第1話:絶世の美女は、未だに恋を知らない。
生後八ヶ月のとき、某有名メーカーのおむつCMでデビューを果たしてからというもの、子役時代からさまざまな映画やドラマに出演してきた谷許梨香子やもとりかこ、ならぬ芸名『谷許やもとリカ』は、この夏ハリウッド映画を撮り終えてから束の間の休息期間を経て、残りわずかとなった大学生活をそれなりに堪能していた。
ちなみにおむつのCMに出演したキッカケは、当時梨香子の母とママ友数名との間で、我が子を芸能界へ入れさせるためのマウント合戦が繰り広げられており、なんとしてもその頂点に立ちたかった母の、執拗なまでの執念の賜物であったことは有名な話である。
梨香子の母は何がなんでも我が子をおむつのCMに出演させたくてたまらなかったらしい。
「もう少しで学生生活が終わってしまいますなぁ」
「梨香子さ、卒業したらどうすんの?」
「よくぞ聞いてくれました、我が心の友杏奈あんなよ。それがさ、聞いて驚け?なんと卒業しようが大学卒業資格を得ようが、私の仕事にはまっっっったくこれっぽっちも影響はなく、明けても暮れても撮影、撮影、撮影の毎日なんですね!素晴らしい!」
「ま、そうでしょうね。逆にこれでアンタが一般企業に就職します、ってなったら全日本人の目ん玉が飛び出るわ」
「あ、一個変わること発見した。紹介されるときに“現役女子大生の女優”から“ただの二十二歳の女優”になる」
「いやアンタが“ただの女優”って言われることは絶対ない」
梨香子は稀に見る美形であり、両親も、両家の祖父母や親戚達まで、自分達の家系からこれほどの美人が生まれてきたことは奇跡だ、と口を揃えていうほどに見目麗しい女性に育っていった。
本人曰く、母の唯一の取り柄である平行幅の大きな二重と、父が持つ唯一の自慢であるシュッと整った鼻筋を、うまい具合に掻い摘んで受け継いだおかげで今の自分があるのだと言っている。
そんな梨香子のことを、世間は『日本史上もっとも美しい顔を持つ女優』と言い、女性がなりたい顔ランキングや、男性が彼女にしたいランキングなどを何年も総ナメにしている強者だった。
今では女優業だけでは留まらず、世界的に有名なハイブランドのアンバサダーを務めたり、モデルとして世界各国のランウェイを歩くほど、実力と経験を積みながら、谷許リカはその若さで日本の芸能界を圧倒的な『美』と『演技』で牽引している大物人物となっている。
けれど梨香子はただ自分の職業が『芸能』なだけであって、普段はなんの取り柄もない普通の人間だとさまざまな媒体のメディアで語ってきている。
実際に梨香子が大学へ入学してから多いに騒がれたのは最初の一ヶ月程度のことで、あとは見事に周りに溶け込んでいた。
それはきっと、彼女の見た目に反した素朴な性格と、生後八ヶ月のときから大人達に揉むに揉まれて鍛えあげられた気配りのスキルのおかげに違いない。
「はぁ、できることならあと五年くらい大学生やってたかったなぁ」
「なに言ってんの。課題に追われてるときとか試験前はいっつも"大学生になんかならなきゃよかったー!”って言ってたじゃん」
「うん、課題も試験もない大学生活を五年送りたいってこと」
「なにを馬鹿なことを」
「だってさぁ、なんて言うかさぁ」
「なによ、大学でやり残したことでもあるわけ?」
「そりゃありますよ、杏奈さん」
「聞いてあげるから言ってみなよ」
「恋をしていないじゃないか!恋だよ、恋を!!若人が恋をせずに何しろって言うんだ!!恋!恋よ来い!恋来い恋来い!」
「やっぱり聞きたくない!うるさい、喋るな!!」
突然狂ったかのようにものすごい勢いと形相で訴えかけてきた梨香子に、杏奈は必死でそれをやめさせようと口を塞いだ。
寒さが厳しい一月に、大学構内の渡り廊下を散歩道として使う学生なんて他にいないとしても、日本全国のみならず、世界にまで顔を知られている梨香子の恋愛事情は誰もが知りたがっている情報の一つだ。
「アンタねぇ、簡単に恋したいとか叫ぶんじゃないよ!」と杏奈の怒号が響き渡った。
二十二年の芸能人生の中で、谷許リカの恋愛に関するスキャンダルはこれまで一つだってリークされたことはない。
それは彼女が所属している菅野プロダクションの必死の守りのおかげであり、そしてしっかり者の安田マネージャーのおかげの他に、あと一つ。
梨香子はいまだに、恋をしたことがないのだ。
今まで一度だって恋をしたことがないのだから、リークされる情報も出てくるわけがない。
とはいえ梨香子の華々しい二十二年間の人生の中には、さまざまな男性との出会いがあった。
ドラマや映画で共演した俳優やトップアイドル、モデルで同じランウェイを歩いたカリスマモデルに、同じ事務所の同期達。
いくら『恋愛は芸能人生の傷となる』と言われていても、実際に谷許リカに言い寄ってきた男性は数多くいた。
それを懸念した事務所は当初、「恋愛だけはまだダメだ!」と懇々と言い続けてきたのだけれど、そんな彼らの心配をよそに、彼女はどんな素敵な男性に告白をされても首を縦に振ることはなく、たった一人でこの険しい芸能界を歩いてきている。
過去に何度か共演者との熱愛を疑われたことがあり、週刊誌はここぞとばかりに谷許リカのスキャンダルを探し出そうと躍起になっていたけれど、堂々と一人で焼き肉店に入って肉を頬張り、そのあと見事に一人カラオケを決め込んだところを撮られたあたりから、さすがの週刊誌もお手上げ状態だったことを本人は知らない。
今では逆に事務所の人達が違う意味で心配するほど、梨香子は恋愛とは程遠い人生を送ってきていた。
「……杏奈氏、私が芸能界隈でなんて言われてるか知ってる?」
「知るわけないでしょ。あたし一般人だし」
「谷許リカは鋼鉄のパンツを履いた女って、言われてる」
「……ぶっ!!」
「どんなイケメンが寄ってきても絶対に足を開かないから鋼鉄のパンツ、なんだって」
「説明とか……っ、ふっ!いらないから」
笑いを堪えることができずに吹き出した杏奈とは正反対に、自分で言ってまたショックを露わにする梨香子。
「剛鉄のパンツって言わずに純情と言ってもらいたね」と言って口を尖らせた梨香子は、何もこれまで故意に恋人を作らなかったわけではなかった。
芸能という世界に身を置いているからでもなく、事務所からきつく恋愛禁止だと言われているからでもない。
ただ、『谷許リカ』ではなく『谷許梨香子』として恋をしたい。人前に出るための着飾った自分ではなく、素の自分を好きになってもらいたいのだと、梨香子はずっとそんな思いを抱いていた。
数々の恋愛漫画や恋愛小説を読み耽ってきた彼女の思考が、多少乙女チックに偏っているとはいえ、それでも恋の理想像は何年も前から変わってはいない。
「杏奈はいいよね。なんだかんだ言って三年続いてる彼氏がいるんだから」
「急に捻くれはじめたよ、この女優」
「結婚式には呼んでよね、友人代表でスピーチするから。子どもができたら会わせてよね。なんでも買ってあげるイケイケおばさんになるから、私」
「気が早すぎるってば」
梨香子は彼女の頬を人差し指でツンツンと突きながら、「彼氏がいて幸せか!このやろっ!このっ!」とちょっかいをかけはじめる。
杏奈はいつもそんな子供っぽい梨香子の挑発を最初こそ無視するのだけれど、大抵三分もすれば我慢の限界がきて仕返しをするため、第三者から見ればどちらも幼稚なことをしているなと思われるのが毎度のオチだった。
この女優は一体、これからどんな男を愛するのだろう。
心の中で、杏奈はいつもそんな疑問を持っていた。
こんなふうに子どもっぽいところはあるけれど、とにかく裏表のない根が素直な女優だ。
見た目の美しさだけではきっと、ここまでの名声を得ることはできなかったはず。
同じ女でさえ、梨香子と付き合える男は幸せ者だと本気で思うくらいに、彼女の人間性を好いている杏奈は常々心配していた。
このときまで、は――。
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