掌篇拾遺
鷲羽巧
アレフ三世の天球儀
王よ。今宵も月が東方の空に昇りました。王よ。恵み深くうるわしき王よ。今宵もわたくしめはあなた様に、長い旅のなかで蒐集いたしました綺譚をお聞かせいたしましょう。王よ。ご覧くださいませ、今宵は満月でございます。紺碧の光が冴え冴えと照り、王の治めるこの国を、くまなく睥睨しております。ああ、王よ。それでは今宵は、わたくしの知るなかでもっとも興味深き、月のお話をいたしましょう。それは砂漠を越えた遥か東方にある、オアシスのそばの小国で語られていたお話です。アレフ三世と云う、王よ、あなた様の勇気と叡智には及ばずとも、歴史に名高き優れた王の治世の頃でございました。
アレフ三世は文武どちらも良く修め、民を愛し、民に愛された王でございましたが、何よりも愛してやまぬのが、天文でございました。王よ、占星術ではございません。ここからも見えるようなあの星々、夜空に散らばりきらめくその光の動きひとつひとつを愛していたのでございます。アレフ三世は夜ごと宮殿の尖塔にのぼっては、空に輝く星々と、夜の底に広がる王国の灯を眺めました。自らの治世を誇るだけでなく、夜空の動き、ひとびとの営み、時計仕掛けのごときその正確な毎日を、アレフ三世は愛していたのです。それは泰平の世に国を治めた、アレフ三世だけに許された悦楽でございました。
アレフ三世の治世が十年も続いていた頃、宮殿を旅の商人がおとないました。商人は北方の学術都市から持ち込んだ、発明されたばかりの望遠鏡と天球儀をアレフ三世に差し出しました。アレフ三世は即座に望遠鏡の軍事的な価値を見抜いて購い、国の職人たちに量産を命じました。近隣のどの国より早く、どの国より遠くまで見通せるようになったおかげで、アレフ三世の国は爾来ますます栄え、拡がることになるのですが、ここでお話するのはそのとき一緒に購われた天球儀の方でございます。
アレフ三世は天球儀に魅了されました。球と輪が歯車によってこちこち、こちこちと、夜ごとアレフ三世を嘆息させた、あの天球の動きを再現しているのですから。しかし十日も飽きずに眺めると、アレフ三世はその天球儀が国を、都市を、民を再現していないことに不満を覚えました。ただ星々が動くだけでは、この世界すべてを再現することにはなりません。アレフ三世は国一番の時計職人と人形職人、数学者を宮殿に集め、新たな天球儀をお求めになられました。よりいっそう精確に。能う限り緻密に。「ひとりひとりの瞬きまでも再現せよ」。
ふたたび十年の月日が経ちました。国の領土はかつての倍になり、砂漠の向こうまでその手を伸ばしていました。ますます権勢を誇るアレフ三世は、しかしいつまでも完成しない天球儀に苛立ちを募らせておりました。職人が順々に解雇され、新たな腕の立つ職人に入れ替わりました。それもまたお決まりの出来事であり、こちこちと、変わらぬ時を刻むのでした。
今度は二十年が経ちました。砂漠の向こうの異国の抵抗に、アレフ三世は手を焼いておりました。計算にない結果が生まれ、時計仕掛けの計略から外れることが多くなりました。アレフ三世は天球儀に焦がれました。「この世のすべてがあれに再現されるなら、わたしも負けることがないであろうに」。眠れぬ夜が増え、夜ごとの習慣はとうに忘れられておりました。
三十年が経ちました。戦争には敗北し、見かけだけの和平が結ばれ、消沈したアレフ三世は生前に王位を息子へ譲りました。老いた、弱々しい王を、民はそれでも愛していました。息子が戴冠した夜、アレフ三世は何十年ぶりに尖塔にのぼりました。そこには老人が、もう百を超えた職人がひとり待ち受けておりました。職人は掌ほどの球体を差し出しました。「天球儀でございます」。その球体には錐で貫いたような穴が開けられていました。「なかにすべてが再現されております。星の動きも。民の営みも。時の趨勢も」。アレフ三世は穴からなかを覗きこみました。
そこにはすべてがありました。そう、すべてが小さいゆえにすべてが地上より遥かに素早く時を刻む、完璧に作られたこの世のすべてが。瞬きひとつするたびに、なかの時間はひと月も経つのでした。アレフ三世は天に開いた穴から、そのすべてを飽くことなく見つめております。
いまもなお。
ああ、王よ。ご覧ください。今宵は本当に、美しい満月でございます。
(初出:『蒼鴉城 第四十七号』京都大学推理小説研究会、2021年)
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