見るものがすべて殺す

 一九六四年に京都国立近代美術館(当時はまだ国立近代美術館京都分館)で開かれた第二回〈現代芸術の状況〉展には多くの画家や彫刻家と混じってふたりだけ写真家が採られている。ひとりは大阪出身の木更津康司で、大判カメラで撮影した世界中の大都市を彼は切り貼りして大きなコラージュ作品をつくった。〈アトラス〉と名づけられたそれは現在、彼の故郷にあるメモワールで見ることができる。もうひとりの写真家は木更津に較べるとマイナーで、東京出身の平石一創。一創と書いてかずまさと読ませる。彼が〈状況〉に展示したのは無題のインスタレーションだった。会期中、平石は愛用のライカを片手に京都市内を歩き回っては街路や風景を撮りまわりその日のうちに現像してプリントされた端から会場の壁に貼りつけた。構図などお構いなしに眼に映るものを切り取ったような荒々しいモノクロームの像。際立っていたのは撮影枚数で、学芸員や木更津ほかにもカメラに心得のある画家たちまで巻きこんで現像させ、展示のために与えられた壁は半日ごとに写真で覆い尽くされた。

「写真は地層のように折り重なっていった」と木更津はのちのインタビューで回想している。「やられたって思ったよ。あれは記憶の比喩や写しなんかじゃない、記憶そのものの刻印だった」。このインタビューが収録されているのは〈状況〉展の開始からちょうど五〇年目にあたる二〇一三年、全十回おこなわれた〈状況〉展を振り返って総括した〈現代芸術の記憶/記憶の現代芸術〉展の図録だ。云わば展覧会の回顧展。会場では当時の作品が幾つか再展示されたほか展覧会を記録したアーカイヴや新聞、雑誌の資料も充実していた。木更津の〈アトラス〉も五十年前と同じ場所に立てかけられた。

 しかし平石のインスタレーションは決して再現されなかった。その場限りのインスタレーションだったからと云うのは主たる理由のひとつではあるがすべてではない。会場にも図録にも平石がおこなったことについて木更津による回想以外ほとんど言及がなかった。資料が失われていたからだ。当時インスタレーションに使われた写真は平石によってすべて回収され一枚も美術館に寄贈されなかった。その後も写真は公開されていない。

 展覧会をきっかけに平石は自身の写真表現を模索しはじめる。作風の先鋭化に合わせるように発表ペースは著しく落ちていった。

「平石は禁欲的な男だった」。木更津は晩年のインタビューで述べている。「誰よりも写真のことを考えていた。写真に何ができるのか。写真が何をしてしまったのか。あいつの実践はいつも挑発的だった。けれどもその挑発に誰より立ち向かっていたのは平石自身だったと思うよ」。

 木更津と平石は同い年だった。活動を開始した時期も一致している。友人とも好敵手とも共犯関係とも云えるふたりの仲を木更津はしかし、「おれたちは互いに憎しみ合っていた」と表現する。それから、いや、と否定して、「正確にはこうだ。――おれは写真を愛していた。けれどもあいつは写真を憎んでいた。写真にも憎まれていた」。

 写真に憎まれるとはどう云うことか。記者の問いに木更津は答えになっていない答えを返した。「おれはあいつの写真が好きだったよ」。

「撮ることは抗うことだ。撮ることは所有することだ」――『アサヒカメラ』に寄稿したエッセイで平石はそう綴っている。ヴェトナム戦争を引き合いに出しながら現実に対する写真の凋落と撤退を指摘し、それでもなお眼差すことを語るそれは評論と云うよりもアジテーション、アジテーションと云うよりも叫びのようで悲痛だ。「見つづける果てに火が燃え上がる」。平石は云う。「見ることは殺すことだ」。

 このエッセイを最後に、平石は表舞台から姿を消す。

 次に彼の名がおもてに出るのは一九八九年の冬。放火の報道だった。平石は自宅の撮影フィルムをすべて燃やした。火はそのままプリントや蔵書を燃やしやがては倉庫全体を焼いた。当時の平石は写真を発表しなくなって十年以上経っていた。誰からも忘れられた写真家だった。なぜ焼いたのかと云う警察の訊問に平石は「写真家だから」と答えた。「写真家は写真を燃やすんだ」。

 平石が最後に目撃されたのは木更津の葬儀だった。両眼ともに義眼だったと云う。


(初出:『蒼鴉城 第四十九号』京都大学推理小説研究会、2023年)

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掌篇拾遺 鷲羽巧 @WashoeTakumi

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