ある偽作者
わたしは彼をなんと呼べば良いのかわからなかった。わたしが彼を呼ぶ声、はじめて彼を呼んだそのときの声は、だから自信なく、よろめいて響いたと思う。しがつ、ついたち、さん。
カウンターにやって来た彼は慣れた調子で、わたぬきです、と名乗った。四月一日と書いて、わたぬき。すみません、読み仮名を振るべきでしたね。彼は恥ずかしそうに頬を掻く。間違えたのはわたしの方なのに。コピー機が空きました、と報告するわたしの声はまだ震えていた。ありがとうございます、と彼はなんの嫌味もなく朗らかに笑って、両手いっぱいに書籍と紙束を抱えて歩き出す。てっぺんの一枚がひらりと落ちて、彼はそれに気づかない。わたしは咄嗟にそれを拾い、待って、と声を上げた。振り向いた彼の名を呼ぶ。わたぬきさん、と。今度は、間違えずに。
それがきっかけだったとは思わない。この時点ではまだ、わたしたちは図書館のバイトと書庫の利用者でしかなかった。その関係が変わったのは、それから毎日のように彼が書庫に潜り、複写を申請し、そのたびに言葉を交わすなかで――やがて申請書類を介さずとも話すようになって、帰るタイミングを合わせるようになっていった、緩やかな過程のどこかだ。
喫茶店で夕食をとりながら、わたしたちはよく研究内容について話した。わたしは進化生物学。彼は歴史学。とりわけ彼は櫛灘文書を卒論にしようとしていた。京阪神一円に散らばる偽文書で、櫛灘一景なる十七世紀の人物がひとりで書き上げたと云う。いまなお郷土史に隠れ潜むその全容ははかり知れない。
偽文書なんて研究してどうするの、とわたしは訊いたことがある。所詮は捏造なんでしょう。古文書と云っても、嘘なのに。
嘘だからこそ興味深いんだ。彼は云った。なぜ櫛灘一景はこんなに壮大な嘘をついたのか? 歴史を改竄し、過去を創りあげて、彼は何を求めたのか? そこにはきっと、真偽を超えた人間の真実があるよ。
塵も積もれば山。言葉も積み重なればそれが嘘だろうと重みを持つ。どこかで何かの臨界を超え、かたちを変える。淘汰が積み重なって進化をもたらすように。わたしたちの関係がいつしか変容したように。
少なくともわたしは、変わりゆくその関係を恋と呼んでいた。
そうして春が過ぎ、夏が終わり、秋が移ろい、冬が訪れて、わたしたちは卒論を提出した。春の夜、卒業を祝い、いつもの店でわたしたちは将来を語った。更なる変容を間近に感じた。
翌朝、目が醒めると隣に彼はいなかった。音信不通のまま、同じく彼の行方を捜す研究室から電話があったのが二日後だ。わたぬきくんはあなたの家にいませんか、と電話口の相手は訊いてきた。あなたと付き合っていると噂を聴いたものですから。
いいえ、と口にした否定が何に対してなのか、わたしはわからなかった。
プライベートなことを訊いてすみません。事態は急を要するので……。
何かしたんですか。わたしは訊いた。いなくなっただけじゃなく?
研究不正です。答えてしまったことへの後悔をうかがわせる間のあと、相手はつづけた。卒論で、文書をでっち上げたんです。
櫛灘一景ですか、と名前が口をつく。でもあれは、もともとでっち上げなんでしょう?
ですから、その偽文書を捏造したんです。相手は自分で自分の言葉に困惑しているようだった。本物の文書を、偽文書と偽ったのです。
それが終わりだった。あるいは、それもまた変容だった。いつの間にか電話は切れていた。わたしの耳には彼の言葉が反響していた。彼は何を求めたのか? いまも彼と連絡はついていない。数ヶ月後、彼のしたことは学部を超えてちょっとしたニュースになったが、そこで語られる彼の名は四月一日ではなく、綿貫だった。
そこには真実がある、とわたしは自分に云い聞かせる。たとえその名が嘘だとしても、彼の名を呼ぶその声のなかには、きっと、真偽を超えた真実が……。
けれどもわたしがそう思うたび、口をついて出るのはべつの言葉だった。
「嘘つき」
(初出:『蒼鴉城 第四十八号』京都大学推理小説研究会、2022年)
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