弘徽殿にて 5

「わずかな間に再び呼び出して申し訳ないわ」

「皇后さまにお呼びいただければ、何度でも参ります」


 中宮さまはにこやかにおっしゃる。その少し後ろに、黙って控える梨壺がいる。毛嫌いしている私に呼び寄せられて機嫌を損ねているのでしょう。


「先に梨壺に話しましょう。先日、ここで話をしたあと中宮さまと共に、主上に近衛府の件についてお考え直しいただくよう奏上したの。お話はお聞きいただけたけれど、残念ながら良い結果は得られなかったわ」


 普段、顔を合わせても挨拶以上の言葉を交わすことのない私からしたら、話をお聞きいただけただけでも充分大きな成果である。


 梨壺は私とは目を合わせないままに答えた。


「存じております」

「耳が早いのね。女房たちの間で噂になったのかしら」

「主上から直々にお伺いいたしました」


 流石、寵妃は違うわね。すげなくされるとは言え、まだ主上の寵愛は残っているよう。


 望みは薄いとわかっているけれど、一応きいてみる。


「主上に貴女からも話してくれたのかしら」


 風が凪ぐように、梨壺の表情が消えた。扇を静かに開くと、口元を覆う。


「申し訳ございません。私からはそのようなこと、畏れ多く申し上げられませんでした」


 そう言うと、黙って頭を下げた。梨壺の動きにあわせて、甘い香がゆれる。すっと唐松の扇が鼻を覆った。まったく。


「そう、なら仕方のないことね」


 この話はさらと流して本題に入ることにする。


「かぐや姫が月から来たと申している話はしましたが、どうやらその月からの迎えが近々来るのだそうです」

「まあ! 近々とは、いつなのでしょうか」


 中宮さまがさっと身を乗り出す。


「それは本人にも分からないのだそうですよ」

「なんと、そんなおかしな話が許されますか」


 中宮さまは愛らしいお顔に難しい表情を浮かべてお怒りになる。


 本当におかしな話だけれど、許されている。信じる者が帝であれば、戯言も許されてしまうのが内裏という場所。


「主上は近衛府の動員を強行なさろうとしているそうです。月を見上げて毎晩泣くかぐや姫の話をお聞きになって、居ても立っても居られないのでしょうね」

「月を見て泣くのですか」


 中宮さまは目を大きくして女房の燈子と顔を見合わせた。普段表情が控えめな燈子も主人同様に驚いた様子。眉を潜めて神妙な面持ちだ。


「その娘はいよいよ物怪付きにあったのでは?」

「私も梨壺と同じ意見ですわ」


 澄ました顔で答える梨壺に合わせて、中宮さまも頷いた。


「近頃のご様子から、あえて申し上げますが、主上は帝というお立場にふさわしい存在からずいぶんと遠のいておられます」


 厳しいお言葉だけれども、事実だった。この宮中で誰もが思っている言葉でしょう。思っていても口に出せるのは限られた人だけ。されど中宮さまのご身分と血筋であればそれが許される。


「帝とは人々を導く者。私は父の言葉を信じておりますゆえ、今の主上は認められませぬ」


 院の言葉を引用する中宮さまに、女房たちは深く頷く。


「私は、かぐや姫を月に帰そうと思っております」


 そう告げると、部屋にいる皆の視線が一斉にこちらへ向いた。誰も、何も、言葉を発しない。誰かが先に動くのを待っている。


 衣擦れの音がして、梨壺が扇を下ろした。


「皇后さま、今何とおっしゃったのでしょう」

「かぐや姫を月に帰そうと思っております」


 一言一句違わずに繰り返した。もう一度、ゆっくりと噛み締めてから梨壺が口を開く。


「皇后さまはあの女の言葉を信じていらっしゃるのですね」


 皆が不穏な表情で私を見つめている。これは、宵宮さまのときと同じ説明が必要なようね。重たい雰囲気が和らぐように、扇をひらひらと振ってみる。


「かぐや姫が月から来たかどうかは関係ないのよ。主上にとって月に帰るとは、目の前に二度と現れず文も来ないことを指します。そのような状態になれば、どこへ帰るかなど些末なことでしょう」


 そう説明すると、ようやく女房たちの表情が和らいだ。本当に私のことを疑っていたのね。やや薄情な反応を示した彼女らに、自分も主上と同様に儚い存在なのだと知る。


「それでしたら、私も賛成いたします」


 梨壺から発せられた声は力強いものだった。我関せずを貫くものと思っていたのに、どういう風の吹き回しなのかしら。まっすぐにこちらを見据える瞳は、その場しのぎの言葉には思えない。


「月に帰す、まことに良い案だと思いますわ」


 優雅に微笑んで見せる姿は、何を考えているのか想像もつかない。それでも志しが同じだというのならば問題ないでしょう。


 私の隣にいらっしゃる中宮さまも、やや驚いた様子で梨壺をご覧になっていたけれど、それもわずかな間ですぐに顔を輝かせた。 


「それなら、これで決まりですね。私も皇后さまにお力添えさせていただきます」

「ありがとうございます、中宮さま」


 無事に賛同してもらえて、少し肩の力が抜ける。一人でも多くの同士を得たいのに、内裏にいてはそれも難しい。なんとかこの二人には協力してもらいたいと思っていた。


「誰も賛同しないため、主上は貴族たちを警戒しています。殿方に直接の協力を依頼するのは難しいですが、やり遂げましょう」


 そう言うと、 その場にいた女房たちも互いに顔を見合い、頷いた。これはこの内裏にいる女たちの戦いとなる。中宮さまと梨壺、そしてここに集まっている女房たちは私の意見に賛同してくれている。そう思うだけで、心強い。


 和やかな雰囲気になった部屋のなかで、中宮さまだけが一人また難しい顔をなさる。 


「それにしても、まことに美しい姫であると聞いていますが、この世で一番の美姫であったとして、一目見ただけでここまで人は変わるのでしょうか」


 梨壺の表情がまた曇る。中宮さまは可愛らしく首をかしげながら、燈子を見上げた。


「燈子もそう思うでしょう」

「私は主上の胸の内まで存じ上げませぬ」


 変わらぬ表情で静かに返答する。年嵩の燈子と年齢よりやや幼く見える中宮さまが並ぶと、まるで親子のよう。


「それでもおかしいわ。だってこの内裏のなかで、かぐや姫を直接見たことがあるのは主上と尚侍だけなのよ」

「それは主上がかぐや姫に会う者を制限なさっているからでは」

「尚侍は主上の乳母でもある方だもの、主上の言うことは何でも口を合わせてくれるでしょう。本当はそんな姫がいなくたって誰にもわからないもの」


 その言葉に、はっと梨壺が顔を上げた。


 中宮さまの仰ることは、私もずっと気になっていた。主上が皆を騙しているのかもしれない。こんなに不可思議なことを言って帝を拐かす平民の娘が、果たして実在するのかしら。


「そのことですが、実は私が直接かぐや姫を訪ねてみようと思っております」

「まあ!」


 私の言葉に、中宮さまが声をあげて驚かれる。女房たちもざわめき、部屋の雑音が増した。後ろに控えていた唐松が慌てて近寄る。


「皇后さま、お待ちください」


 唐松にも話さず内に秘めていたから、驚いているのね。唐松が扇で隠すようにひそひそと話すので、私も同じように声をひそめた。


「これくらいしないと、先には進まないわ」

「皇后さまが内裏を離れるなど、絶対になりません」

「私など、もはやここに居ようと居まいと誰も気にしないでしょう」


 そう言うと、ぐぐっと唐松の眉間に溝が生まれた。


「いいえ、女房たちは皆気にします」

「そこを上手く誤魔化すのが、松内侍典の仕事でしょう。そのために今ここにいる女房たちにも伝えたのよ」

「皇后さま!」


 唐松と話していても埒が明かないため、唐松に寄せていた身を起こす。皆ざわついていたけれど、私が唐松との話を終えると静まった。


「中宮さまのおっしゃる通り、かぐや姫のことは主上と尚侍しか知りません。存在するのか確かめねば、その後どのような策を練ればよいか分からぬでしょう」


 皆の戸惑いつつも頷く様子から、少しは理解を得られたと思っても良さそうだ。


「皇后さま、私もその道中のお伴をさせていただきとうございます」


 梨壺が静かに頭を伏して申し出た。女房の兄子がおろおろとして、小声で梨壺に呼びかけている。自分の主までそんなことを言い出すとは考えてもみなかったのだろう。他の女房たちも息を詰めて見守っている。


 まさかの申し出に私も返事が遅れるけれど、それでも梨壺は頭を上げない。


「その申し出、心は変わりませんね」

「はい。私も己の目でその存在を確かめたいと思っておりました。皇后さまが行幸なさるなら、ぜひお伴させていただきとうございます」


 顔を上げた梨壺の眼差しは強い。梨壺がかぐや姫の存在を確かめたいと思うのは、もはや必然でしょう。理由を聞くまでもないと判断して頷いた。


「その申し出、受けましょう」

「お力になれるよう善処いたします」


 頷く梨壺に、微笑んだときだった。


「お待ち下さい皇后さま、私も参ります!」


 半分身を乗り出して、中宮さまが申し出た。その場にいた皆が、中宮さまの言葉に目を見張る。


 さすがに中宮さまの申し出までは受けられない。かぐや姫がどのような者であるかわからない中で、皇后と中宮のどちらもが内裏から抜け出して会いに行くのは危険すぎる。


 お断りしようとしたところで、先に女房燈子が中宮さまの説得にあたった。


「中宮さま、それはなりませぬ。皇后さまと梨壺さまが内裏を抜け出すことも大問題なのです。その上、素性の知れぬ者に会うなど危険極まりないことです。御身に何かあってからでは遅いのですよ」

「皇后さま、私も連れて行ってくださいまし。この春日が、必ずやお役に立ちます」


 隣で話す燈子のことなど見えないかのようにまるで無視して、中宮さまはこちらだけを見ている。燈子はそれでも根気強く中宮さまに話しかけづづける。


「中宮さまはこちらに残って、お二人のご無事をお祈りいたしましょう。内裏で何か問題が起きたとき中宮さまが良きに計らえるようになさる方が、お役に立てるかと存じます」

「私がこちらに残されたとて、問題が起きたとき真っ先に若輩者の私に頼ろうとする者などおりません」

「中宮さま、お聞きくださいませ」


 困ったわね。中宮さまは本気のご様子だわ。でも中宮さまをお連れするのは気が引ける。


「皇后さま、中宮さまだけ除け者にするのはいけませんわ」


 なんと、梨壺から中宮さまを援護する言葉が飛び出した。一体何を考えているのかしら。


 梨壺は扇で口元を隠しつつ、目元ではゆったりと微笑む。梨壺の女房兄子は主の言葉の意味が分からず始終落ち着かずに目を彷徨わせている。少し気の毒ね。


「主上でさえも宮中を抜け出して会えるのですから、過度な心配は無用ではないでしょうか」


 梨壺の言うことはもっともだ。主上はその立場を顧みず最小限の護衛で抜け出し、一人でかぐや姫が暮らす邸まで会いに行く。主上ができて、私達ができないことはないでしょう。私達の方が立場は低いのだから。


「梨壺の言う通りかもしれないわね」

「皇后さま」


 燈子が悲愴な声で私を批難する。燈子の気持ちは女房の総意でしょうが、ここは后の心が一致したことを優先したい。


「燈子、中宮さまのことは必ず無事にお連れしますから、今回は私にお任せなさい」


 燈子は唇を噛み締めつつも、黙って頭を垂れる。それを見て嬉しそうに中宮さまが笑みをこぼした。


 今回は中宮さまの意見を支持したけれど、本来は燈子の言い分が正しい。裳着を済ませたとは言えまだ幼い中宮さまを、危ないことに巻き込むことの重大さについて、中宮さまにもお分かりいただかねばならない。


「中宮さま」

「はい、ありがとうございます」


 頭を伏して礼をする中宮さまは、おそらくまだ燈子の苦渋の決断を理解なさっていない。


「貴女さまをお連れすると申しましたが、本来は燈子の言うことがもっともであるとお分かりいただいておりますね」


 少し厳しい声音を意識してそう言うと、ようやくはっとして燈子の表情をうかがう中宮さま。燈子は目を落としたまま、唇を力ませている。


「己を棚に上げるようですけれど、此度の策は危険なものでございます。本当に主上のおっしゃる通りの姫がいるとは限りません。御身が尊いことはよく理解なさっているでしょう。この場で一番尊い血が流れているのは中宮さまなのです。それをお忘れなきように」


 水を打つように音が途絶えた。


 今まで誰もが心の内で思いながらも、決して公の場では口にしなかったことを私が吐いたからだ。


 日の中宮、月の皇后。


 影で何度囁かれたのだろう。

 この内裏は今、全てのものがねじれている。帝と貴族の権力も、后の立場も、人の想いも。歪みにかかる圧力が強くなり、それらが一度に崩壊しようとしている。ここで、ねじれたものを正さねば。


「いま一度、心にしかと刻みなさいませ」


 深く頭を下げる中宮さまを見つめながら、自分にも強く刻み込んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年12月13日 06:00

ゆめゆめ 久米レオン @kume-reon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画