本どろぼうからはじまる恋

多田いづみ

本どろぼうからはじまる恋

 仕事帰り、ぼくは駅前の本屋に立ち寄ると、雑誌を何冊かパラパラとめくって、店を出た。

 しばらく歩いていると、うしろから、「あのっ、ちょっと!」と呼ぶ声がする。

 振り返ると、髪をおだんごにまとめ、縁なしのメガネをかけた女性が、膝に手をつき、うずくまりそうになりながら、はあはあと息を切らしていた。


「なんでしょう?」

 とぼくが訊ねると、

「あの……それ……」

 彼女は顔を上げて、苦しそうに肩で息をしながら、ぼくの胸のあたりを指さした。

 いったいなんのことだろうと身体をあらためてみると、どういうわけか、見覚えのない雑誌がぼくの脇に挟まっている。薄っぺらいオレンジ色の表紙の科学雑誌だ。

「あれ? なんだこれ」

 どうやらぼくは無意識のうちに、読んでいた雑誌を棚に戻さず、脇に抱えて持ってきてしまったらしい。


 その女性はもしかすると、さっき入った本屋の店員なのかもしれない。ぼくが会計もせず、店から本を持ち出したものだから、あわてて追いかけてきたのだろう。

 ぼくは歩くのが早いから、追いつくのは大変だったかもしれない。

「どうもすみません。なんだかぼーっとしてて、まちがえて持ってきちゃったみたいだ」

 と自分でもなぜこんなことになったのかわからず、ぼくは狐につままれたような気分で彼女に謝った。


 彼女は、白いブラウスに黒いエプロンを掛け、エプロンにつけた名札には、『オオイシ』と書かれている。

 オオイシさんは、呼吸をととのえ背すじをまっすぐ伸ばして立つと、中指でクイ、とメガネを押し上げた。ヒールのないスリッパみたいな靴を履いているのに、ぼくと同じくらいの目線だった。

 背の高い女性は嫌いではない。それに化粧っ気がなく、美人というよりはむしろ整った顔立ちというのも、ぼくには好ましかった。


 彼女は上気して桃色に染まった頬をかすかにふくらませ、きれいな長い両手をオーケストラの指揮者みたいにひらひらと動かしながら、

「あのですね、そういうのってもう、あれですから、どろぼうですから――」

 と怒り慣れていない新人の教師みたいに、まとまりのない口調でいった。

 女性にしては低めの、ここちよいアルトだった。

 オオイシさんは怒った顔を必死に作ろうとしていたが、道に迷って困っているようにしか見えなかった。


 ぼくはふと、小学校のときの担任の先生を思い出した。

 若い女の先生だった。まだ大学を出たてぐらいだったのかもしれない。母よりもだいぶ若い感じがした。

 オオイシさんには、その先生を思わせるところがある。キリッとしているようで、どことなく頼りない雰囲気がよく似ていた。

 彼女を見ていると、その先生の泣き顔が思い浮かんできた。


 子どものころ、ぼくは先生をよく泣かせた。といっても悪意があったのではなく、ばかで、わがままで、ひとの言うことなどいっさいきかず、どうしようもなくやんちゃだったから、結果的にそうなってしまうのだった。悪さをしようとか、いたずらしようとか、そういう考えを持たずとも、ただ好き放題しているだけでおかしなことになり、先生を泣かせた。先生が泣くと、さすがに悲しくなったけれど、かといってぼくのやることは、じぶんでもどうしようもないのだった。そうしてやっぱり先生を泣かしつづけ、そんなだから、クラスで悪いことが起きると、だいたいぼくのせいになったが、そのうちの半分くらいは、ぼくのしわざではなかった――。


「いえ、ですからぼーっとしてて、うっかり持ってきちゃったんです。ただそれだけなんですよ。だいいちぼくがどろぼうだったら、こんな見えるところに挟みっぱなしにするわけないじゃないですか。はいこれ、お返しします」

 そもそもやらかしたのはこちらであって、怒る筋合いでもないのに、ぼくはなぜかむきになって反論した。気が動転していたせいもあるけれど、けっして意図して盗んだのではないということを、彼女に信じさせたかった。が、どうしたら信じてもらえるのかわからない。

 わからないまま、ふてくされたように彼女に本を押しつけた。


 この強引な作戦は、案外うまくいったらしい。彼女は怒りながらも、すなおに本を受け取った。

 彼女は受け取った本をあらためると、すかさず、

「あ、折れちゃってる」

 といった。まるで生徒の校則違反を指摘するみたいに。

 雑誌はとても薄かったので、ぼくはまたもや無意識のうちに、脇にはさみやすいよう雑誌を二つ折りにしてしまったのだ。

「だったらこの本、買い取りますよ。おいくらですか」

 とぼくは財布を取り出し、その場で支払おうとしたが、レジを通さないといけないからと言われて、店まで戻ることになった。


 店に戻るのはめんどうだったけれど、ここでゴネてさらに彼女を怒らせたら、ほんとうに警察を呼ばれかねない。おとなしく従うしかなかった。

 そうしてふたりで歩いていったのだが、オオイシさんはまだ怒りがおさまらないようで、ひとことも口を利いてくれなかった。ぼくの言ったことを、信じてくれたのかどうかもわからない。

 しかし彼女が無口になったのは、けっして腹を立てているからというだけではなかった。ぼくを追っかけるとき、足を痛めたらしいのだ。足を引きずるほどではないけれど、オオイシさんは痛みをこらえるように、歯を食いしばっていた。


 オオイシさんが足を痛めたのは、ぼくのせいではない。が、ぼくにも責任の一端はあるといえばある。それでなんとか場をなごませようと、

「本を一冊取り戻すだけで、たいへんな目に遭いましたね」

 とぼくが冗談めかしていうと、

「ひとごとみたいにおっしゃってますけど、ぜんぶあなたのせいなんですからね」

 とオオイシさんはさらに口を尖らせた。

 だが、そんなことでくじけるようなぼくではない。

「だいじょうぶですか? よければその本、お持ちしましょうか」

 というと、

「いいえ、結構です。せっかく取り戻したのに、また持ち逃げされたら困りますから」

 とピシャリと拒否された。

「じゃあ、おわびに飯でもおごりますよ。きょう、おしごと終わるの何時ですか? 公園通りにできたあたらしい店、知ってます? 専用の薪窯があって、すごくうまいピザを食わしてくれるらしいんだけど、いかがですか」


 ぼくにしては、自然に誘えた。

 いつもはひどい奥手のくせに、ぼくはへんな時に勇気が出るらしかった。初対面の、名字しか知らない女性を食事に誘うなんてはじめてのことだ。しかも彼女からは、どろぼうの疑いをかけられている。どう考えても常識はずれだし、軽い男と見られやしないか不安だった。しかし、どうしても誘わずにはいられなかったのだ。


 この誘い文句に、オオイシさんの目がキラリと光ったのを、ぼくは見逃さなかった。もしかすると彼女は、すごい食いしん坊なのかもしれない。

 けれど彼女が相好を崩したのは、ほんの一瞬だった。すぐにまたキッと口を結び、

「懐柔しようとしても無駄ですよ。だいいち、きょうは棚卸しがあって遅くなるんです」

 いっけん拒否しているようで、彼女の言葉には含みがあった。つまり良いように解釈すれば、きょうはだめでも、あした以降なら大丈夫ということだ。

「でしたら電話番号でも教えてもらえれば、ご都合のいいときにお誘いしますが――」

「え、なんであなたみたいな人に電話番号を教えなくちゃいけないんですか? へんなこと言うとけいさつ呼びますよ、けいさつ」

 と彼女はさらにプンプン怒り、とりつくしまがなかった。


 店に戻っても、けっきょくオオイシさんは警察を呼ばなかった。よく考えれば、ぼくを警察送りにしたところで彼女が得することなど何もないのだから、あたりまえのことなのだ。

 オオイシさんはレジに回ってぼくと対面すると、

「お会計、八百八十円になります」

 ときまじめな新任の教師のように、澄ました顔でいった。


 しかしかんがえてみれば、ぼくはなんでこの本を手に取ってしまったのだろう。こんな薄くてつまらなそうな本に八百八十円も払うのはシャクだった。恐竜や化石の記事でも載っているのならともかく、宇宙とか、素粒子とか、遺伝子とか、そんな話を読んだって時間の無駄だ。しかし今さらどうしようもないから、しぶしぶ千円札をさし出した。

 オオイシさんは折れ曲がった雑誌を紙袋に入れると、釣り銭とレシートといっしょに、ぼくに手渡した。


 ふとレシートを確かめると、いつの間に書いたのか、電話番号と思われる数字が記されている。

 ぼくはあわてて口を開こうとしたが、オオイシさんは「どうもありがとうございました――」とふかぶかとお辞儀をし、つんと澄ましたままでいる。話しかける隙なんて、これっぽっちもなかった。ぼくはそれ以上何も言えず、店を出るしかなかった。


 店を出たあとも、ぼくは複雑な気分だった。願いはかなったのだから大喜びしてもいいはずなのに、なんとなく気が重かった。こうしたことは、振られたら振られたで落ち込むし、うまくいったらうまくいったで、先のことを考えると不安になるものらしかった。

 帰り道、ぼくはなんともいえない気持ちのまま、オオイシさんにいつ電話をしたらいいのか考えていた。気の利く男だと思われるには、いつごろ電話をかけたらいいのだろう?

 あんまり早すぎるとガツガツしてせっかちだと思われるし、あんまり遅すぎてもだらしがないと思われる。朝か、昼か、夕方か。今夜か、あしたか、あさってか。まるきり見当もつかない。


 だが、そもそもこれがオオイシさんの電話番号であるという確証もないのだ。たちの悪いいたずらかもしれない。というよりもむしろ、そっちのほうが可能性が高い。

 思い返せば、ぼくときたら間抜けなことに、オオイシさんに自分の名前さえ告げなかった。彼女から見れば、ぼくは店から本を盗み出したどろぼうであり、不審者であり、ぼくを追っかけたせいで足まで痛めてしまった。そんな男に、自分の電話番号を教えたりするものだろうか。


 あんまり期待しすぎるのは、よそう。

 そうは思っても、ぼくの頭は、いつの間にかまたオオイシさんのことを考えてしまうのだった。

 いったいぼくは、許されたのか、許されていないのか、彼女はたんに、無料タダメシにありつきたいだけなのか、それともすこしはぼくにも好意を持ってくれているのか、何もかもさっぱりわからないまま、ぼくは彼女にかける電話の文句を考えながら、道を歩いていった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本どろぼうからはじまる恋 多田いづみ @tadaidumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画