【LGBT恋愛短編小説】境界線のむこうで、君に恋をする(約9,800字)

藍埜佑(あいのたすく)

【LGBT恋愛短編小説】境界線のむこうで、君に恋をする(約9,800字)

## 第1章:すれ違う心


 カフェの片隅で、水無月遥香はコーヒーカップを強く握りしめていた。窓際の座席から差し込む午後の陽光が、彼女の黒髪を優しく照らしている。しかし、その表情は険しく、瞳には怒りの炎が燃えていた。


「どうせ男に女の気持ちなんてわからないのよ!」


 遥香は憤慨しながらコーヒーカップを机に置いた。その勢いでカップが軽く揺れ、テーブルに小さな波紋が広がる。


「俺ならわかるかもしれないぜ?」


 目の前に座っていた立花陸は、そう言って肩をすくめた。黒のパーカーを着た彩な青年は、どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせている。その態度が、遥香の怒りに油を注ぐ。


「またそんな適当なこと言って! これだから男って信じられない!」


 遥香の声には怒りと苛立ちが滲んでいた。周囲の客が一瞬こちらを見やる。しかし、陸の次の言葉は、その感情を一瞬で吹き飛ばした。


「だって俺、元女だから」


「え?」


 遥香は目を見開き、カフェのざわめきすら聞こえなくなったように感じた。時間が止まったかのような一瞬。彼女の中で、何かが大きく崩れ落ちる音がした。


 陸は落ち着いた様子で、コーヒーを一口すすった。


「驚いた?」


「そ、それは……」


 遥香は言葉を失った。目の前の陸を、改めてじっくりと観察する。確かに男性的な雰囲気はあるものの、どこか中性的な美しさも感じられる。しかし、それは単なる外見の印象ではなく、もっと深いところで彼の本質を形作っているものなのかもしれない。


「いきなりそんな重要なこと言わないでよ!」


 動揺を隠すように、遥香は声を荒げた。しかし、その声には先ほどまでの怒りは消えていた。代わりに、困惑と好奇心が入り混じったような感情が滲んでいる。


「重要かな? 俺にとっては、ただの事実だけど」


 陸は相変わらず飄々とした態度で答える。その様子に、遥香は思わず苦笑いを浮かべた。


「あんた、本当に不思議な人ね」


「よく言われるよ」


 陸は微笑んで見せた。その笑顔には、どこか切なさが混じっているように見えた。


 遥香は自分の中に湧き上がる感情の整理がつかないまま、窓の外を見つめた。秋の午後の陽光が、通りを行き交う人々を優しく照らしている。その光の中で、彼女の中の何かが、少しずつ、でも確実に変化し始めていた。



 その出会いは、大学の文学研究会の飲み会での出来事だった。新歓コンパの二次会で、誰かが連れてきた友人の知人という立場で陸は参加していた。


「初めまして、立花です」


 そう自己紹介した彼の第一印象は、遥香にとって最悪だった。どこか突き放したような物言いと、投げやりな態度。典型的な「面倒な男子」にしか見えなかった。


 しかし今、カフェで向かい合っている陸は、その時とは全く違う存在に見えた。いや、違う存在になったわけではない。遥香の中の見方が、大きく変わったのだ。


「ねえ、いつからそうだったの?」


 思わず口から出た言葉に、遥香は自分でも驚いた。こんな直接的な質問をしていいものだろうか。でも、陸は穏やかな表情を崩さない。


「物心ついた時からかな。でも、実際に行動に移したのは大学に入ってからだよ」


 陸は静かに語り始めた。その声には、これまでの飄々とした調子はない。


「周りには言えなかった。言葉にする勇気もなかった。でも、このままじゃダメだって思って。自分を偽って生きるのは、もう限界だった」


 遥香は黙って聞いていた。陸の言葉の一つ一つが、重みを持って彼女の胸に響く。


「だから、大学に入学して新しい環境になった時、決心したんだ。本当の自分として生きようって」


「そう……」


 遥香は自分の右手で左腕を掴むように抱きしめた。陸の言葉は、彼女の中の何かを強く揺さぶっている。それは、これまで彼女が抱いてきた「男」という性別への固定観念かもしれない。あるいは、もっと深いところにある、自分自身への問いかけなのかもしれない。


「ごめん、重い話になっちゃったね」


 陸が気を使ったように言った。しかし遥香は首を振る。


「ううん、私こそ、さっきは酷いこと言って……ごめんなさい」


「気にしてないよ。それに」


 陸は少し間を置いて続けた。


「遥香にも、何か理由があるんでしょ? 男性不信っていうのは、ただの偏見じゃないよね?」


 その言葉に、遥香は息を呑んだ。陸の眼差しには、これまでになかった鋭さが宿っていた。


「それは……」


 遥香は言葉を濁した。その瞬間、スマートフォンの画面が明るく光る。


「あ、もうこんな時間」


 慌てたように席を立つ遥香。しかし、陸の静かな声が彼女を引き止めた。


「また話せたらいいな」


「……うん」


 小さく頷いて、遥香はカフェを後にした。秋の夕暮れが、彼女の背中を優しく染めていく。その光の中で、遥香の心は複雑な感情の渦を巻いていた。


 これが、二人の物語の始まりだった。



## 第2章:揺れる境界線


 文学研究会の部室は、夕暮れ時になると独特の雰囲気を帯びる。古い木製の本棚に並ぶ文学全集が、斜めに差し込む夕陽に照らされて影を落とす。その影と光の境界線の中で、遥香は一人、窓際の椅子に座っていた。


「ここにいると思った」


 突然開いたドアから、声が聞こえた。振り向くと、そこには陸が立っていた。


「なんで……?」


「直感」


 陸は軽く肩をすくめ、遥香の隣の椅子に腰を下ろした。二人の間に、心地よい沈黙が流れる。


「あの日以来だね」


 陸が静かに言った。カフェでの出来事から、もう二週間が経っていた。


「ええ……」


 遥香は曖昧に返事をする。この二週間、彼女は意識的に陸との接触を避けていた。それは、自分の中の混乱から逃げるためだったのかもしれない。


「逃げてたの?」


 まるで遥香の心を読むような陸の言葉に、彼女は思わず身を強ばらせた。


「違うわ。ただ、忙しくて……」


「そう」


 陸は追及するような口調を避け、淡々と受け入れる。その態度が、逆に遥香の胸を締め付けた。


「あのね……」


 遥香は言いかけて、また言葉を飲み込む。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからない。ただ、この二週間の間に積もり積もった思いが、今にも溢れ出しそうになっている。


「遥香」


 陸が彼女の名を呼んだ。その声には、これまでになかった真剣さが込められていた。


「俺のことを、特別な目で見ないでほしい」


「特別な……?」


「そう。『元女』だからって、同情したり、距離を置いたり。そういうのは、俺も遥香も不幸にするだけだと思う」


 陸の言葉は、まっすぐに遥香の心に届いた。確かに彼女は、陸の告白以来、彼を「特別な存在」として見ようとしていた。それは、ある意味で新しい偏見を生み出していたのかもしれない。


「ごめんなさい」


「謝ることじゃないよ」


 陸は優しく微笑んだ。その表情に、遥香は心を打たれた。


「私ね、昔から自分の感情を整理するのが苦手なの」


 突然、遥香は話し始めた。それは、彼女自身にとっても予想外のことだった。


「小さい頃から、いつも周りの期待に応えようとして生きてきた。『いい子』でいなきゃいけないって思い込んで。でも、本当の自分の気持ちは、どんどん奥に押し込められていった」


 陸は黙って聞いている。その存在が、遥香に語る勇気を与えていた。


「そんな時に、初めての恋をしたの」


 遥香の声が僅かに震える。


「相手は、私の気持ちなんて全く理解してくれなかった。いつも自分の都合だけで、私を振り回して。でも、私は『いい彼女』でいようと必死だった」


 遥香は深く息を吐いた。


「結局、私は完全に壊れてしまう前に、なんとか関係を断ち切ることができた。でも、その時から、男性不信っていうか……自分の感情を他人に委ねることが、怖くなってしまったの」


 告白を終えた遥香の肩が、少し軽くなったように見えた。陸は静かに彼女の横顔を見つめている。


「遥香は強いんだね」


「え?」


「自分を守るために、きちんと選択できた。それって、すごく勇気のいることだと思う」


 陸の言葉に、遥香は思わず目を見開いた。今まで誰も、彼女のその選択を肯定的に評価してくれる人はいなかった。


「私が……強い?」


「うん。俺なんかよりずっと」


 陸はそう言って、少し寂しそうな笑みを浮かべた。


「あのね」


 遥香は、勇気を振り絞って口を開いた。


「私、陸さんのこと、もっと知りたいと思う」


 その言葉に、陸は少し驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに穏やかな笑顔に戻る。


「俺も、遥香のこと、もっと知りたいな」


 夕暮れの部室で、二人は静かに微笑み合った。窓から差し込む夕陽は、今や優しいオレンジ色に変わっていた。その光は、二人の間に新しい何かが生まれようとしていることを、静かに見守っているようだった。


 しかし、その「何か」が何なのか、二人にはまだわからなかった。それは、これから二人が一緒に見つけていかなければならないものだった。ただ、互いを理解したいという思いだけは、確かに存在していた。それは小さいけれど、確かな一歩だった。


## 第3章:過去という重み


 秋の日差しが心地よい土曜日の午後、遥香は陸と待ち合わせていた。文学研究会での話し合いから数日が経ち、二人は少しずつ距離を縮めていた。今日は陸の提案で、近くの公園を散歩することになっていた。


「お待たせ」


 待ち合わせ場所に現れた陸は、いつもと少し違う雰囲気を纏っていた。黒のスキニーパンツに白のシャツ、首には薄手のストールを巻いている。どこかお洒落な、でも決して着飾りすぎていない姿。


「随分おしゃれね」


 遥香が言うと、陸は少し照れたように首筋を掻いた。


「たまにはね」


 二人は並んで歩き始めた。公園の木々は色づき始め、道は落ち葉で覆われている。その上を歩く足音が、心地よいリズムを刻んでいた。


「ねえ、聞いてもいい?」


 しばらく歩いた後、遥香が切り出した。


「なに?」


「どうして……その、性別を変えようって決意したの?」


 陸は歩みを止めることなく、少し考えるように空を見上げた。


「それは、長い話になるかも」


「時間はあるわ」


 遥香の返答に、陸は小さく頷いた。


「小学校の頃からかな。自分の体に違和感があった。でも、それを言葉にする術を知らなかった」


 陸の声は静かだが、芯が通っていた。


「中学に入って、その違和感は更に強くなった。女子の制服を着るのが辛かった。周りの女の子たちが、どんどん『女性らしく』なっていく中で、自分だけが取り残されていくような感覚」


 遥香は黙って聞いていた。陸の言葉の一つ一つが、重みを持って響いてくる。


「高校では、必死に『普通の女の子』を演じた。化粧もして、髪も伸ばして。でも、それは本当の自分じゃなかった。まるで、誰かの人生を代わりに生きているような感覚だった」


 二人は小さな丘の上にあるベンチに腰を下ろした。目の前には、公園全体を見渡せる景色が広がっている。


「大学に入学する直前、ネットで『性同一性障害』について知った。そこで初めて、自分の感覚に名前があることを知ったんだ」


 陸は右手で自分の膝を軽く叩きながら、言葉を続けた。


「その時、これまでの違和感や苦しみが、やっと理解できた。そして、このまま偽りの自分で生きていくことは、もう限界だって思った」


「でも、周りの反応は? 家族とか……」


 遥香の問いに、陸は少し苦笑した。


「母さんは、最初は戸惑ったみたいだけど、意外にすんなり受け入れてくれた。『あんたが幸せならそれでいい』って」


 陸の表情が、少し和らぐ。


「父さんは……まあ、複雑だったな。今でも完全には理解してくれてないかもしれない。でも、否定はしなくなった」


「友達は?」


「何人か離れていった子もいたけど、本当の友達は残ってくれた。新しい友達も出来た」


 陸はそう言って、遥香の方をちらりと見た。その目には、感謝の色が浮かんでいる。


「その後も、色々あったよ。ホルモン治療を始めて、体が変化していく。声が低くなって、髭も生えてきた。最初は自分の姿を鏡で見るのが怖かった」


 陸は自分の喉元に手を当てた。


「でも、少しずつ、自分の体が本来あるべき姿に近づいていく感覚があった。それは、言葉では表現できないような、深い安堵感だった」


 風が吹き、二人の髪を揺らした。遥香は自分の長い黒髪を押さえながら、陸の横顔を見つめていた。


「今でも時々、不安になることはある。でも、もう後悔はしていない。これが、本当の自分だから」


 陸の言葉に、遥香は強く心を打たれた。そこには、彼女が持っていない何かがあった。自分の本質と向き合い、それを受け入れる勇気。


「私には、その勇気がないわ」


 思わず漏れた言葉に、陸は首を傾げた。


「遥香だって、十分勇敢だよ」


「違うわ。私は、ただ逃げてるだけ」


 遥香は膝を抱えるように体を丸めた。


「男性不信っていうのも、きっと私の臆病さのせい。本当は、ただ傷つくのが怖いだけなのに」


 陸は静かに遥香の肩に手を置いた。その温もりが、不思議と心地よかった。


「臆病だと思うなら、その気持ちと向き合うことから始めればいい。一人じゃないんだから」


「陸さん……」


 遥香が顔を上げると、陸は優しく微笑んでいた。その笑顔に、遥香は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。それは痛みではなく、もっと温かい、懐かしいような感情だった。


 夕暮れが近づき、公園に伸びる影が長くなっていた。二人は黙って、その景色を眺めていた。言葉にはできない何かが、二人の間に確かに存在していた。それは、まだ形のない、でも確かな絆の始まりだった。


## 第4章:心の距離


 その夜、遥香は眠れなかった。アパートの一人暮らしの部屋で、彼女はベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。


 陸との会話が、まだ頭の中で反響している。特に、「一人じゃないんだから」という言葉が、何度も繰り返し響いてきた。


「一人じゃない……か」


 遥香は小さくつぶやいた。これまで彼女は、常に一人で自分の心と向き合ってきた。いや、正確には向き合うことから逃げてきた。


 スマートフォンの画面が、暗い部屋で青白く光る。LINE(ライン)のメッセージが届いていた。差出人は陸だった。


『今日はありがとう。話を聞いてくれて嬉しかった』


 シンプルな言葉だけど、そこには確かな温もりが感じられた。遥香は少し考えてから、返信を打った。


『私こそ、大切な話を聞かせてくれてありがとう』


 送信ボタンを押した後、すぐに既読マークが付く。


『眠れない?』


「鋭いわね」


 遥香は小さく笑った。


『うん、色々考えてたら』


『俺も』


 短い言葉の交換。でも、そこには不思議な親密さがあった。


『明日、時間ある?』


 陸からのメッセージに、遥香は少し驚いた。


『午後なら大丈夫』


『じゃあ、映画でも見に行かない? 新作のあれ、観たいって言ってたよね』


 確かに、以前文学研究会で話題に上がった作品だ。遥香は少し考えてから、返信を送った。


『いいわね。楽しみ』


 そう返信してから、遥香は自分の心臓の鼓動が少し早くなっていることに気がついた。これは、緊張なのか、それとも……。


「違うわ」


 遥香は頭を振った。今の自分には、そんな感情を抱く資格はない。まだ自分の心の整理もついていないのに。


 しかし、確かに何かが変わり始めていた。陸という存在が、少しずつ彼女の心の中で特別な場所を占めるようになっていることは、否定できない事実だった。



 休日の映画館は、予想以上に混んでいた。二人は何とか席を確保し、映画が始まるのを待っていた。


「やっぱり人気作品なのね」


 遥香が言うと、陸は頷いた。


「うん。監督の前作も話題になったしね」


 会話が自然に続く。以前のような気まずさは、もうほとんど感じられなかった。


 映画が始まると、二人は静かに画面に見入った。それは、異なる世界から来た二人の恋を描いた作品だった。その設定に、遥香は何か運命的なものを感じていた。


 物語が佳境に入ると、遥香は思わず陸の方を見た。彼は真剣な表情で画面を見つめている。その横顔に、遥香は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 突然、スクリーンの中で主人公たちが抱き合うシーンが映し出される。遥香は思わず息を呑んだ。その時、陸の手が軽く彼女の手に触れた。それは偶然の接触だったのかもしれない。でも、遥香は自分の手を引っ込めることができなかった。


 映画が終わり、二人は夕暮れの街を歩いていた。まだ映画の余韻が残っている。


「どうだった?」


 陸が聞いてきた。


「素敵な作品だったわ。特にラストシーン……」


「うん。二人が全ての壁を乗り越えて、やっと出会えた瞬間」


 陸の言葉に、遥香は立ち止まった。


「ねえ」


「なに?」


「私たちも、壁を乗り越えようとしてるのかな?」


 その問いに、陸は少し驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに優しい笑みを浮かべる。


「もしかしたら。でも、それは悪いことじゃないと思う」


 陸の言葉は、いつもの様に率直だった。


「私、まだ自分の気持ちがよくわからないの」


 遥香は正直に告白した。


「それでいいんだよ」


 陸の返答は、意外なものだった。


「えっ?」


「無理に急ぐ必要はない。遥香のペースで、ゆっくり進めばいい」


 その言葉に、遥香は心が軽くなるのを感じた。そうか、無理に急ぐ必要はないんだ。自分のペースで、少しずつ前に進めばいい。


 二人は再び歩き始めた。肩が時々触れ合う距離。その距離感が、今の二人にはちょうどよかった。まだ恋人というには遠く、でも友達以上の何か。その曖昧な関係性の中で、二人は少しずつ、でも確実に近づいていっていた。


## 第5章:新しい一歩


 季節は冬に向かっていた。木々の葉は完全に落ち、街には冷たい風が吹き始めていた。


 文学研究会の部室で、遥香は一人で作業をしていた。来週の読書会の資料作りに没頭している時、ノックの音が聞こえた。


「遥香、まだいたんだ」


 ドアを開けて入ってきた陸は、手に紙袋を下げていた。


「ちょうどコンビニ寄ったから、何か食べる?」


「ありがとう」


 遥香は微笑んで頷いた。この数ヶ月で、二人はすっかり自然な関係を築いていた。


「読書会の準備?」


「うん。でも、なかなかまとまらなくて」


 遥香は疲れたように溜息をつく。陸は彼女の隣に座り、紙袋からおにぎりを取り出した。


「手伝おうか?」


「いいの?」


「もちろん。それに」


 陸は少し言葉を切った。


「遥香と一緒にいたいし」


 その言葉に、遥香の手が止まった。最近、陸はこういう直接的な言葉を時々口にするようになっていた。そのたびに、遥香の心は大きく揺れる。


「陸さん」


「なに?」


「私のこと、どう思ってるの?」


 突然の質問に、陸は驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに真剣な眼差しに変わる。


「好きだよ」


 端的な答え。しかし、その言葉には深い重みがあった。


「でも、それは……」


「ただの友情じゃない。恋愛感情だと思う」


 陸の言葉は、いつもの様に率直だった。遥香は自分の胸の高鳴りを感じながら、言葉を探した。


「私、まだ自分の気持ちに自信が持てないの」


「わかってる」


「でも、陸さんといると、安心する。楽しい。それに……」


 遥香は言葉を切った。自分の感情を言葉にするのは、まだ難しかった。


「時間はたくさんあるよ」


 陸は優しく微笑んだ。


「遥香が自分の気持ちに向き合えるまで、俺は待ってる。それに、今みたいな関係も、すごく大切だと思うんだ」


 その言葉に、遥香は目頭が熱くなるのを感じた。


「ごめんなさい。こんな中途半端な私を、好きでいてくれて」


「中途半端なんかじゃないよ」


 陸は静かに、しかし力強く言った。


「遥香は遥香のままでいい。それに、俺だって完璧じゃない。むしろ、お互いの不完全さを受け入れられる関係こそ、本物なんじゃないかな」


 その言葉に、遥香は思わず笑みがこぼれた。確かに、二人はそれぞれに不完全で、傷を抱えている。でも、その傷を隠さずに見せ合える関係。それは、とても貴重なものなのかもしれない。


「ねえ、陸さん」


「うん?」


「これから先も、一緒にいてくれる?」


 その問いに、陸は迷うことなく頷いた。


「もちろん。遥香が望む限り、ずっと」


 部室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。その光の中で、二人は静かに微笑み合う。それは、新しい一歩を踏み出す瞬間だった。


 まだ恋人とは呼べない関係。でも、確かに特別な絆で結ばれている。その曖昧さの中に、むしろ二人だけの大切な何かが宿っているような気がした。


「じゃあ、資料の続き、手伝うよ」


 陸がそう言って、遥香の資料に目を通し始めた。二人は肩が触れ合うような距離で、静かに作業を続けた。時々交わされる会話や視線の中に、温かな親密さが漂っていた。


 外は すっかり日が暮れ、街灯が灯り始めていた。けれど、部室の中は二人の存在だけで、不思議と明るく温かかった。


## 第6章:未来への扉


 冬の終わりが近づいていた。まだ寒さは残るものの、空気の中に微かな春の気配が感じられる季節。


 遥香は大学の近くのカフェで、温かい紅茶を飲んでいた。このカフェは、陸と初めて深い話をした場所だ。あれから半年近くが経っている。


「お待たせ」


 陸が入ってきた。頬を赤く染めた彼は、外套を脱ぎながら遥香の向かいの席に座る。


「寒かった?」


「うん、でも大丈夫」


 陸は注文を済ませると、遥香の方をじっと見つめた。


「どうしたの?」


「遥香に話したいことがあって」


 その声には、いつもの飄々とした調子はない。真剣な、しかし少し不安そうな響きがあった。


「実は、来月から新しい病院でホルモン治療を始めることになったんだ」


「え?」


「今までの病院より、もっと専門的な治療が受けられるところなんだ。でも……」


 陸は少し言葉を切った。


「東京なんだ」


 遥香は息を呑んだ。東京まで通うということは……。


「引っ越すの?」


「うん。もう部屋も決めた」


 遥香は言葉が出なかった。突然の告白に、心が追いつかない。


「遥香」


 陸が彼女の名を呼んだ。


「ごめん。突然こんなこと言って」


「ううん、陸さんの将来のことだもの。当然よ」


 遥香は笑顔を作ろうとした。でも、どこか歪んでしまう。


「でも、私……」


 言葉が詰まる。この半年間、二人で築いてきた関係。それが、突然終わってしまうのだろうか。


「遥香」


 陸は真剣な表情で、遥香の目を見つめた。


「俺、遥香のことが大好きだ」


 その言葉に、遥香の心臓が大きく跳ねた。


「だから、遥香が望むなら、一緒に来てほしい」


「え?」


「東京の大学院に、遥香も一緒に来ないか?」


 突然の提案に、遥香は目を見開いた。


「私も?」


「遥香、前から大学院進学考えてたよね? 文学研究を続けたいって」


 確かに、遥香は大学院進学を考えていた。でも、地元の大学院しか視野に入れていなかった。


「でも、突然すぎるわ。それに……」


「無理に決める必要はない」


 陸は優しく微笑んだ。


「ただ、俺は遥香と一緒にいたい。これからも、ずっと」


 その言葉に、遥香の目から涙が溢れた。


「どうして、そんなに私のことを……」


「理由なんてないよ。ただ、遥香が好きだから」


 シンプルな言葉。でも、その中に込められた想いは、とても深いものだった。


「私も」


 遥香は小さな声で言った。


「私も、陸さんのことが好き。でも、それはただの感謝じゃないの? 依存じゃないの? って、ずっと考えてた」


 陸は黙って聞いていた。


「でも、今わかったわ。陸さんと離れるって考えただけで、こんなに胸が痛むの。これは、きっと……」


 言葉に詰まる遥香に、陸は静かに手を伸ばした。その手は、温かかった。


「遥香の気持ち、しっかり受け取ったよ」


 陸の言葉に、遥香は頷いた。


「少し、時間をくれる? ちゃんと考えたいの」


「もちろん」


 陸は微笑んで言った。


「俺は、遥香の答えを待ってる。どんな答えでも、受け入れるよ」


 その言葉に、遥香は心が温かくなるのを感じた。


 カフェの窓の外では、小さな雪が舞い始めていた。それは、まるで二人の新しい物語の始まりを祝福しているかのようだった。



 それから一ヶ月後、遥香は東京の大学院に願書を提出していた。


「これが、私の答えよ」


 陸にそう告げた時、彼は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 二人は手を繋ぎ、夕暮れの街を歩き始めた。未来は、まだ霞んでいて見えない。でも、二人で一緒に歩いていける。それは、もう確かな事実になっていた。


「ねえ」


 遥香が呼びかけると、陸は「うん?」と応えた。


「私たち、きっと大丈夫よ。だって……」


 遥香は陸の手をぎゅっと握った。


「もう、境界線なんていらないもの」


 その言葉に、陸は優しく微笑んだ。確かに、二人の間にあった様々な境界線は、もう意味を持たない。残っているのは、ただ純粋な想いだけ。


 春の訪れを告げる風が、二人の周りを優しく包み込んでいた。


(終)

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【LGBT恋愛短編小説】境界線のむこうで、君に恋をする(約9,800字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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