それが俺には勘弁ならねえ。


 物語の「添え物」として扱われるキャラクターがいる。
 彼ら彼女らは実に儚い。最初から決められた役割を演じ、呆気なく消えていく定めにある。
 ある時は敵に。またある時は世界(運命)に、はたまたある時は主人公に。
 作り手はあまりに非力な彼らを、つい軽んじてしまう。

 そんな流れに熱い拳を叩き込んだ評論。



 神は細部に宿る。

 そんな大げさな表現を使わなくとも、我々は体感的にそのことを知っている。

 HELLSINGという有名な漫画がある。
 度し難い戦争狂の「少佐」や無能を自称するも篤い心を持つ「ペンウッド卿」をはじめ、濃すぎる人物やらケレン味たっぷりの台詞が勢揃いする作品なのだが、
 その中で私が一際印象に残ったのは、イギリスの定食屋の婆さんの話だった。
 彼女は実際に姿を見せている訳でもなく、ある人物の愚痴のような台詞の中にしか出てこない。
 しかし、描写だけで彼女は生きていて、それゆえに、シーン全体が引き立っていることが分かる。

 あるいはメタルスラッグというゲームに出てくるモーデン兵でもいい。
 彼らはいわゆる雑魚敵であり、あっさりと命を奪われる。だが仲間と談笑したり、接敵すれば驚くといった描写を入れることで、彼らにも愛着が湧く仕組みになっている。
 彼らは生きた上で果てるのだ。




 対立は嫌だし、悲しい出来事も嫌。

 それはそうだ。誰だってそうだ。

 脇役、やられ役に目を向けるならば、そういった出来事に関わらなくてはならない。
 主人公一派がざまあした、あるいは同調という形で支配した彼らが、元々どういった考えを持ち、どんな絆や関係を持っていたのか。
 それを描かなくてはならない。

 辛いことだし、面倒なことだ。
 だから目を背ける。

 気持ちはわかる。
 
 だが、恐らくはやらなくてはならない。

 仮にやられ役に「恨みます」と発されたとしても。
 作り手は自分の欲を満たすためにも、手にかける彼らを忘れてはならないのだ。