アメリカ大陸の鱒文学

 東オレゴンからはじまった〝アメリカの鱒釣りを取り戻そうキャンペーン〟は功を奏したらしく、この二、三年ほどは街外れのクリークにもきらきらとした鱒が涼しげに泳ぐようになった。今年で十一になる息子は友だちを連れてよく鱒釣りにいく。川を徐々に登りながら良い釣り場をさがしていると云う。郵便局裏のちょろちょろとした川とも呼べない水流――息子はそれを〝ションベン〟と表現した――が穴場なのだと、つい先週、買いもの帰りのドライブ中にこっそり教えてくれた。

 父さんにだけ教えてあげるんだからね。誰にも云わないでよ。

 当然。男と男の秘密だからな。

 面白いくらい釣れるんだ。自分で捕まりに来てるんじゃないかな。

 なんで父さんにそんな穴場を教えてくれるんだい。

 うーん、だって父さん、むかし釣りをやってたんじゃないの?

 いや、やってなかった。釣りなんて一度もしたことがない。

 じゃあどうして、書斎にあんな古い竿を飾ってるのさ?

 息子が云うのは、本棚の上にひっそりと掛けられた木製の釣り竿のことだ。糸と針と竿を繋げただけの甚だ簡素なつくりで、すっかり古びたいまは糸を垂らした川の流れに耐えられるかどうかも疑わしい。なぜそんなものを、ずっと書斎に置いているのか。わたしは答えあぐねた。

 友人からの預かりものなんだよ。

 なんとかそう絞り出したところで、息子は唇をとがらせ、ふうん、と返した。はじめからあまり興味がなかったのかも知れない。ちょうど家に到着して、息子はお菓子の袋だけ提げて車を出ていった。

 それから一週間後、わたしはいま息子の教えてくれた穴場を訪れている。半世紀も姿を変えていないんじゃないかと云う郵便局の裏、水の気配を辿って少し林に踏み込むと、木々が開けて陽の当たる場所に〝ションベン〟が現れた。しかしわたしは釣りをすることなく、鱒の背と光の乱反射を眺めながら、水の流れを辿って林の奥へ分け入った。丘の傾斜がわたしの年齢にはきつくなったあたりで、目当ての小屋を見つけた。屋根が崩れて、苔や蔦が壁を半分覆い、もうひとが住むことが叶わないそこに、わたしは息子と同い年の頃、一度訪れたことがあった。当時から、いつ壊れてもおかしくない陋屋だった。

 そう、だからわたしは、息子に教えられるまでもなく、郵便局裏の穴場を知っていたのだ。息子の歳、わたしは学校の帰りにそこを発見した。釣り竿を持ってきて鱒釣りをしようとしなかったのは、先客がいたからだ。小柄のやつれた男だった。老人のようにも、若者のようにも見えた。男はあの釣り竿で鱒を釣っていた。わたしに気付くと、手で追い払う仕草をした。

 少年よ、帰りなさい。何も見なかったことにして、ここから出ていきなさい。

 うるさいぞ、おっさん。ここはぼくが見つけたんだ。ぼくも釣りをする。

 ここはわたしの場所だ。誰にも侵入させない。

 男の英語には訛りがあった。それでいて堅苦しい云い回しを使った。

 わたしはここで静かに生きている。邪魔しないで欲しい。わたしも邪魔はしない。お願いだから、何も見なかったことにして、家に帰りなさい。

 男の冷ややかな青い瞳にわたしはたじろいだ。怒りと云うよりも悲しみを湛えていた。何かを諦めたような瞳。わたしとその瞳の間を、鱒が間抜けに釣り上げられてゆく。

 わたしは家に帰った。しかし、帰りが遅くなった説明として、母に男のことを話してしまった。その夜、警官たちが町中の大人を連れて丘の林へ入っていった。狭い林で、男はすぐに捕まった。

 翌日、わたしはまた穴場を訪れた。川沿いに登り、小屋を見つけた。たき火の痕があって、燃え残った布の切れ端にドイツ語が書かれていた。小屋には生きるために最低限のものしか置かれていなかった。釣り竿を見つけて、わたしはこっそり持ち帰った。

 あれからもう何年経つだろう。わたしは釣り竿を小屋に返そうとして、しばらく躊躇ってから、やめた。預かりものだからな、と呟く。帰り道、陽が傾いて木々の影が落ち、鱒の姿はもう見えなくなっていた。


(初出:『蒼鴉城 第四十六号』京都大学推理小説研究会、2020年)

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