第3話

「は……」
 



 誰、え!? ちょっと待って、今の声なに?
 

 混乱しすぎてどうにかなりそう。とうとう私、頭が変になっちゃったみたいだ。
 



「びっくりしないでよ。わたしは、ここだよ」
 



 声のする方を見てみると、明らかに先ほど私を見つめていた、くまだ。
私が小学生の時から持っているくまのぬいぐるみ。毛の色は茶色いけれどずっと持っていれば汚れてくるから、何度も洗濯した。



「ずっと一緒だったじゃん。小学生の愛美が、修学旅行の時、くまのぬいぐるみがなくて眠れなかったことがあったよね」



「なんで、それを知ってるの?」



 彼女、多分声のトーンからして女性と思われる——は、なぜか私が小学生だった時の恥ずかしい話を知っている。



「だって、わたし、あなただもん」



「え?」



「だから、わたしは白石しらいし愛美。あなた自身。正確にはそう、一年後のあなた」



「一年後の私」



「うん。だから知っていて当たり前じゃない」



「……」



 いや、そんな馬鹿な。
おかしい、こんなの、受け入れられるはずかない。でも、実際に声は聞こえるし、私じゃないだ誰かが自分しか知らないことを知っている。しかも、声だってよく聞けば自分の声に聞こえなくもない。
まるでくまのぬいぐるみが魂を持ったみたいに、つぶらな瞳の奥で、私の心の奥まで覗き見されている気がした。私とくまから発せられる「私」の声以外に、物音は何も聞こえない。いつもなら、上の階に住んでいる人の足音やテレビの音が聞こえてきてもおかしくないのに。



「ね、だから、愛美のことはこのわたしが、なんでも知ってるってことよ。愛美が悩んでいることがあれば、わたしが解決してあげる」



「……」



 落ち着こう、落ち着こう、落ち着こう。
多分私は、悪い夢に侵されているのだ。結婚を考えていた人に去られて、ショックで頭がおかしくなっているんだ。だから、くまのぬいぐるみが私の声を借りて喋っているなんてこと、全部妄想に過ぎないんだ。



 ……。

 ……。


 そう、思うのに。
なぜか、私は手を伸ばして、くまのぬいぐるみに触れていた。 もふもふとした感触。最近、全然洗濯をしていなくて汚れてしまった毛。少し埃っぽい匂い。抱きしめたら、小さい頃にぬいぐるみを買ってもらったときの幸せな気分を思い出した。店先に並んでいる愛くるしいぬいぐるみを、自分のものにしたときの喜び。
それは、恋する人と心を通わせて自分だけを愛してくれる存在を手に入れたときの幸福だった。



 私は、浩太と、最愛の人と、ついこの間まで一緒にいられる時間を手に入れていた。付き合い始めた頃は、なんでも許すことができた。彼が待ち合わせに遅刻してきたって、初めての誕生日で知らず私の苦手な生クリームのケーキを選んできたときだって。
それがいつからか、許せなくなっていた。
遅刻も、部屋が汚いことも、帰りが遅いことも。
一緒にいるだけで幸せなはずなのに、どうしてこんなに許せないことが増えてしまったんだろう。


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