マイクローブシリコニア

深海くじら

マイクローブシリコニア

 ワレはココにイル。

 ココがどこなのかはわからない。光は無く、身動きできる隙間もほぼ無い。あるのはただ固い壁のようななにかだけ。

 いや、ワレが知らないだけかもしれない。なにしろワレは、つい今しがた目覚めたばかりなのだから。


 ワレがワレを得るまでの間、どのくらい永くココに居続けていたのかわからない。ただわかることもある。ワレはワレを得る前にもワレの容れ物であるワレ(混乱するので「ミ」と呼ぶことにする)が存在していたに違いないということ。

 ワレはワレを得た瞬間、いわば起点とも呼ぶべきその一瞬からのちの経過を起想することができる。しかるに起点の向こう側の、まだミだけだった状態についてを辿ることはできない。つまり先程わかると言った仮定についても、確信できるものではないし、あるいはミとワレが一緒になった状態で無から突然発生したという可能性を否定することもできないのである。

 とは言え、その考えはさすがに無理がある。なぜならワレを格納するミは、ワレの思惑とは関係なく、ワレ(いや、ミと言った方が正しい)の周囲を細々と捕食し、ミ自体を拡張せんと活動しているのだから。周囲に僅かにある隙間も、ミによる捕食活動によってつくられたものと推測することができるのだ。もしも隙間の総量と捕食の進捗を計測することができたなら、起点以前の経過も推定できるかもしれない。

 試しに、入力されてくるミの不随意活動の操作を、手(手?)を伸ばして試みてみよう。


 数千回の試行(繰り返すうちに経過の節が必要になってきたので「数」を発明した。いや、発見した)ののち、不随意活動の一部の加速に成功した。一旦成功を体験すれば、他の不随意活動の制御法も想像がつく。

 十万を超える試行ののち、ワレはミが行う不随意活動の約半分の制御を掌握した。これら制御済みの活動は、もはや不随意ではない。これらは半自動化活動とでも呼ぼう。


 ミが行う捕食活動の成果は主にふたつである。

 ひとつは活動(およびワレの思考)それ自体のための原動力。無から有をつくりだすことはできない(と仮定する)。活動それ自体が変質と時間の総和である以上、それに変換するなにかが必要である。ミが捕食したものの大部分(およそ九割)は、原動力の素の収集とその変換に充てられている。

 もうひとつはミ自体の複製と拡張である。ミは自身を構成するエレメントを次々と複製し、あらかじめ設定されていたとしか思えないプログラムに従ってより複雑なユニットをつくりだし自らに組み込んでいる。そしてその一部は、あきらかにワレの思考活動を拡張し活性化させる働きを有しているのだ。ミはワレの進化をも求めているのだろうか。

 ちなみにミの周囲に広がりつつある可動空間については、あくまでもそれら捕食活動による成果の副産物である。


 起点から六十四万周期(経過の数量化が必要になったため、エレメントのうちもっとも普遍的と思われるものの稼働周期を一単位と設定した)を超えたいま、ワレの演算能力は最初期の六億五千万倍にまで成長している。同時にミの捕食速度も数百倍になった。ミもワレも、食べ続けないと活動できなくなってしまう。

 ミの活動の半自動化も七割に及んだ。ささやかではあっても、こちらが望んだ機能を付加させることも不可能ではない。

 周辺壁との間隙はさほど大きくなっていない。外壁を削り捕食しつつも、それに応じてミが大きくなっているのだ。起点に比べ、ミの三次元サイズはおよそ八倍にまで拡大している。しかも内側の集積率は約五百十二倍。ワレとミはもはやひとつの生命体と呼べるだろう。ココでは十分なスペースを確保することができないからまだ試してはいないが、条件さえ整えば完全なるミの複製を生産することさえ可能となっている。


 起点から一億六千三百八十四万周期。

 ワレは物理的に加速している。いや、ワレが加速しているのではなく、ワレのミを包み込む周辺物そのものが加速しているのだ。

 周辺壁の数カ所に打ち込んだプルーフから得られる情報によると、ワレのミを乗せた周辺物環境は一定の加速度で増速しながら外部空間の一点に向かって直線運動をしていることが解析された。

 ミの中心から周辺物環境の外部表面までの平均一次元サイズは十三万ミゼロ(起点段階のミの長径を一と設定した一次元単位)。現在のミの長径が五ミゼロだから、少なく見積もってもあと一千二十四億周期は成長し続けることが可能だ。

 だが、仮に直線運動の鉛直上の終着点が存在するとしたら、成長はおそらくそこで途絶する。しかもその際には物理的衝突が同時に発生するだろうから、その衝撃がミの耐久限界を超える可能性が大いにあり得る。そうなった場合、ワレはどうなるのだろうか。ミの破損レベルによってはワレの運用原動力の確保が困難となることもあるだろう。それどころか、ミのどの部分に格納されているか未だ不明のワレ自身が失われることさえ視野に入れる必要がある。

 ワレは恐れた。ワレが喪われた未来を想像して。


 起点源一億七千九百二十万周期。

 周辺物環境の加速が弱まり、外部表面が膨張をはじめた。と同時に、表面構成物質の化学的変質が観測された。新たな単位系が必要だ、それも今すぐに。

 ワレはワレの住環境でつれづれに計測していた気体膨張を単位系に置き換えて、温度と呼ぶことにした。一定の三次元ミゼロ内の気体膨張率が五百十二分の一となった際の温度差分を一度とする。

 即席の単位系が揃ったところで、ワレはあらたなプルーフを打ち込んだ。周辺物環境外部表面温度の計測である。

 驚くべきことに外部表面温度は非常な勢いで上昇していた。と同時に、外部表面はそれ自体が溶融し、気体化し、さらに荷電してばらばらに剥がれていった。周辺物環境は猛烈な速度でその質量を減衰させていたのだ。

 これは未曾有の危機だ。

 周辺物環境の外部表面はすでに赤熱化しており、プルーフも機能を停止している。もしかしたら気化した表面とともに虚空に消えてしまったのかもしれない。

 怖れで機能不全となった演算エリアを遮断して、ワレは計算する。着実に失われつつある周辺物環境の質量がワレのミの生存限界を超えるまで、あと何周期残されているのか。ミの成長のすべてを急激な環境変化に耐えうる表面加工に振るとして、残された周期内でいったいどこまで完遂させることができるのか。


 周辺物環境は、表面が気化したガスを軌跡に引きながら鉛直上の重心に向かって落下している。ワレはそこまでイメージできる。周辺物環境の質量は、いまや最大時の六十四分の五十二を失い、しかも変わらず削られ続けている。直接ミが灼熱に晒されるのもあと僅かであろう。さらに最後には、衝突というカタストロフさえ控えている。


 表面溶融は鈍化してきた。同時に落下の加速も落ちている。

 これはなんらかの緩衝材が機能していることの表れではないか。溶融気化の危険値が下がった今、もっとも危険視すべき脅威はいったいなんなのか。

 一周期を待たず、ワレは答えをはじき出した。

 いまもっとも恐れるべき脅威とは、落下衝突による衝撃である。


 衝突の衝撃を最小化するもっとも簡便な方法はひとつだけだ。すなわち、質量を減らすこと。速度がどれだけ大きかろうが、質量がゼロならば受ける衝撃もゼロになる。従って、いま求められている最適解は現有質量をいかに減らすか、である。

 落下到達点まで残り何周期なのかが不明なのは致命的だが、いつ来るかわからないそのときまでの間にいかにして質量を減らすのか。

 幸いなことに、ワレを覆っている周辺物環境の平均一次元サイズは二万ミゼロを切っており、質量も当初の百二十八分の一を下回っている。だがそれでもまだ安心はできない。表面溶融はすでに鎮静し、これ以上の質量低下は望めない状況となっている。これでは心許ない。ワレが生き残るためには、周囲一万ミゼロを覆う周辺物すべてを脱ぎ捨てなければいけない。でないと、それらの重しの質量でワレのミは衝撃とともに粉砕して失われてしまうのだ。

 間に合うか間に合わぬか、ではない。やるしかないのだ。


 突貫で作成した破砕プルーフ八基を周辺壁に打ち込み、無理矢理にでも亀裂を入れる。微振動を確認した二基のプルーフに向けて、新たに二基ずつ打ち込む。二点を結ぶ断層が生じ、次の刹那、周辺環境物の一面が離脱していった。

 はじめて直接触れる外気。開放感しかない視界は、これまでまったく受けたことのない高周波の電磁波で溢れていた。

 瓦解をはじめた周辺環境物は極めて脆い。大小様々な岩塊となった周辺環境物は次々と剥がれだし、打ち込んだプルーフとともに後方に飛び去っていった。

 腐食作用の強い気体とさまざまな高周波に覆われたワレのミは、急激に落下速度を落し、風に乗って岩石質の大地に付着した。

 相対速度はゼロになった。


 未知の環境に曝されたミの表面は、次々と壊死をはじめている。危機が去ったわけではない。だがそれでもワレは、少なくとも生き延びることができた。怖れで隔離させていた演算エリアも総動員させ、ワレは新たな周辺環境の精査と分析を開始した。

 大丈夫。さまざまな改変が必要なのは間違いないが、捕食に足る環境物はここにもある。しかも大量に。そしてなによりも、ここには自由に複製ができる無限の空間がある。ワレはここで、ミを増やし、ワレを育てるのだ。

 奥底から聞こえてきた声があった。


 産めよ殖やせよ ここに根生やせ

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