不言の神と贄の白姫

安崎依代@「比翼」漫画①1/29発売!

消えぬ雪に永遠を誓う

 雪のようだ、という言葉を、ずっと向けられ続けてきた。


 その本物の『色』を、わたくしは初めて、己のまなこに焼き付ける。


「きれい……」


 わたくしがポツリと呟いた言葉に、わたくしを抱き上げた主様が柔らかく目元をなごませたのが気配で分かった。


 左腕にわたくしを座らせるような形でわたくしを抱き上げ、背中を支えるように右腕を添えてくださった主様は、綺麗に雪化粧が施された庭の中へゆっくりと踏み出していく。


 その歩みは、わたくしを抱えた重みなど感じさせないくらいに軽やかで。だけどわたくしをおもんぱかってくださっているのか、普段よりもずっとゆったりとしている。


 このお屋敷は、主様の御神域の中に存在している。本来ならば、人界の天候には左右されないらしい。主様のご気分ひとつで、一年中桜を咲かせ続けることも、瞬時に雷雨を呼ぶこともできるという。


 だけどわたくしがここに送り込まれてきてから、このお屋敷の天候はほとんど人界の天候に合わせられているらしい。今まで巡る四季の中で暮らしてきたわたくしに、なるべく同じ環境をと、主様が心を砕いてくださっているのだという。


 そのことをわたくしに教えてくださったのは、主様の御側近だという秋霖しゅうりん様だった。『主様には秘密ですよ。俺が姫様に話しかけたって知られると、おっかないですからね』なんて、秘密めかして教えてくださった。


 ──わたくしは、主様からそんな心遣いをいただけるような、上等な存在などではないのに。


 くすぐったいような感覚と、申し訳なさと、それらを覆い尽くす罪悪感。


 今でも時折胸にぎる感情を、わたくしはキュッと襟元を握りしめることで受け止める。


 ──わたくしがこのお屋敷に迎えられて、もうすぐ季節がひと回り巡る。


 その中で、たくさんの心を注いでもらった。主様からも、主様を取り巻く皆様からも。


 その心に癒されて、満たされて。今のわたくしは、人界にいた頃ほど、己がどうでもいい存在だとは思っていない。


 少なくとも、抜き身の懐剣を目の前に放られて『それで今すぐ喉を衝け』と言われたら、あの頃のように『さようですか』とすんなりと受け入れることはしないだろう。


 そんなことをしてしまった暁には、主様がお怒りになって人界がメチャクチャになってしまうことも、わたくしに心から仕えてくれている藤と萩が悪鬼としての本領を発揮してしまうというも知っている。


 だけどそれ以上に、わたくし自身がそんなことをしたくないと、思ってしまった。


 この温かな世界を、自ら積極的に手放すような真似はしたくないのだと、思うようになってしまった。


 ──なんて、我が儘になってしまったのだろう。


 そんなことを、思った瞬間だった。


 不意に、主様が足を止める。ユルユルと上がった右腕が、そっとわたくしの背を撫でた。


 熱を分け与えるかのようなその手付きにハッと視線を落とせば、主様は気遣わしげな目をわたくしに向けている。


「あっ……」


 主様は、極端に言葉が少ない御方だ。


 この地を封じる神として長く奉じられてきた主様は、言葉ひとつで簡単に世界を組み替えてしまうような力を持っていらっしゃるという。その力を意図せぬ形で振るうことがないように、主様は極力言葉を発しない。


 そこから生まれた呼び名が『不言ふげん様』。言葉を持たない代わりに強い御力を持った、強くて恐ろしい神様。


 だけど、言葉が少ないからと言って、感情がないわけではない。恐ろしい方でもない。


 言葉も表情も乏しい方だけれど、その胸の内には春のように柔らかな心をお持ちだということを、わたくしは誰よりも知っている。


「もっ、申し訳……」


 わたくしが考え事に気を取られていること。その考え事が明るい事柄ではないこと。その両方に、きっと主様は気付いている。


 とっさにわたくしは、主様にいらぬ心配をかけさせてしまったことを謝ろうと口を開く。


 だけどさらにあることを思い出したわたくしは、一度口をつぐむと言葉を改めた。


「心配してくださって、ありがとうございます」


『謝罪よりも、感謝の言葉の方が、主様は喜ばれますよ』

『主様は、言葉の力に敏感な御方ですからね』


 ここにきてしばらくの後、主様の心を汲むことができなかったわたくしに、藤と萩が根気よく教えてくれた、とても大切なこと。


 その教えを思い出しながら、わたくしは心配そうにわたくしを見つめ続ける主様の頬へ指を伸ばす。


「わたくしは、人界にある時、雪を直に見たことがございませんでした」


 主様の頬の輪郭を確かめるように指を滑らせ、そっと手のひらを頬に添える。そんなわたくしの動きを、主様は拒絶することなく受け入れてくれた。


「春の桜も、夏の蛍も、秋の紅葉も。このお屋敷に来てから、主様に見せていただきました」


 雪のような白髪と、血のような赤眼。


 忌み子として生まれたわたくしは、屋敷の奥深く、座敷牢の中で育てられた。


 わたくしが知っている四季は、景色の変化などではなく、ただの気温の変化だった。薄暗い格子を見つめて、ただただ息をしていただけのわたくしは、にえとなるべく引き出されるまで、世界がこんなに彩りに満ちた場所なのだということも、それを表す言葉も知らなかった。


 全部、主様が、与えてくださった。


「この身にはあまりにももったいなくて。そこまでしていただくほどの価値が、わたくしにはないのではと、今でも思うのです」


 正直に心の内を吐露すると、主様は不快を表すかのようにスッと瞳をすがめた。心なしか周囲の気温が下がり、不穏な風が吹き始めたような心地がする。


「ですがもう、手放せないと、思ってしまったのです」


 その変化を恐れることなく、わたくしは言葉を続けた。


『血の色だ』と忌まれ続けた瞳を真っ直ぐに上げて、一心に主様を見つめたまま。


「ここにいたいと、思ってしまったのです」


 そんなわたくしの言葉に、主様はかすかに目を見開いた。


 そんな主様に、わたくしは必死に言葉を続ける。


「この雪が、溶けて消えてしまっても。どうかわたくしを、主様のお傍に置いてくださいませ」


 わたくしが必死に紡いだ言葉を余さず受け取ってくださった主様は、そっと目を細めると心の底から嬉しそうに微笑んでくださった。続けてコクリと頷いた主様は、そっと右腕を伸ばすとわたくしを胸に抱き込むように抱え方を変える。


「消えない」


 主様の熱に、余らさず体が包みこまれた瞬間。


 ポツリと、わたくしの耳に、声が落とされた。


「庭の雪が消えても、お前は消えない」


 低く穏やかで、心に染み入るような。


 まるで春清水のような、主様の声。


雪子ゆきこは、私の傍から、消えない」


 その寿ことほぎの言葉に、わたくしは思わず目尻を熱くする。


 忌み子だから、そのまま忌子きこと呼ばれていた。そんなわたくしに『雪子』という美しい名前を与え、寿いでくださった主様。


 ここにいていいのだと。傍にいてくれなければ困るのだと。事あるごとに教えてくださった主様。


 主様が目を細めるように笑って愛でてくださるわたくしは、全て主様から与えられたものでできている。


「はい」


 だから、せめてその想いに報いたいと思う。


 恋い慕っていると同時に。同じ温かさを返せたらと、不相応にもそんなことを、願っている。


「傍に、おります」


 主様の首にしがみつくように腕を回すと、主様もわたくしに頬を寄せるように首を傾げる。雪が降りしきる中でも、触れ合った肌は温かい。


「藤と萩が、葛湯を用意してくれると言っていました」


 その熱にホッと息をつきながら、わたくしはふと思い出したことを口にした。


「主様も、ご一緒に……」


 そう口にした瞬間、不意にギュッとわたくしを抱きしめる腕に力が込められた。どうしたのかと顔を上げた瞬間、先ほどまで触れ合っていた以上の熱で唇を塞がれる。


「ふっ……んっ!?」


 驚いている間に、主様の顔は離れていった。


 必死に目をしばたたかせるわたくしの視界で再び像を結んだ主様は、ムスゥッと分かりやすく頬を膨らませている。主様がここまで分かりやすく、可愛らしく不服をお示しになるのは珍しい。


「あ、主様? どうなさって……」


 だけど、今のわたくしには、何が主様にとって不服だったのか、その心を汲み取ることができない。


 突然のことに目を白黒させるわたくしにフスーッと不満げな息をついた主様は、わたくしを抱え直すと再び足を進め始めた。


 屋敷とは反対側の方向……庭のさらに先へ進む方向へ。


「主様? あの……まだお散歩、なさるのですか?」


 わたくしが問いかけると、主様はスッとわたくしへ視線を向けた。その視線の中には問うような色がある。言葉で表すならば『不満か?』とか『もう屋敷に戻りたいか?』といったところだろうか。


 そう勝手に感じ取ったわたくしは、フルフルと首を横へ振った。主様が『雪のように美しい』と日々愛でてくださる白い髪が、その動きに従ってサラサラと揺れる。


「主様とご一緒できるならば、わたくしはどこへでも参ります。それに……」


 わたくしは少しだけ唇を躊躇ためらわせ、頬に熱をのぼらせながらも、思い切って言葉を添えた。


「主様を独占できることが、嬉しいから……」


 だから、待ってくれている藤と萩には、申し訳ないけれども。


「もうしばらく、このままがいいです」


 わたくしが必死に言い募ると、主様は再び足を止めてわたくしを見つめた。


 丸く見開かれた瞳は、やがてフワリと細められる。秀麗な顔には、わたくしの言葉を心の底から喜んでくださっていると分かる、春の陽だまりのような笑みが浮かんでいた。


 キラキラと黄金の燐光まで見えるような気がして目を瞬かせれば、チラチラと舞う粉雪に日差しが反射してのことだと分かる。


 ──なんて、きれい。


 そう思える自分が……美しいものを前にして『美しい』と思えるようになった自分が、少し嬉しくて、誇らしい。


 だってそんなわたくしは、主様達によって育てていただいたものだから。


 わたくしはあふれる笑みをそのまま顔に広げると、そっと主様の体に身を寄せた。


 今、世界を染め上げた雪は、すぐに溶けて消えてしまうけれども。


 ──わたくしがこの瞬間に抱いた感情が、消えることはない。


 そうやって積み上げていく想いがあるという幸せを胸に、わたくしは再び寄せられた主様の唇をそっと受け止めたのだった。



【了】

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