量子の呪縛:贖罪の仕事人
中村卍天水
第1話 量子の呪縛:贖罪の仕事人誕生
量子の呪縛:贖罪の仕事人
第一章:闇への誘い
2023年、バンコク。雨季明けの湿った空気は、プラカノン運河の淀んだ水面に重く垂れ込めていた。コールセンターで働く日本人女性、佐藤奈々子は、家賃3000バーツの古びたアパートに引っ越してきた。薄汚れた5階建ての建物、黄ばんだ壁、そして黒いカビ。奈々子は、都会の喧騒から逃れてきたはずなのに、言い知れない不安に駆られていた。部屋の隅には、埃を被った黄色い扇風機。欠けた羽根、異様な存在感。夜になると、スイッチが入っていないのに、かすかに首を振るような気がした。
ある夜、隣室の老婆、サイトーンに会った。「このアパートには、暗い歴史がある。特に、あなたのような日本人女性が…多くの人が消えていった」 老婆の言葉と、運河からの不気味な囁きのような水音に、奈々子の恐怖は増幅していく。インターネットで検索すると、「プラカノン運河に棲む悪霊」という記事を見つけた。そこには、奈々子の部屋にあるものと瓜二つの黄色い扇風機の写真。呪いのアイテムだと書かれていた。
翌日、プラカノン市場で、奈々子は白髪の老婆から黄色い扇風機を勧められた。麻衣という別の日本人女性も、プラカノン地区の同じようなアパートで、黄色い扇風機を見て不気味に感じていた。彼女は友美という女性から、プラカノンで日本人女性が失踪しているという噂を聞かされる。彩音という女性も、友美から妹がプラカノンで失踪し、その部屋にも黄色い扇風機があったと聞く。ユウタというお笑い芸人も、事故物件の部屋で黄色い扇風機にまつわる恐怖体験をしていた。
奈々子は、アパートで奇妙な夢を見るようになった。霧に包まれた運河、水面から伸びる無数の触手。それはまるで、過去の出来事を追体験しているかのようだった。
かつて、プラカノン運河沿いにはサオワパーという女性が住んでいた。夫ソムチャイが戦争に行った後、生まれたばかりの赤ん坊を抱え、孤独と絶望に苛まれていた彼女は、次第に正気を失っていく。そして、ソムチャイが戻ってきたとき、彼女はすでにこの世の人ではなく、幽霊となって彼を運河に引きずり込んだ。人々は、暑い夜に運河沿いを歩くと、「暑い…暑い…」というサオワパーの囁きを聞くという。
また、メナークという女性も、夫マークの帰りを待ちわびるあまり、精神を病んでいった。彼女は、奇妙なカブトムシを食べて意識を失い、幻想の中でマークとの再会を果たす。このカブトムシは、昆虫食研究者の桃子と友人ブンが、郊外の古寺で見た巨大なカブトムシと奇妙な模様の扇風機と関連があるようだった。桃子は、この出来事の後、巨大なカブトムシから古代の言葉が書かれた巻物を渡される。
桃子の体験は、さらに驚くべき事実へと繋がっていく。第二次世界大戦後、バンコクに逃亡した元ナチスの科学者、クラウス・シュミットは、古道具屋を営みながら悪魔召喚の研究を続けていた。彼は、特殊な扇風機を開発し、時空を超える装置を作り出していた。この扇風機は、クトゥルフのしもべに狙われ、盗まれてしまう。後に、悠太とソムチャイがこの扇風機に遭遇し、悠太は時空を超える体験をする。
クラウスは、ナチスの秘密結社「アーネンエルベ」に所属していた。彼は、そこで悪魔召喚機の開発に携わり、扇風機型の装置を作り出した。しかし、彼はアーネンエルベの真の目的を知り、研究データを持って逃亡する。
クラウスの扇風機は、様々な人物の手に渡り、悲劇を引き起こしていく。拓也は扇風機に支配され、殺人衝動に駆られ、太郎を刺し、小夜子を追い詰める。小夜子は窓から飛び降りて生き延びるが、扇風機の恐怖から逃れられずにいた。アパートの新しい管理人、佐々木も扇風機の影響を受け、殺人を犯そうとする。佐々木は、ナンティダという女性の霊に取り憑かれた扇風機を破壊し、呪いを解こうとする大河原英樹に助けられる。
奈々子は、サイトーンの警告を無視できず、アパートを出ていくことにした。しかし、プラカノン運河の呪いは、彼女を簡単に解放してはくれなかった。街を歩いていると、どこからともなく扇風機の音が聞こえてくる。振り返ると、そこにはあの黄色い扇風機が、ゆっくりと回転していた。奈々子は、扇風機の囁きから逃れられず、永遠にプラカノンの呪いに囚われることになった。
プラカノン運河の呪いは、過去、現在、未来、そして様々な人々の運命を絡み合わせ、永遠に繰り返される。黄色い扇風機は、その呪いの象徴として、今日もどこかで回り続けている。そして、運河の暗い水面は、新たな犠牲者を待ち続けている。
奈々子の失踪から数週間後、プラカノン運河の奇妙な噂はさらに広まっていた。人々は夜の運河を恐れ、黄色い扇風機を凶兆の象徴として忌み嫌うようになった。しかし、そんな中、一人の男がこの怪異に挑戦しようとしていた。
男の名は、高藤 誠一郎。東京大学で量子力学を研究する若き教授だ。彼は、友人のジャーナリストから奈々子の失踪事件とプラカノン運河の噂を聞き、強い興味を抱いた。科学者として、超自然現象を信じない誠一郎だったが、この不可解な事件には、科学では説明できない何かがあると直感したのだ。
誠一郎は、早速バンコクへと飛んだ。彼は、奈々子が住んでいたアパートを訪れ、管理人のポンおばさんに話を聞いた。ポンおばさんは、最初は警戒していたが、誠一郎の真剣な眼差しを見て、これまでの出来事を語り始めた。サオワパーとソムチャイの悲劇、メナークの狂気、クラウスの悪魔召喚、そして数々の失踪事件。
誠一郎は、ポンおばさんの話を注意深く聞きながら、メモを取っていた。彼は、特に黄色い扇風機と運河に強い興味を抱いた。なぜ、これほどまでに多くの事件が、この二つの要素と結びついているのか。彼は、科学的な視点から、この謎を解明しようと決意した。
誠一郎は、まずプラカノン運河の水質調査を行った。すると、驚いたことに、運河の水には、微量の未知の物質が含まれていることが判明した。その物質は、地球上に存在するどの元素とも一致しない、全く新しい物質だった。
さらに、誠一郎は、黄色い扇風機を詳しく調べてみた。すると、扇風機のモーター部分に、奇妙な模様が刻まれていることに気づいた。その模様は、古代タイ文字と、何かの数式を組み合わせたような、複雑なもので、解読は困難を極めた。
誠一郎は、東京大学の同僚である、言語学者と物理学者に協力を依頼した。数週間の研究の結果、彼らはついにその模様の解読に成功した。それは、驚くべきことに、量子力学の法則に基づいた、時空操作装置の設計図だったのだ。
誠一郎は、自分の研究が、プラカノン運河の怪異と繋がっていることに衝撃を受けた。量子力学の理論では、時空を超えることは不可能ではないと考えられている。しかし、それはあくまでも理論上の話であり、実現には程遠いというのが、これまでの常識だった。
しかし、クラウスが開発した黄色い扇風機は、実際に時空操作を実現していたのだ。しかも、それは、古代タイの呪術と、ナチスの科学技術が融合した、奇妙なテクノロジーだった。
誠一郎は、この扇風機が、プラカノン運河の怪異の原因であると確信した。扇風機が時空を歪ませ、過去や未来、あるいは別の世界からのエネルギーを引き寄せているのではないか。そして、そのエネルギーが、人々の精神に影響を与え、狂気や死へと導いているのではないか。
誠一郎は、自分の仮説を証明するために、ある実験を計画した。彼は、最新の量子コンピューターと、特殊なセンサーを組み合わせた装置を開発した。この装置を使えば、時空の歪みを検知し、そのエネルギーを測定することができるはずだった。
誠一郎は、ポンおばさんと協力し、奈々子が失踪した夜と同じ条件で実験を行った。満月の夜、アパートの部屋に装置を設置し、黄色い扇風機を起動させた。すると、センサーが反応し、部屋の中に、異様なエネルギーが充満し始めた。
そのエネルギーは、人間の感情、特に恐怖や悲しみ、憎しみといった負の感情に強く反応していた。誠一郎は、このエネルギーが、プラカノン運河で起きた悲劇的な事件の残留思念であると考えた。
誠一郎は、さらに研究を進めるうちに、ある恐るべき可能性に思い至った。もし、この扇風機が、単に時空を歪ませるだけでなく、異なる時空の意識を融合させる力を持っているとしたらどうなるのか。
彼は、過去の記録を調べ直した。すると、プラカノン運河で起きた事件の犠牲者たちは、皆、何か共通の体験をしていたことに気づいた。彼らは、霧に包まれた運河、水面から伸びる触手、そして**「暑い…暑い…」という女性の囁き**を聞いていたのだ。
これは、サオワパーの意識が、扇風機の力によって、他の犠牲者たちの意識と融合していることを示しているのではないか。そして、その融合が、新たな怪異を生み出し、さらに多くの犠牲者を生み出しているのではないか。
誠一郎は、この恐るべき連鎖を断ち切らなければいけないと思った。しかし、そのためには、量子レベルで意識を分離するという、前代未聞の技術が必要だった。
誠一郎は、再び東京大学の同僚に協力を依頼した。彼らは、量子コンピューターと、脳波を制御する最新技術を組み合わせ、意識分離装置を開発した。それは、まるでSF映画に登場するような、巨大で複雑な装置だった。
誠一郎は、この装置を使い、黄色い扇風機に囚われた魂たちを解放しようと決意した。しかし、それは、想像を絶する危険を伴う挑戦だった。
誠一郎は、ポンおばさんと、事件の生存者である小夜子の協力を得て、プラカノン運河で、意識分離実験を行う準備を進めた。彼らは、運河に浮かぶ古いボートに装置を設置し、黄色い扇風機を起動させた。
装置が作動すると、運河の水面が輝き始め、空気が震え始めた。そして、霧の中から、無数の人影が現れた。それは、サオワパー、メナーク、大田太郎、ジョン・スミス、そして他の犠牲者たちの魂だった。
彼らは、苦しげな表情で、誠一郎たちを見つめていた。彼らの目は、悲しみと怒りで満ちていた。
誠一郎は、装置を操作し、意識分離プログラムを起動させた。すると、人影たちが苦しみ出し、うめき声を上げた。彼らの体は、光に包まれ、徐々に消えていこうとしていた。
その時、サオワパーの魂が、誠一郎の前に現れた。彼女は、赤ん坊を抱きしめ、悲しげな表情で、誠一郎を見つめていた。
「お願い…私たちを…解放して…」
誠一郎は、彼女の言葉に心を打たれた。彼は、この女性を、そして他の魂たちを、救いたいと思った。
誠一郎は、プログラムを調整し、魂たちを、苦しみから解放するモードに変更した。すると、人影たちの表情が、安らかなものへと変わっていった。彼らは、光に包まれ、静かに消えていった。
誠一郎は、プラカノン運河の怪異を、科学の力で解決することに成功した。彼は、量子力学の知識を駆使し、時空を超える装置を開発したクラウスの罪を償い、扇風機に囚われた魂たちを解放したのだ。
事件後、誠一郎は、量子力学の研究を続けながら、プラカノン運河の再生プロジェクトにも協力した。運河の水質は改善され、周辺の環境も整備された。そして、人々は再び、運河の美しさを取り戻した。
しかし、誠一郎は、プラカノン運河の深い闇を、決して忘れることはなかった。彼は、科学の進歩が、必ずしも人類の幸福に繋がるとは限らないことを、身をもって知ったのだ。
プラカノン運河は、静かに流れ続けている。時折、水面に浮かぶ月の光は、まるで黄色い扇風機の影のように見える。しかし、それはもはや、恐怖の象徴ではない。それは、過去を乗り越え、未来へと歩む人々の希望の光なのだ。
第二章 贖罪の仕事人の誕生
2023年、バンコク。プラカノン運河の淀んだ水面に、満月が不気味な光を落としていた。東京大学で量子力学を研究する高藤誠一郎は、日本人女性の失踪事件を追って、この地を訪れていた。
古びたアパートの一室。誠一郎は、埃を被った黄色い扇風機を前に立ち尽くしていた。その欠けた羽根と異様な存在感は、科学では説明のつかない何かを感じさせた。管理人のポンおばさんは、この扇風機にまつわる不可解な事件の数々を語った。サオワパーという女性の悲劇、メナークの狂気、そして数々の失踪事件。すべては、この黄色い扇風機と、プラカノン運河に繋がっていた。
誠一郎は科学者として、この現象の解明に執着した。扇風機のモーターに刻まれた古代タイ文字と量子方程式。それは、第二次世界大戦後にバンコクに逃れた元ナチスの科学者、クラウス・シュミットの残した時空操作装置の設計図だった。
運河の水質調査で発見された未知の物質。量子コンピューターが検知した異常なエネルギー波動。そして、人々の意識が量子レベルで融合するという驚くべき事実。誠一郎は、科学の領域を超えた真実に、徐々に近づいていった。
しかし、その真実は、彼の人生を大きく変えることになる。かつての先輩である霧島透との再会。霧島は、この量子の力を使って悪人を裁く「贖罪の仕事人」となっていた。東京郊外の廃工場で、霧島は語った。
「この世界は腐敗している。法は機能せず、悪が蔓延る。だが、私たちには力がある。量子もつれを通じて、人間の怨念を増幅し、遠隔地に作用させる力が。これこそが、科学が生み出した究極の裁きだ。」
誠一郎は、最初こそ霧島の行為に否定的だった。しかし、プラカノン運河での体験は、彼の価値観を大きく揺るがしていた。科学では説明できない現象の数々。そして、その背後にある人々の魂の叫び。
彼は次第に、霧島の思想に共鳴していった。科学の力で悪を裁く。それは、狂気か、それとも新たな正義なのか。
「霧島先輩、私も共に行動させてください。この歪んだ世界を、正したい。」
誠一郎の言葉に、霧島は静かに頷いた。
これは、量子力学という科学の極致が、人間の怨念という非科学と交錯する物語。そして、正義の在り方を追い求める、一人の科学者の魂の軌跡。やがて誠一郎は、自らも「贖罪の仕事人」として、量子の呪いを操る者となっていく。
その時、プラカノン運河の水面に、黄色い扇風機の影が揺らめいていた。それは、新たな物語の始まりを告げているかのようだった。
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量子の呪縛:贖罪の仕事人
第一章:ささやく風
2023年、バンコク。雨季明けの湿った空気は、プラカノン運河の淀んだ水面に重く垂れ込めていた。コールセンターで働く日本人女性、佐藤奈々子は、家賃3000バーツの古びたアパートに引っ越してきた。薄汚れた5階建ての建物、黄ばんだ壁、そして黒いカビ。奈々子は、都会の喧騒から逃れてきたはずなのに、言い知れない不安に駆られていた。部屋の隅には、埃を被った黄色い扇風機。欠けた羽根、異様な存在感。夜になると、スイッチが入っていないのに、かすかに首を振るような気がした。
ある夜、隣室の老婆、サイトーンに会った。「このアパートには、暗い歴史がある。特に、あなたのような日本人女性が…多くの人が消えていった」 老婆の言葉と、運河からの不気味な囁きのような水音に、奈々子の恐怖は増幅していく。インターネットで検索すると、「プラカノン運河に棲む悪霊」という記事を見つけた。そこには、奈々子の部屋にあるものと瓜二つの黄色い扇風機の写真。呪いのアイテムだと書かれていた。
翌日、プラカノン市場で、奈々子は白髪の老婆から黄色い扇風機を勧められた。麻衣という別の日本人女性も、プラカノン地区の同じようなアパートで、黄色い扇風機を見て不気味に感じていた。彼女は友美という女性から、プラカノンで日本人女性が失踪しているという噂を聞かされる。彩音という女性も、友美から妹がプラカノンで失踪し、その部屋にも黄色い扇風機があったと聞く。ユウタというお笑い芸人も、事故物件の部屋で黄色い扇風機にまつわる恐怖体験をしていた。
奈々子は、アパートで奇妙な夢を見るようになった。霧に包まれた運河、水面から伸びる無数の触手。それはまるで、過去の出来事を追体験しているかのようだった。
かつて、プラカノン運河沿いにはサオワパーという女性が住んでいた。夫ソムチャイが戦争に行った後、生まれたばかりの赤ん坊を抱え、孤独と絶望に苛まれていた彼女は、次第に正気を失っていく。そして、ソムチャイが戻ってきたとき、彼女はすでにこの世の人ではなく、幽霊となって彼を運河に引きずり込んだ。人々は、暑い夜に運河沿いを歩くと、「暑い…暑い…」というサオワパーの囁きを聞くという。
また、メナークという女性も、夫マークの帰りを待ちわびるあまり、精神を病んでいった。彼女は、奇妙なカブトムシを食べて意識を失い、幻想の中でマークとの再会を果たす。このカブトムシは、昆虫食研究者の桃子と友人ブンが、郊外の古寺で見た巨大なカブトムシと奇妙な模様の扇風機と関連があるようだった。桃子は、この出来事の後、巨大なカブトムシから古代の言葉が書かれた巻物を渡される。
桃子の体験は、さらに驚くべき事実へと繋がっていく。第二次世界大戦後、バンコクに逃亡した元ナチスの科学者、クラウス・シュミットは、古道具屋を営みながら悪魔召喚の研究を続けていた。彼は、特殊な扇風機を開発し、時空を超える装置を作り出していた。この扇風機は、クトゥルフのしもべに狙われ、盗まれてしまう。後に、悠太とソムチャイがこの扇風機に遭遇し、悠太は時空を超える体験をする。
クラウスは、ナチスの秘密結社「アーネンエルベ」に所属していた。彼は、そこで悪魔召喚機の開発に携わり、扇風機型の装置を作り出した。しかし、彼はアーネンエルベの真の目的を知り、研究データを持って逃亡する。
クラウスの扇風機は、様々な人物の手に渡り、悲劇を引き起こしていく。拓也は扇風機に支配され、殺人衝動に駆られ、太郎を刺し、小夜子を追い詰める。小夜子は窓から飛び降りて生き延びるが、扇風機の恐怖から逃れられずにいた。アパートの新しい管理人、佐々木も扇風機の影響を受け、殺人を犯そうとする。佐々木は、ナンティダという女性の霊に取り憑かれた扇風機を破壊し、呪いを解こうとする大河原英樹に助けられる。
奈々子は、サイトーンの警告を無視できず、アパートを出ていくことにした。しかし、プラカノン運河の呪いは、彼女を簡単に解放してはくれなかった。街を歩いていると、どこからともなく扇風機の音が聞こえてくる。振り返ると、そこにはあの黄色い扇風機が、ゆっくりと回転していた。奈々子は、扇風機の囁きから逃れられず、永遠にプラカノンの呪いに囚われることになった。
プラカノン運河の呪いは、過去、現在、未来、そして様々な人々の運命を絡み合わせ、永遠に繰り返される。黄色い扇風機は、その呪いの象徴として、今日もどこかで回り続けている。そして、運河の暗い水面は、新たな犠牲者を待ち続けている。
奈々子の失踪から数週間後、プラカノン運河の奇妙な噂はさらに広まっていた。人々は夜の運河を恐れ、黄色い扇風機を凶兆の象徴として忌み嫌うようになった。しかし、そんな中、一人の男がこの怪異に挑戦しようとしていた。
男の名は、高藤 誠一郎。東京大学で量子力学を研究する若き教授だ。彼は、友人のジャーナリストから奈々子の失踪事件とプラカノン運河の噂を聞き、強い興味を抱いた。科学者として、超自然現象を信じない誠一郎だったが、この不可解な事件には、科学では説明できない何かがあると直感したのだ。
誠一郎は、早速バンコクへと飛んだ。彼は、奈々子が住んでいたアパートを訪れ、管理人のポンおばさんに話を聞いた。ポンおばさんは、最初は警戒していたが、誠一郎の真剣な眼差しを見て、これまでの出来事を語り始めた。サオワパーとソムチャイの悲劇、メナークの狂気、クラウスの悪魔召喚、そして数々の失踪事件。
誠一郎は、ポンおばさんの話を注意深く聞きながら、メモを取っていた。彼は、特に黄色い扇風機と運河に強い興味を抱いた。なぜ、これほどまでに多くの事件が、この二つの要素と結びついているのか。彼は、科学的な視点から、この謎を解明しようと決意した。
誠一郎は、まずプラカノン運河の水質調査を行った。すると、驚いたことに、運河の水には、微量の未知の物質が含まれていることが判明した。その物質は、地球上に存在するどの元素とも一致しない、全く新しい物質だった。
さらに、誠一郎は、黄色い扇風機を詳しく調べてみた。すると、扇風機のモーター部分に、奇妙な模様が刻まれていることに気づいた。その模様は、古代タイ文字と、何かの数式を組み合わせたような、複雑なもので、解読は困難を極めた。
誠一郎は、東京大学の同僚である、言語学者と物理学者に協力を依頼した。数週間の研究の結果、彼らはついにその模様の解読に成功した。それは、驚くべきことに、量子力学の法則に基づいた、時空操作装置の設計図だったのだ。
誠一郎は、自分の研究が、プラカノン運河の怪異と繋がっていることに衝撃を受けた。量子力学の理論では、時空を超えることは不可能ではないと考えられている。しかし、それはあくまでも理論上の話であり、実現には程遠いというのが、これまでの常識だった。
しかし、クラウスが開発した黄色い扇風機は、実際に時空操作を実現していたのだ。しかも、それは、古代タイの呪術と、ナチスの科学技術が融合した、奇妙なテクノロジーだった。
誠一郎は、この扇風機が、プラカノン運河の怪異の原因であると確信した。扇風機が時空を歪ませ、過去や未来、あるいは別の世界からのエネルギーを引き寄せているのではないか。そして、そのエネルギーが、人々の精神に影響を与え、狂気や死へと導いているのではないか。
誠一郎は、自分の仮説を証明するために、ある実験を計画した。彼は、最新の量子コンピューターと、特殊なセンサーを組み合わせた装置を開発した。この装置を使えば、時空の歪みを検知し、そのエネルギーを測定することができるはずだった。
誠一郎は、ポンおばさんと協力し、奈々子が失踪した夜と同じ条件で実験を行った。満月の夜、アパートの部屋に装置を設置し、黄色い扇風機を起動させた。すると、センサーが反応し、部屋の中に、異様なエネルギーが充満し始めた。
そのエネルギーは、人間の感情、特に恐怖や悲しみ、憎しみといった負の感情に強く反応していた。誠一郎は、このエネルギーが、プラカノン運河で起きた悲劇的な事件の残留思念であると考えた。
誠一郎は、さらに研究を進めるうちに、ある恐るべき可能性に思い至った。もし、この扇風機が、単に時空を歪ませるだけでなく、異なる時空の意識を融合させる力を持っているとしたらどうなるのか。
彼は、過去の記録を調べ直した。すると、プラカノン運河で起きた事件の犠牲者たちは、皆、何か共通の体験をしていたことに気づいた。彼らは、霧に包まれた運河、水面から伸びる触手、そして**「暑い…暑い…」という女性の囁き**を聞いていたのだ。
これは、サオワパーの意識が、扇風機の力によって、他の犠牲者たちの意識と融合していることを示しているのではないか。そして、その融合が、新たな怪異を生み出し、さらに多くの犠牲者を生み出しているのではないか。
誠一郎は、この恐るべき連鎖を断ち切らなければいけないと思った。しかし、そのためには、量子レベルで意識を分離するという、前代未聞の技術が必要だった。
誠一郎は、再び東京大学の同僚に協力を依頼した。彼らは、量子コンピューターと、脳波を制御する最新技術を組み合わせ、意識分離装置を開発した。それは、まるでSF映画に登場するような、巨大で複雑な装置だった。
誠一郎は、この装置を使い、黄色い扇風機に囚われた魂たちを解放しようと決意した。しかし、それは、想像を絶する危険を伴う挑戦だった。
誠一郎は、ポンおばさんと、事件の生存者である小夜子の協力を得て、プラカノン運河で、意識分離実験を行う準備を進めた。彼らは、運河に浮かぶ古いボートに装置を設置し、黄色い扇風機を起動させた。
装置が作動すると、運河の水面が輝き始め、空気が震え始めた。そして、霧の中から、無数の人影が現れた。それは、サオワパー、メナーク、大田太郎、ジョン・スミス、そして他の犠牲者たちの魂だった。
彼らは、苦しげな表情で、誠一郎たちを見つめていた。彼らの目は、悲しみと怒りで満ちていた。
誠一郎は、装置を操作し、意識分離プログラムを起動させた。すると、人影たちが苦しみ出し、うめき声を上げた。彼らの体は、光に包まれ、徐々に消えていこうとしていた。
その時、サオワパーの魂が、誠一郎の前に現れた。彼女は、赤ん坊を抱きしめ、悲しげな表情で、誠一郎を見つめていた。
「お願い…私たちを…解放して…」
誠一郎は、彼女の言葉に心を打たれた。彼は、この女性を、そして他の魂たちを、救いたいと思った。
誠一郎は、プログラムを調整し、魂たちを、苦しみから解放するモードに変更した。すると、人影たちの表情が、安らかなものへと変わっていった。彼らは、光に包まれ、静かに消えていった。
誠一郎は、プラカノン運河の怪異を、科学の力で解決することに成功した。彼は、量子力学の知識を駆使し、時空を超える装置を開発したクラウスの罪を償い、扇風機に囚われた魂たちを解放したのだ。
事件後、誠一郎は、量子力学の研究を続けながら、プラカノン運河の再生プロジェクトにも協力した。運河の水質は改善され、周辺の環境も整備された。そして、人々は再び、運河の美しさを取り戻した。
しかし、誠一郎は、プラカノン運河の深い闇を、決して忘れることはなかった。彼は、科学の進歩が、必ずしも人類の幸福に繋がるとは限らないことを、身をもって知ったのだ。
プラカノン運河は、静かに流れ続けている。時折、水面に浮かぶ月の光は、まるで黄色い扇風機の影のように見える。しかし、それはもはや、恐怖の象徴ではない。それは、過去を乗り越え、未来へと歩む人々の希望の光なのだ。
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量子の呪縛:贖罪の仕事人
高藤誠一郎は、プラカノン運河での調査を終えて以来、奇妙な感覚に囚われていた。あの不可思議な事件、時空を歪める黄色い扇風機、そして、無念に消えていった魂たち。科学者として、合理的な説明を求める一方で、心の奥底では、科学では解明できない何か、人間の業や怨念のようなものが、あの場所には確かに存在していたと感じていた。
東京に戻った誠一郎は、大学での研究に身を入れようとしたが、プラカノン運河の記憶が、まるで呪いのように、彼を蝕んでいった。彼は、量子力学の研究を続けるうちに、ある考えに取り憑かれるようになった。「もしも、人間の意識、感情、そして、怨念のようなものが、量子レベルで影響を与え、現実世界に変化をもたらすとしたら?」
そんなある日、誠一郎は、大学時代の友人であり、現在はフリージャーナリストとして活躍する滝沢から連絡を受けた。滝沢は、裏社会の情報に精通しており、最近、ある噂を耳にしたという。「闇の世界で、“贖罪の仕事人”と呼ばれる男が暗躍しているらしい。そいつは、依頼を受けると、ターゲットに呪いをかけて殺すんだ。」
誠一郎は、滝沢の話を半信半疑で聞いていた。呪いによる殺人など、科学者として到底信じられるものではなかった。しかし、プラカノン運河での経験が、彼の心に影を落としていた。
「もしかしたら…」彼は、心の奥底で何かがざわめくのを感じた。
滝沢は続けた。「仕事人のターゲットは、悪人だけだ。法の裁きを逃れた犯罪者、権力に庇護された腐敗政治家、巨悪を操る黒幕たち。そいつらは、必ず事故や病気で死ぬ。まるで、呪いのようにね。」
誠一郎は、興味を抱いた。もし、本当に呪いによる殺人があるとしたら、それは一体どのようなメカニズムで実行されるのか?量子力学の観点から、解明できる可能性はあるのか?
彼は、滝沢に頼んで、仕事人に関する情報を集めてもらうことにした。同時に、自身も独自に調査を開始した。**彼は、量子力学の研究を深掘りしていくうちに、「量子もつれ」という現象に注目するようになった。**量子もつれとは、二つの粒子が、たとえ物理的に離れていても、互いに影響し合う不思議な現象である。誠一郎は、この量子もつれが、意識や感情、そして、怨念のようなものを媒介し、距離を超えて作用するのではないかと考えた。
数週間後、滝沢から新たな情報が届いた。
「仕事人の正体は、元量子物理学者の男らしい。名前は、霧島 透。数年前に、ある事件をきっかけに、大学を辞めて姿を消したそうだ。」
霧島 透。その名前を聞いた瞬間、誠一郎は、衝撃を受けた。霧島は、大学時代の先輩であり、量子力学の天才と呼ばれていた男だった。彼は、常に型破りな研究を行い、倫理的に問題視されるテーマにも果敢に挑戦していた。
「霧島先輩が…なぜ?」誠一郎は、混乱した。優秀な科学者であった霧島が、なぜ闇の世界に身を落とし、呪い殺人を請け負うようになったのか?
誠一郎は、霧島を探し出すことを決意した。彼は、滝沢の協力を得て、霧島の足取りを追った。調査は難航したが、数ヶ月の後、彼らはついに、霧島が潜伏していると思われる場所を特定した。それは、東京郊外にある廃工場だった。
誠一郎は、滝沢と共に、廃工場へと向かった。工場は、ひっそりと静まり返っており、人の気配は感じられなかった。二人は、慎重に工場内へと侵入した。薄暗い工場内には、錆びついた機械や、埃まみれの書類が散乱していた。そして、奥の部屋には、奇妙な装置が設置されていた。
それは、複数のモニターと、複雑な配線が施された巨大な機械だった。機械の中央には、プラカノン運河で見た黄色い扇風機に似た形状の装置が組み込まれていた。
「これは…」誠一郎は、息を呑んだ。その装置は、まるで、人間の意識を増幅し、量子もつれを通じて、遠隔地に作用させるための装置のようだった。
その時、背後から声が聞こえた。「よく来たね、高藤君。」
振り返ると、そこには、やつれた様子の霧島が立っていた。
「霧島先輩…なぜこんなことを?」
誠一郎は、問いかけた。
霧島は、静かに語り始めた。
「私は、この世界に絶望したんだ。悪が蔓延り、正義は踏みにじられ、罪なき人々が苦しんでいる。法律は、腐敗し、権力者は、私腹を肥やす。私は、科学の力で、この世界を変えたいと思った。だが、それは、不可能だった…」
彼の目は、狂気的な光を帯びていた。
「だから、私は、この装置を開発した。人間の怨念を、量子もつれを通じて増幅し、対象に作用させる。それは、科学の力で実現する呪いだ。私は、この力で、世の中の法を逃れる悪人を裁く。それが、私の贖罪だ…」
誠一郎は、霧島の言葉に、強い衝撃を受けた。
彼は、霧島の心の闇、そして、歪んだ正義感を感じ取った。
「霧島先輩、それは間違っています。あなたが行っていることは、殺人です。どんな理由があろうと、許されることではありません。」
「私は、誰にも止められない。この装置は、すでに完成している。私は、私の使命を全遂行する。」
霧島の言葉は、冷酷だった。
誠一郎は、決意した。彼は、霧島を止め、この狂気を終わらせなければいけない。たとえ、かつての尊敬する先輩であっても。
「私は、あなたを止めます、霧島先輩。そして、あなたを、正しい道へと導きます。」
誠一郎の言葉に、霧島は、冷笑した。
「高藤君、君は、私を止められるとでも思っているのか? 君は、まだ、量子力学の真の力を理解していない。」
二人の対峙は、量子力学と呪い、科学と倫理が交錯する、新たな戦いの始まりを告げていた。
(続く)
量子の呪縛:贖罪の仕事人 中村卍天水 @lunashade
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