第2話:初恋は、そっと彼の髪をかき分けた瞬間に。
「じゃあ私そろそろ行くね。すっごく寂しいけど」
「何言ってんだか。じゃあまたね梨香子、じゃなかった鋼鉄のパンツさん……ぶっ!」
「あ、最低! 杏奈最低!」
また数日もすれば会えるというのに、梨香子はブンブンと大きく手を振って名残惜しそうに大学構内を後にしようとした、そのとき。
大きく横に振り回した梨香子の手に、ガツンと衝撃が走る。
「え?」
「……っ」
それはまさに、一瞬のできごとだった。
たまたま梨香子の横を通り過ぎようとした一人の男の顔面に、彼女の勢い余った腕が直撃した。
咄嗟のできごとに対する驚きと、あとからやってくる鈍痛が梨香子を襲いはじめる。
けれど、となりにいた男がまるでスローモーションのようにだんだんと傾いていく様子を見て、それどころではなくなったのは言うまでもない。
男が着用していたであろう眼鏡はレンズが割れ、フレームは歪な形を成して足元に転がる。
そして後に続くように男もバタリと床に倒れ込んで、そこからピクリとも動く気配を見せない。
「ちょっ、梨香子!?」
「う、うぎゃあああ! 腕で人を殴り殺しちゃった!!」
「バカなこと言ってんじゃないよ! もう、何やってんのよ!」
梨香子と杏奈はパニック寸前の勢いで倒れた男の元へ駆け寄り、どうしていいのか分からないと言いながら覗き込むように様子を伺う。
生地の分厚い暖かそうな黒色のパーカーに、同じく黒色のスキニーを身に纏っているこの男。
光沢のある髪が顔にかかっていて、どのような表情を浮かべているのか分からない。
ただ、この男はまるで存在感というものがなかった。
梨香子が女優としての地位を確立し始めたころから、彼女は常に粗探しと言わんばかりに記者やカメラマンに追いかけられ、ファンからの盗撮なんてものは日常茶飯事となっていた。
そんな梨香子は無意識に他人の存在に機敏になり、察知する能力は人一倍長けているはずだった。
それでもこの男には、一切気付けなかった。
「と、とと、とにかくこういうときは救急車だよね!?えっと、番号は……」
「梨香子、ストップ」
半泣き状態になって震える手でスマホを取り出した梨香子に、杏奈は待ったをかけた。
いくら勢いよく振っていた梨香子の腕が顔面に直撃したとはいえ、よほど貧弱ではないかぎりその程度で人間は死んだりしない。
杏奈は倒れた男とグッと距離を縮めて、もう一度彼を注意深く観察する。
血を流しているようではないし、どこか打撲して痣になっている様子もない。
心臓だってちゃんと動いているし、健康的な一定のリズムを刻むようにきちんと鼻で呼吸をしている。
「梨香子、この人……」
「も、もう手遅れ……とか?」
「寝てるだけだわ」
「え?」
床に倒れ込んだこの男は、ただ眠っているだけだった。
梨香子の腕が当たった拍子に、それまでどうにか気力だけで繋ぎ止めていた意識を手放してしまったのだ。
「ほ、本当に?嘘じゃない!?」
「嘘なわけあるか!」
杏奈の言葉を聞いて、恐る恐る眠っている男の元へ歩み寄る梨香子。
ゆっくりと近くに腰を下ろし、人差し指で顔にかかった男の髪の毛をそっとなぞるように耳にかける。
「……っ」
その瞬間、梨香子は息を呑んだ。
途端に顔が赤くなって、心臓の脈打つ速度も加速していく。吐きだす吐息は急速に熱を持った。
どうしていきなりこんな現象に襲われるのか、理解が追い付かない彼女。それでも目を瞑ったままの男から目を離すことができない。
床に突っ伏して気を失っている彼の顔を見た梨香子は、このとき自分の中で感じた衝撃について「雷に打たれた感覚。まぁ実際に打たれたことはありませんけど」と後に語ることになるのだけれど、何しろ初めて味わう感情に戸惑いとトキめきが忙しく交互に犇めき合う。
「梨香子?顔が真っ赤だけど、大丈夫?」
「……」
「え、もしかして泣いてる? いや、この人ちゃんと生きてるから平気だよ?」
「そうじゃ、なくて」
「じゃあ何?なんでそんな挙動不審になってるわけ?」
「いや、だから、えっと」
これまで梨香子が演じてきた様々な映画やドラマの中には、もちろん恋愛ジャンルも含まれている。
今でこそ世界を股にかけてマルチに活躍する彼女だけれど、生後八ヶ月でおむつのCMデビューを果たしてからというもの、その類稀なる美貌と高い演技力で映像業界からのオファーが絶えなかった梨香子の経歴は素晴らしいものとなっている。
ひとたびドラマの主演に選ばれれば高視聴率を叩き出し、ヒットになりにくいと言われている恋愛小説や漫画の実写化も見事に成功へと導いた。
さまざまなヒロインの人生を演じてきた彼女には、相当な知識と経験というものが蓄積されている。
けれど、梨香子自身が経験してきたことはそう多くはない。
どんなときも仕事を最優先してきた彼女だからこその欠点ともいえるだろう。
だから自身の中でたった今起こっている現象に、未だ答えを導き出せないのだ。『一目惚れ』という言葉がいつまで経っても出てこない。
梨香子は戸惑っていた。
男を見て芽生えた感情に。
梨香子の人生においてのターニングポイントとなった、今、この瞬間に。
「とにかく、このまま床で眠らせておくわけにもいかないし、医務室に連れていくしかないね」
「そ、そうだね。私が運ぶよ。ジムで鍛えてるし、体力には自信があるんだよね」
「でも梨香子は収録あるんでしょ?あとはあたしがしておくから、もう帰りなよ。マネージャーさんだって待ってるんだし」
「そんなわけにはいかない!」
梨香子はバッグの中からスマホを探し出し、彼女が構内から出てくるのを今か今かと待ち構えているマネージャーに『緊急事態発生。だがしかし、案ずるな。しばし待たれよ。』とだけメッセージを送り、倒れた男を持ち上げようと腕に触れる。
「……っ」
が、また途端に心臓が暴れはじめてしまったせいで、梨香子の動きはピタリと止まる。
彼のきれいな寝顔を見ると、担いで医務室まで運ぶなど到底できなくなってしまった。
「や、やっぱり杏奈にも手伝ってもらおうかな。私は足を持つから、杏奈は頭部をお願いできる?」
「……頭のほうが重たいんだけど」
「だ、大丈夫!杏奈に負担がかからないように、できるだけ足を高く持ち上げるから!私、頑張るから!」
「いやそれは頭に血がのぼって可哀想でしょ。ってか、足を持ち上げられながら運ばれる絵面ってやばいでしょ」
「お願いだよ杏奈!私は彼のご尊顔を持ち上げるなんてできっこない!」
「何言ってんの、アンタ」
懇願しながら叫んだ梨香子の意味不明な発言に頭を抱えながらも、杏奈は仕方なく男の両脇に腕を挟んで持ち上げる。
それにならって、梨香子も同じようにそっと足を持った。
「こういう運び方って、刑事ドラマで殺された人を隠蔽するときによくやるよね」
「黙れ鋼鉄のパンツマンめ」
その後も二人は通りすがりの人達から奇異な目で見られながらも、なんとか医務室まで辿り着き、未だに起きる気配を見せない男をベッドに横たわらせることに成功した。
スー、スーと気持ちよさそうに眠る彼に、どうして梨香子はここまでドキドキしてしまうのだろう。
彼女はその答えを、先ほどからずっと考えている。
「あたし、この人どっかで見たことあるかも」
心地よい寝息を立てて眠り続ける男を険しい目で見ながら、そう呟いたのは杏奈だった。
「え!?うそ、どこ!?」
まさしく今、彼のことを考えていた梨香子は、杏奈のその言葉に目を大きくして聞き返す。
この男の名前も、年齢も学部も、何一つ分からない。
「いや、確かどこ……とかじゃなくて、少し前に動画配信で見た気がするんだよね」
「動画?」
「あ、そうだ。この人プロゲーマーだわ、確か。プロゲーマーの赤澤律紀」
「……プロ、ゲーマー」
人気女優とプロゲーマーは、かすかに視線を交わし合う。 文屋りさ @Bunbun-Risa
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