糸をきるもの
「下から積み上げるのではなく上から垂らし下ろせばいいと気づいてからは早かったね。折しもヨツナラビミツメグモの吐く糸がすぐれた耐久力を持っていることが報告され、その利用法に注目が集まっていた頃だったから、文字通り〈蜘蛛の糸〉を下ろすことになった。まず周回軌道上にステーションを飛ばして、そこで作った糸をどんどん下ろしていく。着地点は、確か――」
「ツバル。すでに国土の九十七%が海面下に沈んでいた島国です。当時は国連の管理下にありましたが」
「そう、そう。懐かしいね。プロジェクトを進めるにあたって、最後のツバル首相と会ったことがあるよ。まったく象徴的じゃないか。気候変動の犠牲地、人類の過ちによって失われた地に、〈蜘蛛の糸〉が下ろされたわけだ。第一宇宙移民団には、あの首相の孫も含まれていたね」
「あなたの孫もね。ドクター・アクタガワ」
芥川は口角を上げた。不敵な笑みだった。やつれ果て、老いさらばえた外見のうち、才気迸るその表情だけは変わっていない。
「彼を殺すことになるとわかっていて、なぜ……」取り留めのない昔語りを終わらせるために、わたしは訊ねた。「いや、むしろ〈帰還者〉の船を爆破したのは、彼らを殺すためだったとでも?」
「事実を正確に述べたまえ。わたしが破壊したのはケーブルで、あれは爆破ではなく切断だ。大規模なあまりケーブルを渡る船も巻き込んでしまったが」
諭すように云う芥川。わたしは唇を噛んで頷いた。
瞬く間に宇宙へと開通した軌道エレベーター〈蜘蛛の糸〉は、しかし最初の宇宙移民団をステーションに届けるだけで終わった。天井知らずの強靱さを誇っていたはずのケーブルがとつぜん断裂したのだ。移民団はステーションに取り残された。悲劇だった。彼らは地球の自転に合わせた凄まじい速度で周回するステーションに閉じ込められたまま、地上の、地獄を眺めることしかできなかっただろう。上からの支えを失った〈糸〉は地球に落下し、主として赤道上にその巨大ケーブルを叩きつけた。大地が歪み、海が割れた。人類が地上を再建して再び〈蜘蛛の糸〉を渡し直すには三十年かかった。もちろん、三十年しかかからなかったと云うこともできる。
地上から伸ばされて再び繋がった〈糸〉は、移民団の生存者を地上に届ける直前に、またも断ち切られた。今度は人為的に。十年間行方不明だった、芥川率いるテロ集団によって。
「ドクター。あなたは当初〈糸〉の再建に積極的だったはずだ。孫を救おうと必死だった。通信が途絶えた五年間、あなたは気も狂わんばかりだった。ステーション内の人工生態系のおかげで彼らがなんとか生き延びていたと知ったとき、むせび泣きながら、わたしと抱き合って喜んだじゃありませんか」
「あの生態系を設計したのはきみだったね」
「ええ。無重力状態で育つよう仕上げました。食物だけじゃない、ステーション内のヨツナラビミツメグモを用いれば、その糸から建材や衣服まで生産が可能になる。〈帰還者〉が生き残ったのは、あの蜘蛛のお陰です」
「それだよ。その万能性、異常なまでの再現能力が問題だった」
「はい?」
「アマゾンの地質調査からヨツナラビミツメグモは少なくとも七世紀には地球上に出現したはずだと考えられるが、今世紀の初めまでその存在は確認されていなかった。彼らは周到に隠れていたんだ。その糸で自身を包み、自分以外の種に化けることによって……。この十年、ずっとその能力を研究していた。ご存知かな? 奴らは蜘蛛だけじゃない、蜥蜴や鼠に化けることもあるんだよ」
「与太話を……」
「わたしも嘘だと思いたかったさ。しかしおかしいだろう。三十年経っても、モニター越しのわたしの孫は、一切外見に変化がなかったんだぞ! ウラシマ効果を考慮してもなお説明できない! 地上に散った〈帰還者〉の肉片を調べてみたまえ。そのDNAを。いや、そもそもそれにDNAは発見されるかな?」
芥川は眼を爛々として笑った。口が裂けるようだった。
「われわれは何に向けて、糸を垂らしていたんだろうな?」
(初出:『蒼鴉城 第四十七号』京都大学推理小説研究会、2021年)
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