死者からのラブレター

雨宮悠理

死者からのラブレター

 夕焼け色の帰り道――。

 空は茜色に染まり、雲が橙色から紫色にグラデーションを描いている。日が傾き始めた街は、静かで穏やかだった。

 校門を抜け、住宅街へ続く坂道。隣には桐生咲がいる。


「……どうしたの、なんだか元気ない?」


 隣を歩く咲の声が、風に乗って耳に届く。


「あ、ごめん。なんか、ぼーっとしてた」


 浅倉颯真は慌てて返事をする。隣にいるのは、小学校からの幼馴染であり、そして――昔からずっと片想いをしている相手だ。


 咲と一緒に帰るのは本当に久しぶりだった。クラスが別々になってから自然と会話も減り、咲はクラスの中心で明るく振る舞う人気者。彼女に声をかけるのも躊躇してしまう自分がいた。


 こうして帰るのも随分久しぶりで、この状況にどうしても緊張してしまう。何か話題を振らなければ――そう思っても、頭の中は真っ白だ。


「ふふっ、なんか面白いね、颯真」


 咲が笑う。彼女の笑顔は夕陽に照らされて、どこか儚く見えた。


「何が?」


「なんか、すっごく話したそうなのに、全然言葉が出てこないんだもん。ね、私と帰るの、そんなに気まずい?」


「ち、違う!そんなことない!……ただ、なんか……ほら、うまく言えないんだよ」


 頬が熱くなるのを感じながら、颯真は必死に言葉を探す。咲はそんな彼を見つめながら、少しだけ歩調を緩める。


「……ねぇ、颯真」


「あ、ああ?」


「もしさ――」


 その瞬間だった。


――キィィィッ!!


 遠くから聞こえる急ブレーキの音。風景が引き裂かれたかのように、時間が止まった気がした。


「危ない!」


 咄嗟に咲の腕を掴み、強く引き寄せる。彼女の驚いた顔が目の前に見えた――その後、視界が真っ白に染まった。














 目が覚めた時、そこには灰色の空が広がっていた。


 周囲は黒服の人々ばかり。颯真は葬儀場の一番後ろの席で、うなだれるように座っていた。視界の端に映るのは、白と黒の花で飾られた祭壇。そして、そこに飾られている、笑顔の咲の写真。


「あれ……?」


 自分がなぜここにいるのか、最初は分からなかった。ただ、知らない誰かが話していた。


「桐生さん、残念だったね……まだ若いのに」


「浅倉くん、あの時一緒にいたらしいけど……助かったのは彼だけなんだって」


――助かった?


 その言葉に、胸の奥が冷たくなる。


 咲が……?


 頭の中で何度も事故の瞬間がフラッシュバックする。自分が彼女を引き寄せて、白い光に包まれた――その後の記憶は、途切れている。


「なんで……」


 呟いた声は震えていた。何もできなかった。咲を守れなかった。


「どうして俺だけが――」


目を逸らしたいのに、目の前の現実がどうしても受け入れられず、瞼を閉じることすらできなかった。


「……なんで、咲が」


 喉の奥がひどく苦しい。まともに呼吸ができない。胸の中には後悔ばかりが渦巻いていた。周囲には、咲の親族やクラスメイトたちが並んでいる。誰もが目を赤くし、涙を流している。友人たちのすすり泣きが、耳に痛いほど響いてきた。

 けれど、颯真の目には彼らがぼんやりとしか映らない。ただ、咲の写真だけが浮かび上がるように見える。


「こんなの、現実なわけないだろ……」


 そんな後悔と共に、ただ時間は過ぎていった。







 手紙が届いたのは、それから一週間後のことだった。


 学校から帰り、いつものように無気力にポストを開ける。そこには見慣れない白い封筒が一通、無造作に入っていた。


 差出人も宛名もない。ただ、封筒の中から取り出した便箋には、震えるような筆跡で書かれた一文が目に飛び込む。


『ずっとあなたが好きでした――桐生 咲』


 その瞬間、颯真は目を見開いた。


「……は?」


 咲の名前。亡くなったはずの彼女の名前が、手紙に書かれている。


――まさか、誰かの悪戯だろうか?


 そう思いながらも、手紙を握る手が震えていた。心の奥で何かが叫んでいる。「これはいたずらではない」と。


 その日から、手紙は毎日のように届くようになる。


『いつも君の横顔を見るたびに、嬉しい気持ちになってた』


『本当は、もっと君と一緒にいたかった』


 どの手紙にも、おそらく咲の記憶と感情が綴られていた。それはまるで――彼女が今もどこかで生きていて、想いを伝えようとしているようだった。


『君の笑顔が好きだった――それが私の生きる理由だった』


 その日の手紙を読み終えた颯真は、机の上に便箋を置いた。震える指先を見つめながら、心の中に湧き上がる感情を押さえ込む。


 最初はただ、涙が溢れるだけだった。咲の優しさや、彼女の言葉の温もりが手紙を通じて伝わり、心の奥底まで響いていた。


 けれど――。


 ふと、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

その感覚は、これまで手紙を読んだ時にはなかったものだ。それがどこから来るのか、最初ははっきりとは分からなかった。


 颯真は無意識に、これまでの手紙をすべて手に取り、最初の一通から順番に読み返し始めた。


『一緒に帰るあの時間が、私の一番の宝物だった』


『君が先に歩く背中を見ているだけで、安心してたんだ』


 ひとつひとつの言葉には、確かに咲の気持ちが込められている。それなのに、颯真の心に引っかかる何かがある。それが何かを知りたくて、指先が急かされるように便箋をめくる。


 そして――。


『最後のあの日、本当は君に伝えたかったことがあった』


 この一文に目が止まった瞬間、心臓が大きく跳ねた。


「あの日……?」


 おそらく咲が事故に遭った日のことだ。確かにその日は、彼女と二人きりで帰った。それが自分にとっても彼女にとっても「最後の時間」となってしまった。


 けれど、この文章には微かな違和感がある。


「……待てよ」


 颯真は頭を抱えながら、あの日の記憶を必死に掘り起こす。思い出そうとすればするほど、脳裏に焼き付いているはずの「事故の瞬間」に靄がかかっていく。


 微かに覚えている記憶の中では確かに咲を庇ったつもりだった。自分の腕が咲の肩を引き寄せた感覚も、目の前に迫る車のヘッドライトの眩しさも覚えている。


 けれど――その直後の記憶がない。


「俺……あの後、どうなったんだ?」


 咲が亡くなったと聞かされたのは、目覚めた時だった。その時の自分は病院のベッドに横たわっていて、周りには家族や見舞いに来たクラスメイトたちがいた。


 しかし、事故後の自分がどうやって病院に運ばれたのか、誰にも詳細を聞いたことがなかった。なぜなら、聞く勇気がなかったからだ。


「守れなかったんだ……それだけでいい」


 そう思い込もうとしていた自分に、真実を知る資格なんてないと思っていた。


 再び手紙に目を落とすと、他の手紙の一文が目に飛び込んできた。


『私を守ろうと身を挺してくれたこと――本当にありがとう』


「……俺が守った?」


 その言葉に、再び奇妙な違和感を覚える。もし本当に咲が亡くなったのだとしたら、彼女を守ったとは言えない。むしろ守れなかった結果、咲を失ったのではないのか?


「咲がこの言葉を書くのは……変だよな」


 疑問を抱きつつも、心の奥ではこう思っている自分がいた。


――この手紙、本当に咲が書いたのか?


 最初は手紙が届くこと自体が信じられなかった。でも、その温もりのある言葉に心を打たれ、自然に信じてしまった。


 だが今、自分の記憶と手紙の内容を突き合わせると、どこか辻褄が合わない。


 翌日、颯真は事故当日のことを確認するため、別クラスの一人に話を聞いた。事故を目撃していた数少ない人物の一人だ。


「浅倉、急にどうしたんだよ?」


「いや……ちょっと、気になってさ。あの日のこと、もう一回聞きたくて」


 友人は少し困ったような顔をしながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。


「俺もあんまり近くで見てたわけじゃないけど……」


「いいんだ。あの日のことを教えてくれ。俺は車が通り過ぎた時、どうなった?」


「あん時のお前は……」


「……俺が?」


 颯真の心臓が一瞬止まった気がした。


「桐生さんを守ろうとしたんだろ?すげぇ勢いで車の前に飛び出してた……。で、その後は桐生さんもお前も倒れてた」


 その言葉に、颯真は何も答えられなかった。


「……でも、その後……桐生さんが……」


 友人の言葉が詰まった。まるで事故当日のことを思い出そうとしているが、言葉にできない様子だ。


「ん、悪い……なんか、はっきり覚えてないんだよな」


「覚えてない?」


 友人は腕を組み、眉間にしわを寄せた。


「俺もあんなことになってショックでさ。事故の時のこと思い出そうとすると、記憶に靄がかかったみたいになるんだよ」


「なるほど、他に何か覚えてることはないか?」


 颯真は必死で尋ねた。


「それ以外は……うーん、ごめん。あんな衝撃的な出来事だったはずなのに全部ぼやけてるんだよな。マジで申し訳ない」


「……そうか」


 友人の曖昧な証言が、かえって颯真の中に不安を増幅させた。


「もし何か思い出したらまた声かけるよ」


 申し訳なさそうに謝る友人に颯真は礼を告げ、その場を後にした。


 教室を出てから、颯真はふらつく足取りで人気のない廊下を歩いていた。

 友人は事故直後の様子をあまり覚えていないと言った。ただ、どことなく釈然としない。目撃者から情報を得られないとすると、後は事実ベースで確認するしかない。

 颯真はそのまま足を動かし、学校の図書館に向かった。ここには事故についての記事を集めた新聞の縮刷版が置かれている。

 事故の詳細を知るためには、それを確認するしかないと思ったのだ。


 縮刷版を引っ張り出し、事故が起きた日付でページをめくる。そこに掲載されていたのは、簡潔にまとめられた記事だった。


『高校生、交通事故で意識不明――女子生徒一人が死亡』


 その見出しを読んだ瞬間、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。


 記事にはこう書かれていた。


『午後5時半頃、横断歩道を渡ろうとしていた二人の高校生がトラックに衝突された。事故に巻き込まれたのは、桐生咲さん(17)と浅倉颯真さん(17)。桐生さんは事故後、搬送先の病院で死亡が確認された。浅倉さんは現在も意識不明の状態が続いている』


「……俺も、意識不明……?」


 目の前の文字を、何度も読み返した。

 咲が亡くなり、自分も重傷を負った。それが記事の内容だった。


 この情報が本当だとするならば、自分はすぐに目を覚まし、咲の葬儀に出たのか――?


 手の震えを押さえながら、縮刷版を閉じる。立ち上がると、図書館の静けさが耳に痛いほど響いた。


「俺の記憶は……間違ってるのか?」


 ふらつく足で廊下に戻る。窓の外に目をやると、夕陽が傾き始めていた。茜色に染まる空が、あの日の事故を無理やり思い出させる。


咲が横断歩道を渡ろうとした瞬間、颯真は確かに彼女を引き寄せた。その後――。


「……それ以降が、ない」


 自分がどうなったのか。咲がどうなったのか。その記憶が完全に抜け落ちているのだ。


 その夜、帰宅した颯真は、ポストに入っているいつもの手紙を手に取った。


 震える指で封筒を開くと、中から出てきた便箋にはこう書かれていた。 


『お願い。目を覚まして』


その一文を見た瞬間、全身が凍りついた。


「……目を覚まして?」


 手紙の中で語りかけてくる咲の言葉。その一つひとつが、これまでと違う響きを持ち始めているように感じた。


「俺が……眠ってる?」


 これまでの手紙も全て読み返してみる。咲が語りかけるように綴った文章。その内容は、まるで「現実の咲」が自分に語りかけているように思えてきた。


「待て……これは……」


頬を叩いてみる。冷たい感覚はある。これが夢だとは思えない。だが、もしも――。


「これが、夢だとしたら?」


その瞬間、胸の中で何かが崩れ落ちた。


颯真は決意したように顔を上げた。


「確かめるしかない……病院に行って、真実を」


 記事の中に書かれていた病院の名前を思い出す。その場所が全ての鍵を握っているはずだ――事故の真相、咲の手紙、そして自分の記憶。

 何もかもを明らかにするために、颯真は自分の足で真実に向かう決意を固めた。


 翌日、颯真は校門を出ると、迷うことなく病院へ向かうバスに乗った。

別の新聞記事に記載されていた病院の名前――「市立中央病院」。

 いつもと変わらない平日の街の風景が窓越しに流れていく。だが、その景色がどこか遠いものに感じられた。


「……これで何が分かるんだろう」


 小さく呟いた言葉が、自分自身の耳に届く。

 もし自分が今見ている世界が夢なのだとしたら、この記事の病院に辿り着いても、何かがある保証などない。だが、それでも確かめずにはいられなかった。


 バスを降り、病院の正面に立つ。白い外壁の建物が目の前にそびえ立っている。

エントランスから出入りする人々の姿に目を向けながら、颯真は大きく息を吸い込んだ。


「行こう……」


 受付に立つと、若い女性の職員が笑顔で声をかけてきた。


「どうされましたか?」


 颯真は心の中で言葉を整理しながら答える。


「えっと……1ヶ月ほど前に事故で運ばれた患者のことで確認したいんです。名前は浅倉颯真と桐生咲……というんですが」


 女性職員の表情が一瞬だけ曇る。それを見逃さなかった颯真の胸がざわつく。


「少々お待ちくださいね」


 職員は端末を操作し、画面に表示されたデータを確認しているようだった。そして、柔らかな表情を浮かべて戻ってきた。


「桐生咲さんについては、入院記録は現在ございません。ですが……」


「……ですが?」


「浅倉颯真さんというお名前で、現在も入院中の方がいらっしゃいます。確認してもよろしいですか?」


 その言葉に、心臓が激しく鼓動を打つ。


「……お願いします」


 職員は慣れた手つきで電話を取り、何かを確認している。少ししてから、彼女は再び颯真の方を向いた。


「浅倉さんのお部屋をご案内しますね。5階のICUになります」


 ICUの扉を開けた瞬間、颯真は言葉を失った。


 そこには、自分自身が横たわっていた――。


 無数の医療機器に繋がれ、閉じられたまぶた。

呼吸器が規則的な音を立て、心電図の波形が静かに動いている。


「……俺……?」


 声が震え、視界が歪む。目の前の光景が現実だとは信じられなかった。


「事故から1ヶ月間、意識が戻らない状態が続いています。ただ、いつ何が起きてもおかしくない……そんな状態です」


「1ヶ月……」


自分はずっと、ここで眠り続けていた――。


「そんな……じゃあ、俺が見ていたのは……」


 震える手で病室のベッドに触れようとする。その時、ふと視線が隣にある椅子に向いた。そこには、小さな便箋の束が置かれていた。

 便箋を手に取ると、そこには見覚えのある文字が並んでいた。


「……これ、咲の……?」


『お願い、目を覚まして』


『君の未来を、ちゃんと生きて』


 これまで夢の中で読んだ手紙と全く同じ内容がそこに綴られていた。


「なんで、ここに……」


 呟きながら、ページをめくる。どの手紙も、自分を励ます言葉や咲の想いが綴られている。


 その瞬間、背後から声が聞こえた。


「届いてたんだね……私の手紙」


 振り向くと、そこには――咲が立っていた。


「咲……!」


 涙を浮かべた咲が、優しく微笑んでいる。その姿は、颯真が夢の中で何度も見た咲そのものだった。


 「ずっと語りかけてたんだよ。病室でね、颯真に」


 咲は椅子に腰掛けながら話し始める。事故の後、彼女は軽傷で済み、意識不明となった颯真に毎日会いに来ていたこと。いてもたってもいられず手紙をずっと書き続けたこと。


「本当に良かった……ちゃんと、届いてたんだね」


 咲が涙を流しながら微笑む。その姿に、颯真の心は溢れそうになる。


「ありがとう、颯真……本当に、ありがとう」


 彼女が手をそっと握りしめてくる。温かいその手が、現実だと教えてくれる。


 咲の手の温かさが、颯真の胸を締め付けるように広がった。


「咲……俺、ずっと……」


 言葉が詰まる。喉の奥から溢れそうになる想いが多すぎて、何から伝えればいいのか分からない。


 咲は静かに微笑み、言葉を遮るように首を振った。


「大丈夫だよ、颯真。私はずっと、ここにいるから」


 その声は優しく、揺るぎないものだった。


「でも……俺、お前を守れなかった。あの時……」


「違うよ」


 咲が強い口調で言い切る。その目には涙が浮かんでいたが、力強さを感じさせた。


「颯真がいたから、私は今ここにいるんだよ。あの時、守ってくれたから」


 彼女の言葉が胸に深く刺さる。これまで自分を縛ってきた「後悔」という鎖が、ふっと消え去るような感覚だった。


「……俺は、本当に守れたんだな」


 咲は静かに頷く。そして、そっともう一度手紙を渡してきた。


「最後の手紙だよ」


 便箋を開くと、そこにはたった一文だけが書かれていた。


『おかえりなさい。私は、待ってるよ――桐生 咲』


 目の奥が熱くなる。涙が頬を伝い、便箋に染みを作る。それを見た咲もまた涙を流していた。


 「俺、咲のことが好きだ。今までちゃんと伝えられなくてごめん」


 咲は大きく目を見開くと、静かに笑った。


「うん……、やっと両想いになれた」


 そして颯真は咲を抱きしめる。咲は小さく耳元で呟いた。


「帰ってきてね、颯真」


 その声が、彼の意識を深いところから引き上げていくようだった。















 光が差し込む感覚がした。まぶたが重たく、ゆっくりと開くのに時間がかかる。それでも、少しずつ視界がクリアになっていく。


 目の前に見えたのは、白い天井だった。


「……ここは……」


 喉が乾ききっていて、声がかすれる。何とか首を動かして周囲を見渡すと、そこは見覚えのない病室だった。


 頭がぼんやりしている。だが、少しずつ現実感が戻ってくる。


(……俺、事故に遭ったんだっけ?)


 その瞬間、鮮明に蘇る記憶。咲が横断歩道を渡ろうとして、颯真が咄嗟に彼女を引き寄せた――。そして夢の中で咲に会えたこと。


「咲……!」


 急に身体を起こそうとするが、全身に鈍い痛みが走る。動けない。


(咲はどこだ……)


 彼女の名前を呼びそうになった時、病室のドアが開いた。


 入ってきたのは、彼の母親だった。目元が赤く腫れ、疲れ切った表情を浮かべている。


「颯真……!」


 彼女は駆け寄り、ベッド脇に座り込むと涙を浮かべた。


「良かった……本当に良かった……目を覚ましてくれて……」


 母親の手が震えている。それを感じながら、颯真は自分がどれだけ心配をかけたのかを痛感する。


 だが、頭の中は一つのことだけでいっぱいだった。


「母さん……咲は? 桐生は……無事なのか?」


 その問いかけに、母親はハッとした表情を浮かべ、口を閉ざした。


「……母さん?」


 沈黙の時間が、かえって胸を締め付ける。


「咲は……咲はどうなったんだ!」


 颯真が声を張り上げると、母親は震える声で告げた。


「……颯真……咲ちゃんは……亡くなったのよ」


 その言葉に、全身が凍りついた。


「……嘘だ」


 何度も呟く。だが、母親の表情は変わらない。


「事故の時、あなたが咲ちゃんを庇って……でも頭を強く打って……その場で……」


 全てを聞き終える前に、颯真は目を閉じた。現実があまりにも重たく、受け止めきれなかった。


「でもね、咲ちゃんは……あなたを守ってくれたのよ」


 母親は辛そうな顔をしながら、続けた。


「咲ちゃんが、あなたを助けてくれたのよ。事故で輸血が必要になったあなたに……彼女の血液を分けることで……」


 言葉を聞きながら、颯真の手は震えていた。


「そんな……咲が……俺を……?」


 その瞬間、夢の中で見た手紙の言葉が脳裏に蘇る。


『君の未来を、ちゃんと生きて』


「咲……結局お前が……俺を守ったんだな」





 颯真は母親に頼み、病院内を歩き回った。咲がどこかにいる気がしてならなかった。夢の中のメッセージ――それは、彼女の最後の言葉が届いているように感じたからだ。


 屋上の扉を開けると、そこには一枚の便箋が置かれていた。風に揺れるその紙を手に取り、震える手で開くと、咲の文字が目に飛び込んできた。


『颯真へ――君がこれを読んでいる時、私はもう君のそばにいないかもしれないね。でも、不思議だな。今でも君の声や笑顔が頭の中に浮かぶんだよ。まるで君がすぐ隣にいてくれるみたいに。君が私を守ろうとしてくれたこと、本当に嬉しかった。あの瞬間、君が全力で私を引き寄せてくれたこと、きっと一生忘れないと思う。たとえその「一生」が少し短かったとしてもね。でも、今度は私が君を守る番だと思ったんだ。君にはまだ、未来がある。笑顔になれる瞬間が、たくさん待っている。だから、私は君に自分の「生きる力」を託したよ。これからも辛いことや悲しいことがあるかもしれない。でも、その時は私を思い出して。私が君を守りたいと思ったように、君も誰かを守れる強い人だって信じてるから。君が幸せになってくれること。それだけが、私の願いだよ。大好きだよ、またね。 咲』


 涙が止まらなかった。彼女の言葉が胸に沁み渡る。


「咲……ありがとう。お前が守ってくれた命……絶対に無駄にしない」


 屋上から見える青空を見上げながら、颯真はそっと手紙を胸に抱きしめた。風が吹き抜ける中、咲の声が耳に響くような気がした。


「ずっと、そばにいるよ」


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