにICカードをかざし、乗車する。

 前方に目を向けると、今日も運転席の後ろの一段と高い席には彼が座っていた。俺は自然とその後ろの優先席に腰を下ろす。

 気つけば、ここが俺の定位置になっていた。優先席のため、高齢者が乗車すると少し罪悪感を感じることもあるが、それでも悪くはなかった。

 折りたたみの扉が騒がしく閉まると同時にバスが動き出す。いつものように外の景色を眺めようとするも、先に目に入ったのは見慣れた街並みではなく、溝の潰れた一本のネジだった。

 気になって指先で触れてみると、ネジはぎっちりと締められていた。ネジ頭をなぞっても一ミリも動かないほどに固定されていた。どうやらバス会社の従業員が気づいたようだ。


 いつものように窓の外を眺める。

 程よいスピードで走るバスと、暖房の効いた車内はいつも眠気を誘ってくる。思わず大きなあくびが出た。

 そのとき、コロンと何かが床に落ちる音が響いた。

 何か物を落としたのかと床に目を向けた。すると、そこには一本のネジが転がっていた。前の背もたれに目を向けると、螺旋状に空いた小さなネジ穴があった。足元を転がっているのは、先ほどまで留まっていたはずの、溝の潰れたネジだった。

 コロコロと円を描くように転がるネジを拾おうと手を伸ばしたとき、鼓膜を貫く鋭い音と共に強い衝撃が全体に走った。



 霧がかかったかのように霞む視界。それはすぐに晴れた。

 気づけば仰向けに倒れて、目の前には真っ暗な天井が見えていた。どうやら自分が座っていた足元に転がっているようだ。

 意識が朦朧とするなか、なんとかうつ伏せになるよう体を動かす。前の背もたれに頭から突っ込んだせいか首が痛い。しかし、逆に首以外は痛みを感じなかった。アドレナリンで麻痺しているのか、怖くなって自分の身体を手で触る。首から下はちゃんとあった。

 とりあえずはバスから出ることを優先に考えた。

 そうして立ちあがろうと床に手をついたとき、突然と手のひらが滑り、床に頭を打った。

 ただ、それは不思議な感触だった。

 まるで、水たまりに顔を突っ込んでいるような感じがして気持ち悪い。衝撃でどこかオイルでも漏れたのだろうか。


 しかし、その正体はすぐにわかった。

 手のひらに感じるぬめり。

 暗くてもわかる、暖かくて赤い液体。

 最初は自分のモノかと思った。

 しかし、シートと前の手すりを使って立ち上がり通路に出ると、思いもしない光景が目に入った。


 フロントガラスから前の座席までペシャンコに潰れていたのだ。

 運転手はもちろん、俺の前に座っていたであろう男性の姿はない。唯一見えるのは、瓦礫と座先の隙間という隙間から流れ出る血液だけだった。

 そんな絵の具のような真っ赤な鮮血は、先ほど俺が寝転がっていた座席の足元へとそのまま滴り、血の海をつくっていた。

 血に染まった手で自分の顔を触る。

 顔に付着した大量の血を取ろうと何度も何度も擦る。感染症の心配など今更なかった。


 そして、いつのまに引火したのか車内は火で燃え盛っていた。瓦礫の山から噴き出る灼熱の炎はあっという間に俺の周りを囲う。冬なのにもかかわらず身体が熱い。

 神は絶望する暇すら与えてくれなかった。



 アラームが鳴った。

 時計を見ると午前八半時。寝坊だ。

 今日は金曜日。明日は待ちに待った休日だ。

 しかし、昨日は俺宛ての後輩の陰口を耳にしてしまった。それプラス今日は寝坊。憂鬱だ。



 いつもに増していて疲れているのか、悪い夢を見た。そして液晶画面越しに見えるソイツはいつも以上に顔色が悪い。


「俺、こんな顔してたのか……」


 しばらくするとバスがやってきた。

 時刻は8時55分。余裕で遅刻確定だ。


 ICカードをかざしてバスに乗り込む。

 いつものように、運転席すぐ後ろの一段と高い席へ向かうと、そこには誰も座っていなかった。それもそのはず、これは一本遅いバスなのだ。

 しかし、今日は何故かその後ろの優先席に座りたい気分だった。きっとあの悪い夢のせいだろう。

 俺は腰を下ろして、すぐさま前の座席のネジを確認した。


 そこに、ネジはなかった。

 違う車種なのかバスの外観も少し新しいような気がした。

 なぜかホッとした。正夢なんて信じちゃいないが、あんな夢を見てしまったら何も怖くなってしまう。

 

 そして、いつものように外の景色を眺めた。

 普段よりもゆったりと流れゆく見慣れた街の景色。反対車線を走る数々の車。道路や人。コンクリートで造られた擁壁。そして、リアガラス上部の電光掲示板に『133 南公園前駅』と表示された青色の路線バスが、コンリートの擁壁に正面から突っ込んで潰れていた。

 


 アラームが鳴った。

 時計を見ると午前五時。起床の時間だ。

 今日は月曜日。また一週間が始まる。

 先週、上司から遅刻した分、一時間早く出勤しろとの命令が下された。そのため今日はいつもより早起きをしなければならなかった。相変わらず憂鬱だ。



 いつものようにバス停を訪れた。

 早朝からか、平日にしては人が少ない。

 ニュースでは今週から寒波とのこと。

 ポケットに手を入れて寒さをしのいでいると、バスがやってきた。

 

 ICカードをかざして、いつもの一段と高い座席へと腰をかける。すると、暖房が効いているからか、座った瞬間に突然と眠気が襲ってきた。気づいた頃には夢の中へと入っていた。


 どれくらい寝ていたのだろうか。

 目を覚ますと、バスが停車していた。

 乗客が次々と、自分のそばを通って降りていく。

 左側の窓越しに見える停留所案内表示板には、いつも降りるバス停の名前が表記されていた。

 自分も降りようと急いで準備をしていると、車内に掲示してあるアナログ時計が目に入った。時刻は午前9時10分。それはいつも降りる時間だった。


「なぜ、早く来なかった⁉︎」

「お前は本当に何もできないな‼︎」


 そんな上司の罵声が聞こえたような気がした。

 また怒られる、もう怒られたくない。今まで気にもしていなかった、怒られることへの恐怖の感情が突然芽生えた。

 辛い、しんどい、怖い、死にたい……。

 たとえ身体は大丈夫でも、心はもう限界を迎えていた。

 そんな辛い現実から遠ざかろうと目を瞑ったとき、突然何者かに肩をぶつけられた。

 謝罪の言葉もない失礼な態度に苛立ちを覚え、思わず目を開けて鋭い視線を送る。


「あ、——」


不明ドッペルゲンガー〈終〉

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不明 謎崎実 @Nazosaki

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