唇のゆくえ

椎野 紫乃

第1話 大好きな恋人

 一面に広がるのは、燃えるように鮮やかな色彩の木々。

 それを背景にして自分を見つめているのは、海よりも深い青の瞳。


「今日は一緒に出かけてくれてありがとう。君とぜひ、この紅葉を見たかったんだ」


 幾重にも重なる真紅の葉が風に揺れて奏でる小気味の良い清音と、落ち着いた深みのある低音が合わさって夢のような時間を作り出す。


「わたしも、ディーンと一緒にこんな素敵な場所に来ることができて幸せ」


 はにかんで伏せた目に映るのは自分の小さな足と、そのすぐ横にある大きな足。その間に他人が立ち入る隙はない。

 二人きりなのに視線を合わせられないのは、恋人の名前を呼んだのが気恥ずかしいから。

 柔らかな茜色の斜光が気難しい胸中を隠してくれるはずだと、都合良く願っている。


「エマ。好きだよ」


 なんの脈絡もなく与えられる愛は心臓に悪い。でも、たまらなく嬉しい。


「わたしも」


 それだけ言うのが精一杯だ。

 ディーンが満足そうに息を吐く気配がして、そっと手を握られた。人肌の温もりがじんわりと自分に浸透していく。肌寒くなってきた秋の空気から守られている心地になって、幸せが一気に突き抜ける。


 とろけるような双眸を遠慮がちにちらりと見上げる顔は、きっと情けないほど緩んでいるだろう。

 このままずっと見つめ続けるのが正解だろうか。そんな打算が頭をよぎるが、実際には長い時間直視なんてできない。これが初めての恋愛だから。余裕なんて持てやしない。


 そよそよと吹き抜ける通り風が火照った頬をくすぐる。

 握られた手を這う親指の感覚に、好きが増していく。


「こっちを向いてよ、エマ」


 ディーンは意地悪だ。

 上目遣いで目を合わせれば、気まぐれに踊る微風が彼の綺麗な金髪を揺らし、地面を転がる落ち葉の乾いた音が二人だけの空間を横断していく。

 くすりと笑う彼からは確かな愛情が見えた。


「可愛い」


 甘くかすれた囁きは、媚薬のように耳を熱くする。


「可愛くなんかないっ」


 胸がいっぱいになるほど嬉しいのに、素直になれない。

 唇を尖らせれば、優しい息遣いと共に髪が撫でられた。

 ディーンの指を赤茶の髪がするすると滑り落ちていく。


 背中の中程まで伸びた髪を、気持ち良さそうに何度も行ったり来たりする骨ばった大きな手を横目に、エマはほんの少し得意になる。

 毎日入念に髪の手入れをしているのだ。香油もつけて、近づいた時にふわりと甘い芳香がするはず。

 髪をいていた手が離れたのも束の間、すぐに抱き寄せられた。


「エマはいつも良い香りがする」


 ぎゅっと密着すれば心まで満たされる。ディーンの胸に顔を寄せると規則正しい鼓動が聞こえて、彼の恋人なのだと実感する。

 ずっとこうしていたい極上のひと時だ。

 枝葉の間から漏れる夕陽に照らされ、木の葉で埋め尽くされた地面に二人分の影が落ちる。


 永遠にも思える刻の後、エマとディーンは無言で見つめ合った。お互いの気持ちを確かめるように。エマを愛おしむ彼の優和な眼差しの奥には、沈みゆく太陽よりも赤く激しい情熱がある。


 唇の準備は万端だ。何度もクリームを塗り直してふっくら柔らかに整っている。

 ずっとずっと、恋人になってからずっと、その時を待っている。

 ディーンもそうであって欲しいと、エマは潤んだ瞳で彼の整った顔を飾る唇に視線を這わせた。


 なのに。


「さあ、今日はもう帰ろうか」


 彼はそっと距離を取り、帰路へと体を向けた。秋風がエマの心に入り込み、体の奥底を冷やしていく。

 一気に戻る視界は嬉しくない。もっとディーンだけを映していたかった。


 落胆し、俯いた先に乱立する木々の間から町の様子が望める。まだ帰りたくない、そう口にしたいが、エマはきゅっと唇を引き結んでその想いを胸に秘めた。


 刻一刻と明るさを失っていく夕暮れを気にするようにして、ディーンは踏み固められた山道を下っていく。その淡々とした様子を見ると、なぜだか泣きたくなる。

 差し出された手を取るが物足りない。


「次はいつ会えるの?」


 本音を隠して、物分かりのいいフリをする。下から眺める横顔は、息を呑むほど凛々しくて美しい。


「そうだな……少し先になってしまうな」


 視線を空へ投げ出し、思案してから青い瞳がエマへ戻って来た。


「明後日から父様と王都へ行くんだ」

「えっ……」


 声帯を微かに震わせたのは動揺の息だった。

 この町からディーンがいなくなってしまうという焦燥感が質量を持って押し寄せ、潰されそうになる。


 ディーンは領主の息子。だから忙しいのは理解している。それでも近くにいて欲しいと、感情が体の中で暴れ出す。

 気丈に振る舞うのは無理だった。落胆のまま、力なく眉を垂れる。

 消沈したエマを目の当たりにしたディーンは、安心させるようにして繋いだ手に力を籠めた。


「そんな顔をしないで。王都に着いたら手紙を書くし、来週には戻るから。そうしたら真っ先にエマの所へ行く。何か欲しい物はあるかい? ぜひお土産に買ってくるよ」


 ――あなたがわたしを愛している証が欲しい。


 そう言えたらどれだけ楽だろう。

 だけど、それを口にしてしまったら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。そう思えば思うほど、気力を振り絞って笑うしかない。


「そんなに気を使わないで。わたしはディーンが会いに来てくれるだけで充分だから」

「遠慮なんかしないで、僕にして欲しい事があれば言ってね。エマのお願いならぜひ叶えたい」


 何気ない一言にエマの心は騒めき、歩調がほんの少し狂った。


 山の向こうに夕陽が隠れ、周囲は既に薄暗くなっている。咄嗟に目を伏せたエマが涙を堪えている事は、昼と夜の曖昧な時に溶けてディーンには届かない。

 いっそ伝わったらいいのに。そんな苛立ちにも似た気持ちがじりじりと焼け焦げ、感情のおりとなって鬱積していく。

 何も知らないディーンの端正な顔は清いまま。


「今回は僕がエマのためにお土産を買ってくるね」


 彼は容姿端麗で才色兼備。それに加えて、とても紳士的。

 自分にはもったいないくらいの男性だ。

 でも、心のもやは日に日に濃くなっていくばかり。


 お付き合いを始めて二ヶ月。手を繋ぐ以上はまだ無い。

 その先に進みたいと渇望する気持ちを持て余し、彼に不信感を抱く自分を隠して今日も良い子を演じる。


 いつしか山道は終わり、踏み固められた町外れの平坦な道を進んでいる。ぽつりぽつりと明かりが灯る町の中心部はもうすぐそこだ。

 また一つ、エマの繊細な心にひびが入った。それにディーンは気が付かない。

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