第4話

「浩太……」



 彼と初めて出会った時のことを思い出す。


 
帰ってきて。
帰ってきてほしいよ。
抱きしめたくまのぬいぐるみが、彼だったらいいのに。私の腕の中に収まっていて欲しい。それもすべて私のわがままだってことは知っているけれど。
あなたは、知っているの? 
私がこの先どうなるのか。
もしも知っているのなら、この子に聞けば、分かるんだろうか。



「……あの」



「なに?」



 先ほどまでの声が幻だった可能性にかけて控えめに声を上げたのに、ぬいぐるみはしっかりと返事をしてきた。理解はできないけれど、現状は飲み込めたと思う。



「あなた、『私』なんだよね。だったら、私はこの先浩太とどうなっちゃうのか、知ってるの?」



「うん、もちろん」


 
あっけなく返ってきた返事。あまりに自然すぎた。



「それなら、教えてくれる……? 私、このまま浩太とお別れしちゃうのかな」


 自分のものとは思えないくらい、気弱な考えが口をついて出た。



「うーん、知ってはいるけれど。教えちゃってもいいの?」



 逆に「私」の方かからそんな質問が飛んでくるなんて思ってみなかったので、思わずくまを見つめた。
可愛らしい双眸が「本当にいいの?」と訴えている。


 
本当に、いいの?


 ドキリと、心臓が痺れるようだった。
そんなことを聞くってことは、上手くいかなかったって、言ってるようなもんじゃない。
今朝、起きたら浩太がいなくなっていたときの不安と焦りを思い出す。いつも一緒に寝ているベッド。私が左側で、彼は右側だった。寝ぼけ目で右隣を見るとそこにはぽっかりと空いた空間があって。普段は全く整理整頓をしない人なのに、毛布は綺麗に畳まれていて、まるで自分の不在を主張しているようだった。



 これまで当たり前のように隣にいた彼が突然いなくなってしまう恐怖——そんなこと、今まで考えもしなかった。この歳になってから、ようやく当たり前のことに気がつくなんて。
答えが、知りたい。
自分と浩太の、この先の未来を。
未来の「私」だというこのくまなら、答えてくれる。今すぐ、未来を覗き見できる。勇気がいるし、結果によってはしばらく、朝起き上がる気力さえなくなってしまうかもしれない。


それなのに、私は知りたい。
 



 抱きかかえたくまを、さらにぎゅっと胸に押し当てた。鼓動のない生き物だ。私の宝物だったくま。いまだに捨てられなくて、こうしてここにいる。私の魂を半分吸っているくま。
 



 深く息を吸って、「彼女」の目を見た。
 



「あのね」
 



 口を開いたのは、私ではなく「私」の方だった。




「本当はね、嘘なの」



「え?」



「わたしは、未来の愛美じゃない」



「どういうこと?」


 
いきなり、また混乱するようなことを言い出すくまは、私と違って全然動揺なんかしない。ぬいぐるみなんだから、当たり前だが。



「そのままの意味だよ。嘘ついてごめんなさい。愛美に元気を出してほしくて」
「じゃあ、私じゃなくて、あなたは一体誰なの?」


 もう、何がなんだから分からないけれど、私が見つめるそのくまは、私の目を見つめ返して、何かを主張しようとしている。



「……たしは、……」



「え、なに?」



 急に、くまの声が遠くなる。
突如、お腹のあたりがきゅっと締め付けられるな不安に襲われた。
今までは鮮明に聞こえていたのに、明らかに、もうすぐまた彼のいない一人ぼっちの空間に引き戻されるという予感。
一人は、もう、嫌だ。
そう思うのに、消えかかっているくまの魂がもう戻らないことも何となく分かった。


「……のん」



「なに? 聞こえないよ」


 
力尽きる寸前のぬいぐるみは、最後の力を振り絞るみたいに、私にこう伝えた。
 


「わたし……花音。また、会おうね。……ママ」



 
花音。
幼い頃に亡くしてしまった私の妹の名前。そして、もし彼と結婚して子供ができたらつけたいと思っていた名前。妹の花音は、とても優しい子だった。私と喧嘩して泣いても、結局最初に謝ってくれるのはあの子だった。鼻水を垂らしながら「おねえちゃん、ごめんなさい」と目を赤くして言う彼女を、思わず抱きしめてしまった子供の頃の私。花音はいつも、まっすぐだった。ひねくれ者の私とは違って。



 彼と、未来の子供につけたいと話したあの記念日の夜を想うと、愛しさしかなかった。きっと「花音」なら、素直で優しい子に育ってくれる。育ってくれたらいいなって——。
もしもこの子のいうことが本当なら、私はひとりぼっちでなくなるのだろうか。ひとりぼっちじゃない、ふたりで過ごす未来に、いけるのだろうか。
 



 抱きしめたふかふかのくま。子供の頃からの宝物。
もう、彼女はいない。命の音は、自分の鼓動だけだ。
 



 でも、「彼女」の息吹が消えるのとともに、玄関からキイっと音が聞こえた。
 
思わず私は振り返り、扉の向こうから現れるはずの人物の影を、求めた。
 





【終わり】
 



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ふたり、ひとり。 葉方萌生 @moeri_185515

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