学問の厳密さについて
祖父が死んだときはちょうど高校三年の冬、大学受験を目前に控え、だから通夜以外にぼくは、祖父の死をめぐる一切の儀式に参加していない。危篤の報せも塾の自習室に籠もるぼくへ伝えられることはなく、死が明かされたのは通夜の直前だった。死に目にさえ立ち会うことは許されなかったわけだ。
動揺させたくなかった、と父は云った。翌週はセンター試験だろう、と。
その判断をぼくは受け容れた。受け容れなければならないと思った。会場ではぼくだけが制服だった。通夜振る舞いではずっと単語カードをめくっていた。頭のなかに英単語を詰め込まなければ、冷たい水のような感情が頭蓋を満たしそうで怖かった。
巧くんは偉いね。名も知れぬ親戚の男性が云った。京大目指してんの?
口調は単なる疑問だった。けれどもぼくは咎められた気がした。はいと答えるか黙殺するか決めるコンマ数秒前に、彼の向かいの女性が云った。伯父さんも確か、京大やったよね? 教授やったっけ?
はじめて聞く話で、ぼくは顔を上げた。
ちゃうよ、と女性が云った。お祖父ちゃんは役所の職員。ま、大学の先生みたいなひとやったけどね。
その印象にぼくは同意した。ぼくが憶えている祖父は、ずっと誰かに何かを教え、自分も常に学びつづけるひとだった。役所の何課だったのか訊くと、おそらくは叔母なのだろう彼女は、確かね、と記憶を辿ってくれた。
――都市計画。
そのひと言で、記憶が一気に開かれた。
都市はツリーではない。現代の都市にヒエラルキーはなく、一切の中心を持たず、すべてはパッチワークのように混ざり合う。その布ひとつひとつを織り上げることが仕事だと、祖父は語った。ぼくが十歳にもならない頃だ。
ぼくたちはふたりで歩いていた。帰途だった。夕暮れの、住宅街の。
ぼくの両手には地図が握られていて、いまならばその名がミウラ折りとわかる折り目の機構が面白くて何度も閉じては開いていたはずだ。それはぼくたちの街の地図だったけれど、表記があまりに微細でぼくはそこに自分が住んでいるとは思えなかった。そう伝えたとき、祖父は自分の仕事を語ったのだ。
都市はあまりに複雑だ。完璧な地図はだからあり得ない。その地図は、この街の圧縮ではあっても、街そのものではない。
もちろんぼくはそんな言葉を記憶していない。それはあくまで想起した瞬間の記憶であって、ぼくは自分の言葉で、空白だらけだった祖父の言葉を埋めてゆく。記憶は過去の圧縮ではあっても、過去そのものではない――。
地図は現実を反映してくれない。祖父はつづける。ぼくの肩に手を置く。なんとなれば、世界はあまりに微妙な歪みと変化を抱えており、それを測量する絶対的な基準はどこにもなく、そして、人間は必ず間違うからだ。
なら、とぼくは問う。どうして地図を描くの。
そうしなければわたしたちは、何も見ることができない。自分たちがどこにいるのかも、自分たちが何をつくろうとしているのかも、想像してみないことには、何も作り出せないんだ。
じゃあ、とぼくは云う。地図は記録ではないの? いまのぼくがそう云い、いまのぼくが祖父を通して答える。もちろん、地図は記録でもある。しかしそれは、わたしたちがどう世界を見ていて、何を伝えようとしているのか、そんな物語の記録だ。学問と読んでも良い。記憶と呼んだって構わない。
ミウラ折り、とぼくは口にする。叔母は戸惑ったように首を傾げ、親戚の男たちは何も聞いていない。ぼくは首を振って、云う。大丈夫です。
単語帳をふたたび開く。Atlas。地図帳。その由来は、天空を背負う巨人。あの帰り道のぼくのとっての祖父のように巨きなひと。あるいはそれも物語だろう。しかし、物語がなければ、ぼくはぼくでいることもままならない。
叔母たちは自分の会話に戻る。このあたりの空襲もひどかったってね、と女性が云う。うん。だから、お祖父ちゃんも一からはじめんとあかんかった。伯父さんは、と男性が笑う。土地の測量からはじめたんやってな。
その話憶えてる、と父が云う。ぼくはそれを聞いている。
(初出:『蒼鴉城 第四十八号』京都大学推理小説研究会、2022年)
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