支配人 Ⅰ
「ミレウス、ごめんね……きっと迎えに来るからっ……」
顔のぼやけた女性が俺の頬に手を当てる。それは、俺の最古の記憶だ。
「……すまない、この子を頼む」
そして場所は変わり、誰かが俺の背に手を当てる。軽く押されて一歩進み出ると、とても大きい手が俺の頭に乗せられた。
「ったく、そんな辛気くせえ顔をするなって! 俺に任せときな、ちゃんと鍛えておくからよ!」
覚えているのは、もう顔を思い出せない両親との別れ。そして、『親父』との出会い。
なぜ親父に預けられたのか。両親はどこへ行ったのか。疑問はいくらでもあったはずだ。だが、三歳の時の俺が何を思っていたのかは、もう思い出すことができなかった。
◆◆◆
【
「これが、とうぎじょう?」
「おう、思ったより時間がかかっちまったけどな。正真正銘、完成したての闘技場だ」
男の子の頭に手を置きながら、イグナートは楽しそうに笑った。目の前にそびえ立つ巨大な建物を見るたび顔がニヤけるが、それを隠すつもりもない。すると、もう一人の子供が不思議そうに彼を見上げた。
「これ、おとうさんの?」
愛娘の言葉にイグナートは力強く頷いた。
「ああ、そうだぞ。俺も、昔は別の闘技場で剣闘士として戦ってたんだが……やっぱり、自分の闘技場ってのは違うな」
何度も闘技場の威容を見ては悦に入る。闘技場の運営権を得るための費用が想定外に高くつき、闘技場の規模が予定より小さくなってしまったことが唯一の心残りだろうか。
だが、その事実も今の彼には些末な事柄だ。権利の取得を巡ってトラブルもあったが、今ここにある闘技場がすべてだった。
「これがあなたの闘技場なのね……大きすぎて、なんだか実感が湧かないわ」
隣にいた妻が小さく笑う。その言葉に答えようとしたところで、男の子のはしゃいだ声が割って入った。
「すごいね! すっごくおおきいね!」
「な、大きいよな! やっぱり凄えよな!」
その感想に、イグナートの笑みが深まる。
だが、イグナートにはもう一人の子供がいる。戦友から託された
「ねえねえ、なかにはいってもいい?」
「おう、もちろんだ。……ほらほら、行くぞっ!」
初めは子供たちに合わせて歩いていたものの、待ちきれなくなったイグナートは子供二人を肩に担ぎ上げる。すると、エレナはおかしそうに笑い声を上げた。
「あなた、子供たちよりはしゃいでるわね」
「こんな嬉しい日にはしゃがないなんざ、人生の無駄遣いってもんよ」
イグナート一家の賑やかさに気を引かれたのか、いくつかの視線が彼らに注がれる。稀に驚いたような視線が混ざるのは、十五年以上前――イグナートが剣闘士だった頃を知っている人間かもしれない。
そんな視線を気にすることなく、イグナートは闘技場の
担いでいた子供たちを床に下ろすと、二人は示し合わせたように駆け出す。ミレウスはもちろんのこと、ヴィンフリーデも建物の中へ入ると興味が湧いたようだった。
なんと言っても広大な無人スペースだ。イグナートが子供であったなら、間違いなく辺りを駆け回っていたことだろう。
「……ま、いつまでも無人にしておくわけにゃいかないがな」
ここは闘技場だ。剣闘士がいて、観客がいて、初めて成り立つ場所だ。さらに言えば、闘技場の運営をするための様々なスタッフも必要だ。
スタッフの存在意義など、自分が剣闘士だった頃にはあまりぴんと来ない部分もあったが、ミレウスの父親に誘われて闘技場を出て、様々なことを知った。
その経験がなければ、恐らく闘技場の権利取得の時点で躓いてしまっていただろう。
「さて、確定しているのはダグラスくらいだが……」
この闘技場に来ないかと、知り合いの剣闘士やスタッフ関係者に声をかけているが、何人くらいが手を上げてくれるかは未知数だ。
応じてくれた人間を核にして、闘技場の運営ができるだけの人数を揃えていかなければならない。
剣を相棒として戦ってきた、今までのイグナートの経験がまったく通用しないこともあり得る。必ずしも楽観視はできないだろう。だが、それでも――。
「一度きりの人生、楽しまなきゃ損ってもんよ」
はしゃぐ子供たちの姿を眺めながら、イグナートは不敵な笑みを浮かべた。
◆◆◆
「ルエイン帝国第二十八闘技場? ……なんだか――」
「堅苦しいっつーか、息苦しい名前だろ?」
完成したばかりの闘技場を家族に披露し、自宅へ帰ってきたイグナートたちは、遅めの昼食を取っていた。
当然と言うべきか、今日の食卓の話題は闘技場一色だ。興奮してなかなか食事を食べようとしない子供二人をなだめつつ、イグナートとエレナは会話を続ける。
「そこに関しては国と揉めたからな。自分の闘技場の名前一つ決められないなんざ、考えてもみなかったぜ」
そう言うと、若干の憤りをこめて肉料理にフォークを突き刺す。その余波で皿にヒビが入った気がするが、妻の機嫌のために秘密だ。
「でも、いくつかの闘技場には普通の名前が付いていなかった? ほら、あなたが所属していた……」
「ああ、ディスタ闘技場か。あそこも元は第一闘技場だったらしい。長年あそこで戦ってたが、初めて知ったぜ」
その言葉を聞いて、エレナは首を傾げる。
「それって、途中で名前が変わったの?」
「ああ、どっかのタイミングで決まりができたらしくてよ。闘技場ランキングの上位三つに入りゃ、名付けの権利が与えられるんだと」
小さな見世物小屋クラスのものまで含めると、この都市には無数の闘技場がある。その中で三位以内に入れというのは、実質的に無理だと言っているようなものだ。
「それはまた……高い目標ねぇ」
エレナは遠い目をして口を開く。彼女はこの国の出身ではないが、この国の闘技場がどんな状況にあるかは理解していた。
そして、イグナートが闘技場に名前を付けることを、とても楽しみにしていたことも。
「上位の闘技場は、資金力が桁違いの貴族たちが支配人になってるからな。そういう意味じゃ、不利なのは間違いない」
イグナートは少し厳しい顔つきになる。だが、挑戦せずに諦めることは彼の流儀ではない。
「そのためにも、いい奴らを揃え――エレナ、どうした?」
話の途中で、イグナートは突然問いかける。エレナが不思議そうな顔をしていたのだ。すると、彼女は小さく首を傾げる。
「ううん、なんでもないわ。人の声が聞こえた気がしたけれど……気のせいかしらね」
「そうか? 俺には聞こえなかったがな……」
そう返すと、エレナはほっとしたように息を吐いた。
「あなたがそう言うのなら、気のせいでしょうね」
エレナがあっさり納得したのは、夫の五感が優れていることをよく知っているからだ。それに、もし盗人の類がこの家に侵入したとしても、イグナートに一瞬で叩き出されるだろう。
なんと言っても、彼はこの街で『
「とうぎじょうってすごかったね!」
「うん、かっこよかった!」
と、子供たちの話題がまた闘技場へ戻る。食事を始めてから、すでに四度目のループだ。普通ならまたか、と思うところだろうが、イグナートは上機嫌で二人の会話を聞いていた。
「――ねえねえ、ぼくもけんとうしになれる?」
「お? ミレウスは剣闘士になるのか?」
予想外の問いかけに、イグナートは目を丸くする。子供たちの話は、これまでの三回とは少し違う方向へ発展していた。
「けんとうしになって、とうぎじょうでかつやくするんだ」
その思いがけない言葉は、イグナートの頬を緩めるのに充分なものだった。
「お、闘技場で活躍してくれるのか! いいな、今のうちから修業すりゃ、強え剣闘士になれるぜ!」
「ミレウスはちいさいのに?」
「おおきくなるんだ!」
ヴィンフリーデの言葉を受けて、ミレウスは口をへの字に曲げた。イグナートは思わず手を伸ばすと、ミレウスの頭を撫でる。
「名物剣闘士になって、うちの闘技場を盛り上げてくれよ?」
「うん!」
ミレウスは嬉しそうに頷いた。
「……けど、いいのかしら? セインさんたちの了解をもらわなくて」
「大丈夫だ。息子が強くなって困ることはねえだろ?」
心配そうに呟いたエレナに、イグナートは力強く断言する。この街の治安は悪くないが、一歩外へ出れば危険はいくらでもある。弱いよりは強いほうがいい、というのは議論するまでもないことだった。
「そうじゃなくて、剣闘士は危険だもの。あなたみたいに強いならともかく……」
「あのセインの息子だからな。強くなる素質は充分あるはずだぜ」
イグナートは戦友の戦いぶりを思い出す。母親のほうには会ったことがないが、彼の半分でも素質があれば、一角の戦士になれるだろう。
「それに、強制するつもりはねえさ。ただ、
「ええ、それはそうね。ミレウスが本気なら、私は応援するわ」
納得するエレナに、イグナートはもう一つ言葉を追加する。
「それに、剣闘士だった俺を冒険者稼業に誘ったのはあいつだからな。息子を剣闘士に誘ったところで、おあいこってもんよ」
「うふふ、そうだったわね」
エレナは懐かしそうに笑う。彼女と出会ったのは冒険者時代だが、その頃のことを思い出したのだろうか。
そんなことを考えていると、大人しく食事をしていた子供たちが声を上げた。
「あー! ヴィーがぼくのパンたべた!」
「ちがうもん! テーブルにおちてたもん!」
部屋は一瞬で賑やかさを増す。見れば、パンの一切れをヴィンフリーデが持っており、ミレウスが取り返そうと手を伸ばしている。
その様子を見たイグナートの表情が、ふっと緩む。一年前、イグナート一家に預けられたばかりのミレウスは、ずっと暗い表情を浮かべていたし、毎日窓の外を眺めていた。
突然、訳が分からないまま両親と引き離されたのだ。それも無理はない。
そんなミレウスが、元気にパンの取り合いをしているのだ。見れば、エレナも同じことを考えているのか、場にそぐわない柔らかい顔をしていた。
「ヴィンフリーデ、そのパンはどこに落ちていたの?」
「……あっち」
娘が指差した場所は、ミレウスのすぐそばだ。イグナートに似たのか、意外と勝気で強情な面のあるヴィンフリーデだが、それでも嘘は言わない。
エレナが苦笑を浮かべたのは、すでに審判を下したからだろうか。決めつけは禁物だが、曖昧にするわけにもいかない。
妻と視線を交わすと、イグナートは小さく肩をすくめた。
◆◆◆
【ミレウス・ノア】
クロイク家の裏庭は高めの塀に囲まれていて、周囲から見られることがほとんどない。
その人目につかない空間で、僕は荒い息を吐いていた。
「――よし、朝稽古はここまでにしとくか!」
「うん……じゃなかった。ありがとうございました!」
最後の力を振り絞って大声を上げると、『親父』は白い歯を見せてニカッと笑った。まだ早朝と言っていい時間帯だけど、稽古のおかげで眠気は完全に吹っ飛んでいる。
「よし、戻って朝飯を食うぞ! 食わなきゃ力がつかねえからな!」
僕の数十倍はハードに動いていたはずの親父は、軽い足取りで家へ向かう。その背中を追いかけて、僕はくたびれた身体を動かした。
親父と稽古をするようになったのは、一年前――僕が七歳の時だ。それまでは遊びの延長に近かったけど、そこからちゃんとした稽古が始まった。
稽古はやっぱり大変だった。でも、最初はとてもしんどかったのに、最近はしんどくても動けるようになっていた。
親父に続いて家に入ると、エレナ母さんがにっこり笑う。
「あら、二人ともお帰りなさい」
テーブルの上には、たくさん料理が並んでいた。他の人の話を聞くと、うちのご飯は豪勢らしい。たぶん親父のこだわりなんだと思う。「強靭な肉体はいい食事で作るモンだ!」っていつも言ってるし。
親父と僕が椅子に座ると、リビングの奥の扉がガチャリと開いた。そこから出てきたのは、まだ眠そうなヴィンフリーデだ。目が半分しか開いてないし、どこかフラフラしてる気がする。
「おっ! ヴィンフリーデ、おはよう!」
そんなヴィンフリーデの目を覚ますように、親父は元気に呼びかける。けどヴィンフリーデも大したもので、親父の大きな声を聞いても目はとろんとしたままだった。
「ふぁ……おはよう」
ヴィンフリーデはあくびをしながら席に着く。マイペースに見えるけど、僕たちの朝ご飯に合わせて、頑張って起きていることをみんなが知っている。
「あなた、今日の予定はどうなっているの?」
みんなが朝ご飯を食べ始めてしばらくすると、エレナ母さんが口を開いた。
「一つ闘技場関連で予定があるから、それ次第だな。……ああ、大丈夫だ、金策の話じゃねえ」
心配そうに眉を歪めたエレナ母さんに親父は笑ってみせる。だけど、エレナ母さんの表情に変化はなかった。
「もう……お金のことばかり心配しているつもりはないわよ。闘技場の経営が難しいことくらい分かっているわ。だから、あなたが無理をしていないか心配なのよ」
「自分の身体はよく知ってるからな。倒れるようなヘマはしねえさ。……まあ、手が足りないことは事実だけどよ」
親父が苦笑を浮かべると、エレナ母さんは少し身を乗り出した。
「この前の話はどうなったの? ほら、経営の指南をしてくれるって言っていた……」
「おお、よく覚えてたな。まさにその商会が、今日の話相手だ」
「大手の商会なのでしょう? 信頼できる人ならいいわね」
二人の会話が専門的になっていく。親父の闘技場がオープンしてから三年が経つけど、経営が順調じゃないことは、二人の言葉からなんとなく感じ取っていた。
ヴィンフリーデもそんな両親のことを心配しているけど、表には出さないようにしているようだった。
「……って、飯を食いながらする話じゃなかったか。ヴィー、ミレウス、悪かったな。それに、せっかくエレナがうまい飯を作ってくれてるんだ。ちゃんと楽しまねえとな」
そんな僕たちの心を知ってか知らずか、親父は暗くなりそうな会話を切り上げる。だが、今日の僕には一つの計画があった。
「ねえ、今日は僕も闘技場に付いていっていい?」
「どうした? 今日は興行のない日だから、試合の観戦はできねえぞ?」
驚いた様子の親父に、僕はにっこり笑顔を浮かべる。
「うん、僕もお手伝いできないかな、って」
僕はもう八歳だ。同年代の子供の中には、家の仕事を手伝っている子も多い。それを考えると、僕も何かをするべきだと思っていたのだ。
まして、僕はこの家の子供じゃない。親父とエレナ母さんが分け隔てなく育ててくれているのは分かっているけど、後ろめたさのようなものは、ずっと心の中にあった。
「……とは言っても、今日は面白みのない話ばっかだぞ? それに、さっきの稽古でくたびれただろう」
「それは親父も同じことだもん。それに、試合の日には僕の出番はなさそうだから……」
「ふむ……」
親父は顎に手を置いてしばらく考え込む。試合の日は荒っぽい人も多くいるから、僕のような子供の出番はあまりない。せいぜい売り子くらいだけど、それも一歩間違えれば危険なことになる。
けど、試合のない日は、そんな可能性も少ないはず。僕はそう考えていた。試合がないのだから、仕事もないかもしれないけど、それなら諦めて別の手段を考えよう。
そんなことを考えていると、親父は小さく頷いた。
「……よし、仕事の手伝いとかは置いといて、いっぺん試合がない日の闘技場を見に行くか! 関係者じゃねえと見られない特別ツアーだな」
そう言うと親父は僕の頭に手を乗せる。その顔は、少し嬉しそうに見えた。
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闘技場の支配人~ランキング一位の剣闘士と古の遺産~ 土鍋 @tudurihimo
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