第3話 唇のゆくえ

 ディーンの元を去ってから一か月。

 辺りはすっかり冬模様になり、空が高い。


 あれからディーンがエマの元を訪れる事は無かった。

 婚約者ができたのだから当たり前だろうと、エマは案外冷静に納得していた。

 こうも清々しい別れだと諦めも早い。


 くだんの令嬢は今も領主の屋敷に滞在しているらしく、この町ではディーンとの慶事がいつ正式に発表されるのかと心待ちにして、お祝いをする風潮すらある。

 次期領主の配偶者がどのような人か気になるのだから、少々先走りすぎだとしても仕方がない。


 そんな冬のよく晴れた日の午後。

 エマは一人、町の東側を包む山へ散策に来ていた。ここはディーンと紅葉を見た場所だ。時間はそんなに経っていないというのに、落葉樹が多くすっかり寂しい景色になってしまっていた。

 まるで、魔法が解けて夢から醒めてしまったかのようだ。

 エマは漂う哀愁を素通りして進む。


 しっかり着込んだコートと手袋さえも突き抜けるほどの凍てつく寒さが小さな体を襲う。

 顔に当たる風が痛く感じ、鼻の頭など感覚がなくなっている。

 目的も無く来る場所ではないなと苦笑し、見晴らしが良くなった枝の間から民家の屋根をそれとなく見下ろす。


 そろそろ帰ろうかと足を止める寸前、背中側から枯れ葉を踏む足音が聞こえた。

 動物か変質者かと、冷水を浴びたように頭から血の気が引く。

 身構えて向き直れば、そこには金髪碧眼の、好きだった人がいた。


「エマ。やっと会えた」


 一歩ずつ近づいてくるディーンの表情は安堵しているような、悲しいような、緊張しているような、緩みと強張りが同居している複雑なものだった。


 エマは後ずさる。

 獰猛な動物や武器を持った人よりも会いたくない相手だ。


 今更、何の用があるというのだろう。

 酷い別れ方をしたと、復讐に来たのか。一方的に別れを告げたのはエマだ。恨まれている可能性は充分にある。

 ディーンに背を向け、山の奥へ続く獣道を一目散に駆け出した。


 どこへ逃げるのかなんて考えもないが、冬の寂れた山道を先へ。荒い呼吸は白く散って周囲に消える。


 靴音は二つ。自分のものと、ディーンのもの。

 異なる音はハーモニーを奏で、やがて重なった。

 これまでにないくらい強引に引き寄せられ、後ろから抱きしめられた。逞しい腕が体の前に回されて動きを封じられれば、心臓がどくりと跳ねる。


「エマ。僕の話を聞いて」


 吐息混じりに耳元で囁かれれば、鼓膜を揺さぶる熱がそのまま脳へ入り込み、思考を停止させる。


「君は勘違いをしている。僕が愛しているのは、エマただ一人なんだ」


 信じてくれと言わんばかりに腕の力が強くなっていく。

 熱に浮かされた呻吟しんぎんを含む言葉は決して大きくはない。ようやく実音になったというような、ささやかなものだ。それなのに、エマの凍えた心をみるみるうちに溶かしていく。


「……あなたには大切な女性がいるじゃない。わたしに構っているのはよくないわ」

「それが勘違いなんだ。彼女は町で噂になっているような人ではない」


 ディーンは一度エマを解放し、正面を向かせる。それに逆らうこともできたはずなのに、なすがまま。

 久しぶりに近距離から見るほっそりとした顔は、素雪そせつのように澄んでいて秀麗だ。顎を引く姿さえも魅力的に映る。

 逃がさないと態度で語るように、両方の肩をがっちり掴む手には力が籠っているものの、痛くはない。彼の優しさに、固く閉ざしていた好意が蘇っていく。


「彼女は僕の従姉妹だ。婚約者との結婚が決まったので、お祝いにと父が家へ呼んだのさ。しばらく滞在してもらっているだけ。誓って嘘ではない」


 青い瞳は真っ直ぐで、これ以上意地を張る気にはなれなかった。

 途端、エマは自分の早とちりに青くなる。寒さとは違う理由で指が小刻みに震えて止まらない。

 ディーンが婚姻を結ぶために令嬢を連れて来たのだと、町で出回っていた噂を信じ込み、勝手に怒ってディーンを傷つけた。


「ごめんなさい、わたしっ……」


 後悔が大粒の涙となり、出口を求めて暴れ出す。

 ひゅうひゅうと音を立てて木立の間を通り抜ける乾いた風と泣き声が拮抗し、哀歌となる。

 悲しい音楽が鳴り止まない中、ディーンが新たなフレーズを運ぶように体を動かした。


「エマ。これを受け取って欲しい」


 落ち着いた声音こわねを受け、滲んだ視界で彼を捉えた。

 差し出されたのは、あの日の白い箱。エマが地面にはたき落とした王都からのお土産だ。

 ディーンは指輪をはめた手でその蓋を開けた。

 中に入っていたのは、銀色に輝く指輪だった。


「エマとお揃いにしたくて。受け取ってくれるかい……?」


 不安気な視線がエマを掠める。

 一度は拒否してしまった愛の証。断られる恐怖を押し殺してもう一度エマに尋ねてくれる勇気と優しさに、また恋をしてしまった。前よりもずっと惹かれていく。


 指輪を取って右手の薬指に通す。

 それは指に馴染み、輝いて見えた。


「エマ、ありがとう。愛してる。ずっと僕のそばにいて欲しい」


 ディーンの気持ちを踏みにじるような酷いことをしたのに、それでも彼はエマへの愛情を失わず微笑みかけてくれる。

 こんなに素敵な男性は他にいない、そう確信すれば、答えは一つしかない。


「わたしもよ。あなたを愛しているわ。ずっと一緒にいたい」


 近距離で見上げる彼の青い瞳は口ほどに物を言う。燃えたぎる欲望に満ちていて、エマを欲していた。

 腰を引き寄せられ、頬に手を添えられて。

 唇と唇が重なる幸福を初めて経験した。


 何度も何度も柔らかな感触が降ってくる。時に軽く、時に深く。

 その度、エマの中に甘い痺れが駆け巡り、思考が白んでいく。この人とずっと共にありたい、そう全身が訴えている。


 細い指に大きな手が絡まる。

 ぎゅっと握り合う手から情愛が交差するようで心地が良い。

 お互いの息遣いが寒風の中に生を宿す。


 これまでのわだかまりを溶かすように、長い時間愛を重ね合わせた。とても幸せな瞬間にエマの心身は満たされ、ひと足先に春の息吹いぶきさえ感じた。


 名残惜しくも顔を離した後、ディーンは照れたように視線を逸らす。ひと呼吸置いてから躊躇いがちに口を開いた。


「本当はずっとこうしたかったんだ。でも、エマを好きな気持ちが強すぎて引かれてしまうんじゃないかと……」


 ちらりとエマの反応を窺う姿はなんだか愛らしい。彼も相当悩んでいたのだと、歯切れの悪い様子から察せられる。

 自分たちはお互いを大切に扱うがあまり、すれ違っていたらしい。そうと知ってしまえば可笑しかった。


「引くわけないじゃない。わたしはディーンともっと早くキスしたかった」


 これまでどうしても言えなかった気持ちが簡単に出てきた。

 キスのおかげで口元が柔らかくなったのかもしれない。


「待たせてごめん。これからは不安にさせないよう、たくさん愛するよ」

「嬉しいっ」


 いつの間にか舞い始めた風花がエマの長い茶髪を飾り付ける。ディーンは愛おしむように頭をひと撫でしてから、しっかりと抱き合ってまた唇を一つにした。一秒たりとも離れたくない。エマとディーンの心は相通じ、溶け合っていく。


 至福の時に身を委ね、ディーンの背に回した手に力を込めた。彼の香りが胸いっぱいに広がって、これ以上ないほどの安心感に包まれる。


 これから迎える冬本番も、二人でなら寒くない。

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唇のゆくえ 椎野 紫乃 @shiino-remon

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