ウイニング・ラン

 さあ各馬いっせいにスタートを切りました晴天の東都競馬場夏の神山記念、まず先頭をきったのは九番ビワアキレス、すぐ後ろに七番トキノカケル、二番ナカムララベルが続きます、八番サクラケンザンはやや出遅れたか、その前に六番メジロハヤカワ、すぐ横に一番カラスマオイケがついている、そこに三番ライスバレーが追い抜かそうかと云うところ、おっとトキノカケル抜け出しました、前に出た、前に出た、九番と一気に差をつけます、速いぞトキノカケル、速い、速すぎる、後方は遥か彼方です、誰がこんなレースを予想したでしょう、トキノカケル加速する、どんどん加速します、抜ける、抜ける、抜ける、音速がいま抜かれました、さらに速く、どんどん速く、いま光速に迫ろうかと云う勢いです、さあトキノカケル独走、時間が圧縮され競馬場が歪みます、前に見えるのもまたトキノカケルだ、老いている、右前脚が折れています、トキノカケル悠々と抜かす、再び前にトキノカケルです、脚も胴体もぼろぼろだ、もはや走ることもままなりません、安楽死させられています、子を成すことさえできません、トキノカケル一気に抜かす、さあトキノカケルより小さなトキノカケルが前に出ている、誰もその走りには注目していない、競走馬としての活躍も期待されていない、拙い走りの小柄な自分をトキノカケルすぐ抜かす、またひとりです、さあ最後の直線、後ろからはなんにも来ない、後ろからはだあれも来ない、後ろからは誰も届きません、トキノカケル独走、トキノカケル独走です、彼の前にはもう誰もいません、光が歪む、時間が戻る、彼はひとり走りつづけます、誰が彼を導くのでしょう、誰が彼を追いかけるのでしょう、その一勝以外にどんな歴史にも残らない、その蹄は何の跡も残さない、たった一回の奇蹟と云う名のまぐれ、それでもあなたは憶えています、あなたは唯一の併走者なのだから、身を焼け焦がすような陽射し、深緑に輝く芝生、蹴り上げられる土、競技場をどよもす歓声、誰よりも速く走る栗毛、そのすべてをあなたは憶えている、そうでしょう、知っているはずだ、晴天の東都競馬場、永遠にも思えた一分二十一秒、夏の日。


(初出:『蒼鴉城 第四十七号』京都大学推理小説研究会、2021年)

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