第2話 見えない心

 ディーンが王都から帰ったその日、ある一つの噂がまたたく間に田舎町へと広まった。


『領主のご子息であるディーン様が、ご令嬢を連れてきた』


 それはエマの心を再起不能なまでに壊した。これまで積み上げてきた信頼が、がらがらと崩れ去っていく。


 先日、王都にいるディーンから手紙が届き、愛の言葉をたくさんもらった。だから帰って来る日を心待ちにしていて、髪の手入れも怠らず自慢のロングヘアーを磨いた。少しでも可愛くなりたくて化粧も頑張った。唇だって綺麗な桜色だ。

 久しぶりに会う今日こそきっと、そう期待して。


 なのに、なのに。


 自室のベッドに伏せ、胸の奥から溢れ出そうな暗くよどんだ雑感を押し込める。

 息を吸っては吐いて。それをどれだけ繰り返しただろうか。

 部屋の扉が叩かれた。

 エマ、と呼ぶのは母だ。


「ディーン様がおいでになったよ」


 顔を合わせたくない。

 でも、行かなかったら母に心配をかけてしまうかもしれない。何事かと詮索される可能性もある。それを考えると、力なく立ち上がっていた。乱れた前髪を整えて部屋を出る。


 狭い廊下を足早に進んで玄関へ。

 ここは一般的な庶民の家だ。小さくて古びた玄関扉の前にいる金髪碧眼は、なんだか浮いている。

 ディーンはエマの姿を見ると、再会の喜びを包み隠さずに顔色を明るくさせた。


「エマ。会いたかった」


 甘い言葉は嘘だと思うと悲しくなる。

 僅かに強張った目元に気が付かず、ディーンは興奮気味に続ける。


「君に話したい事がたくさんあるんだ。散歩に出ないかい?」

「……ええ」


 エマは意識的に、きゅっと口角を上げた。言いたい事を飲み込んで我慢する癖は短所だとわかっている。

 これでは何も解決しないのに。ディーンはエマの表面しか見ていない。


 差し出された手を反射的に取り、申し訳程度ののきから太陽の下に体を晒した。

 心の内を知られてしまったら、懐の小さい女だと呆れられ、嫌われてしまう。だから、このままでいい。


 空は青く高い。何も羽織らずに出てきたが、思いの外、風が冷たかった。ずいぶん冬が近づいている。


 人通りの多い場所にだけ埋められた石畳の上を二人で歩く。道の端にたくましく根を下ろす草は枯れ始め、色彩を失いつつあった。その様子に無常の儚さを感じ、寂寥が胸を切なくさせる。

 変わらないものはない。そう暗に言われている気がして、自分とディーンの関係が今後どうなるのか怖くなった。


 ここは規模の小さな町なので、中心部から少し外れれば自然の方が優勢になる。小川沿いの畦道あぜみちには、夏の間に伸びた草が茂っている。それを避けながら進む間、ディーンは王都での出来事を聞かせてくれているが、それはほぼ耳を素通りしていく。


「どうしたんだいエマ。体調が悪かったのかい?」


 生返事の割合が多かったのだろうか、心配そうにのぞき込まれてしまった。

 慌てて、繋いでいない方の手を顔の前で振る。


「ううん。私は元気よ」


 それは空元気だ。ディーンの前で笑うのもつらいのだから。

 正直、自分の気持ちはまだ整理できていなかった。

 彼が連れて来たという女性の事。

 とても気になる。聞いてしまいたい。

 でも、どのように切り出したらいいのかわからない。

 そんなエマの懊悩おうのうなど知らずに、ディーンは柔らかく青い目を細めた。


「平気ならいいんだけど。疲れたりしたらすぐに言ってね」


 その優しさを自分以外にも向けていると思うと、身を切るような苦痛が走る。横を流れる川のせせらぎさえも鬱陶しく感じられるほど、気持ちに余裕がなくなってきた。

 それなのにディーンは何も気が付かずに笑いかけてくる。いつもと同じように。


「エマ、君にお土産があるんだ」


 木陰に入り、ディーンは手に持っていた小さな紙の手提げ袋から可愛らしい箱を取り出した。真っ白な箱だ。

 それを手のひらに載せる彼の薬指には真新しい指輪がはまっていた。それを認識した瞬間、精神的な衝撃のあまり眩暈めまいがした。現実感が薄れる。


「……こんな物いらない」


 口から出たのは、くぐもった無感情な呟きだった。


「えっ」


 低く沈んだ声にディーンは面食らい、目を見開いた。

 でも、もう自分の心を取り繕う事はできそうにない。

 エマは強く唇を噛みしめてから、ディーンを睨む。

 晴れ渡った空も、海へと続く緩やかな清流も、寂しげな秋風も、すべてが憎らしかった。


「こんな物はいらない! あなたとはもう会わないわ!」


 激情に任せて小箱を払いのける。軽い音を立てて地面に落ちた真っ白なそれは、土で汚れた。

 ディーンはお土産だった物を唖然と俯瞰している。目の前で起こった事が信じられない、そんな呆け方だ。数秒の後、悲痛に揺らぐ碧眼を向けられたが、感情は一切動かなかった。

 きびすを返し、土を跳ね上げながら走り出す。


「待って! どうしたんだい、エマ!」


 彼は声を張るが、動揺からか息が多くて言葉の輪郭が曖昧だ。

 振り返りはしない。


 人影のない郊外から町の中心へ。

 のんびりと散歩をする老人を倍の速度で追い越し、道端で会話に花を咲かせる女性たちを視界の端に追いやる。

 顔が熱いと思ったら、頬を流れる涙の感覚が遅れてやってきた。

 木の葉を巻き上げる涼風が体内にまで入り込んで吹き荒ぶ。


 家の玄関をくぐり、部屋に駆け込む。

 そのまま力を無くし、倒れ込むようにしてベッドへ突っ伏した。

 枕に顔を押し付け、恋人となってからの二か月で溜め込んだ鬱憤を染み込ませる。嗚咽がくぐもった音になって布団から漏れるが、母は出かけてしまったらしく、惨めに泣いても気にする必要はない。


 ディーンとの交際は、初めから不釣り合いだったのだ。

 普通であれば、なんの変哲もない町娘のエマと領主の息子であるディーンが恋人同士になるなんて事はない。

 エマの父がやっている服飾店を領主が贔屓にしてくれていて、領主一家とも接点があった、ただそれだけ。


 皆の憧れであるディーンが自分を好いてくれているなんて夢のようだった。だから、現実が見えなくなるほど舞い上がっていたのだ、きっと。

 自分は特別美人なわけではなく、どこにでもいる十八歳。

 ディーンにとってエマは将来を考える相手ではなく、ただの暇つぶしだった。

 王都から良家の令嬢を迎え入れ、二人で指輪をして愛を誓い合う。なんら不思議ではない。


 手を繋ぐより先へ進まない事に不安を感じていたなんて馬鹿みたいだ。ディーンは先に進めるつもりなんて無かったのだから。


 エマは枕に顔を擦り付け、口紅を綺麗さっぱり落とす。

 顔を上げれば真っ白な枕カバーに桃色が散らばり、皺が濃淡を濃くしている。

 それを見るとまた泣けてくる。情けないしゃくりが喉から飛び出した。


 枕が汚れる事も、顔がぐしゃぐしゃになる事も気にせず、思う存分啼泣ていきゅうし続ける。

 しばらくは立ち直れそうにない。どこが出口かもわからない暗闇がずっと広がっているのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る