鳥はいまどこを飛ぶか
大学三年の夏、わたしはリョコウバトの鳩舎ではたらいたことがある。その年の初め、鳥類学者の伯父から紹介されたバイトだ。生物に詳しくもないわたしは断ろうと思っていたけれど、懐寂しさと幾らかの興味があって返事をだらだらと引き伸ばすうち、伯父は春を迎える前に亡くなった。わたしはイエスと云わざるを得なくなった。勤務地は日本海の離島。いまでこそ全国的に増えているが、当時は日本で唯一の保護施設だった。
専門知識を持たないわたしに鳥の世話が任されるはずもなく、与えられた仕事は鳩舎の掃除と書類の整理。けれども籠のなかの止まり木で休むその姿を眺め、逐一積み重なる観測データを入力するうち、リョコウバトについての知識は蓄えられていった。ハト目ハト科、アメリカの同名種と区別して、正式にはニホンリョコウバト。冬は繁殖のために南へ渡り、春を迎えるとまた日本へ帰ってくる。その移動距離は東アジアで最も長い。
赤いと云うより緋色の羽根が、羽ばたくたび燃えるようにちらつく。
しかし直近の三年間、施設のリョコウバトは渡りをおこなっていなかった。命の保証ができないからだ。ニホンリョコウバトはレッドデータブックに記載される、絶滅危惧種だった。野生の個体は、もう十年近く観測されていない。
「昔は大群をなして渡っていたらしいけどね」飼育員の飛永は語った。「渡りがはじまると、列島の端から端が覆い尽くされたと聞くよ。群が去るまで何日も、空は暗いままだった。糞が雨のように降ってくると、鴎外も日記に書いている」
「それがどうして、こんなに数を減らしたんですか?」
「それだけたくさんいたからさ。一羽くらい殺しても平気だと思われた。空に向かって撃てば必ずあたった。もう一羽。あと一羽。そうするうちに、空はからっぽだ」
わたしは実家から持ってきた本を繙いた。『姿を消しゆくリョコウバト――彼らはいまどこを飛ぶのか』。著者は伯父だった。
羽根は柔らかく、肉は臭みもなくて美味だったと云う。戦前は手軽な資源として狩り尽くされ、強い帰巣本能が見込まれて戦時中は伝書鳩としても用いられた。本土と南方の戦場をリョコウバトが繋いだ。ニホンリョコウバトに棄てるところなし。羽根も。肉も。本能さえも。
メディアとしての伝書鳩が廃れたあとも、戦後はレースの興業が盛り上がった。弱い個体は殺され、強い個体は掛け合わされ。空に放たれたリョコウバトが過酷な旅を経て死なずに戻ってきたとき、ひとびとは涙を流して抱き合った。
そのようにしてニホンリョコウバトは姿を減らした。
バイトが終わる頃、繁殖に成功したリョコウバトの一部が野生へ還されることになった。万一にも刺激しないよう、わたしたち木っ端の職員は遠くからその解放を眺めた。秋の風は涼しく、空はどこまでも高かった。一帯の田園は稲穂を実らせ、見渡す限りのその黄金に、ほむらが瞬いた。
「行け!」飛永が叫んだ。「生きて――」
続かなかったその言葉を、わたしは補った。生きて、還ってきて。
大好きな伯父だった。博学で、優しくて。けれどもわたしはいつも自分から喋るばかりで、伯父が何を守ろうとしていたのか、ろくに聴こうとしなかった。最後に会ったとき、バイトの返事を渋るわたしに伯父は、ゆっくり考えな、と笑った。――返事を聴くのは、入院から帰ってきてからやな。
ニホンリョコウバトは磁気を感知し、方角を理解できる。果てしない空のなかでも、彼らは自分がどこに向かい、どこを飛んでいるのか知っている。その緋色の翼に携えた世界地図には、人類の歴史より昔、歴史なんてものが始まるより前から繰り返された旅路が刻まれているに違いない。それは地球規模の旅だ。かつてこの空を覆い尽くした、遥か南への旅。
死ぬためではなく、生きつづけるための旅。
「生きて!」わたしも叫ぶ。「還って!」
どこからとは云わなかった。どこへとも云わなかった。ほむらはいつしか、一切の青のなかへと消えた。
休みが終わり、わたしは故郷へ帰った。服が鳥臭いと母は顔を顰めた。読みこみすぎて背骨が折れた伯父の本は、いまでもわたしの机の上にある。
(初出:『蒼鴉城 第四十八号』京都大学推理小説研究会、2022年)
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