弘徽殿にて 4

 宵宮さまに文を出したあと、またこちらを訪ねるとの返事が届いた。貝合せの絵柄を一人で眺めながら、考えを巡らせる。


 主上を殺さねば、私が父上に殺される。父上のあの目に一片の迷いもなかった。


 主上が死ぬか、私が死ぬか。


 二つに一つだ。これを回避するには、何がなんでも主上の目を覚まさねばならない。


 けれども中宮さまと共に主上へ奏上した様子では、お話はお聞きいただけたがとても目を覚ますような素振りはなかった。心の内で静かに昏い炎を燃やしているような気配がある。父上の言う通り、今の主上に何を言っても手応えはないでしょう。


 どうすればいいか。もはやこれしか答えはない。


「皇后さま、宵宮さまがお見えになりました」


 女房から声をかけられて、貝から目を上げる。女房に目配せして、皆を下がらせた。


 廊下の向こうから背の高い宵宮さまがゆっくりと歩いてくる。冠に何か差していらっしゃるわ。


「皇后さま、ご機嫌いかがでしょうか」

「変わりありません。冠のそれは?」


 宵宮さまは少しだけ首をかしげてみせた。白い大ぶりな花が二輪咲いている。


「百合でございます。邸に咲いていたので、よきかなと思い差して参りました」


 慣れた手さばきで流れるように後ろの裾をさばき、私の正面に腰を下ろした。すっと背筋を伸ばして居住まいを正される。貴族の手本のように清らかな方だ。


「よくお似合いです。凛とした佇まいが似てらっしゃる」

「ありがとうございます」


 宵宮さまの返答が一拍遅れた。珍しく、少し照れていらっしゃるみたい。貴重なところをお見かけしたわ、と少し心が浮き立つ。


 宵宮さまはごまかすように、小さく咳払いをしてから改まって頭を垂れた。


「突然の訪問をお許しいただき、ありがとうございます」

「今日はどうなさいましたか」

「例の姫のことで、噂になる前に皇后さまのお耳に入れておきたいことがございます」

「例の」


 宵宮さまは頭を上げた。影で表情は読めないけれど、良い話ではない様子。


「どのような話でしょう」

「先日、かぐや姫が月から来たと申していることはお伝えしましたが、その後、毎晩のように月を眺めながら涙を流すようになったとの報告があります」

「月の者を演じているのでなければ、本当に気が触れているのね」


 ずいぶんと芸の細かいこと。誰もここまで思いつかないでしょう。月を見て泣くだなんて、多少の雅はわかるのかもしれない。だとすれば、ただの娘として生まれたことが惜しまれる。


「月からの迎えが近いのだとか。知らせを受けた主上が、近衛府の使用を強行なさろうとしております」

「迎えはいつなのでしょう」

「本人にもわからないようです」


 それを信じろというのは難しい。


 けれども。


「信じましょう。その姫の言葉を」


 この話の真偽はどうでもいいことだ。大事なのは、かぐや姫の話を信じること。それが、今の状況を打開するための唯一の道になる。


「帰りたいと言うのなら帰しましょう、月へ」

「本気ですか」


 驚いた宵宮さまが勢いよく動いたために、烏帽子に刺していた白百合が床に転がった。腰を浮かせて御簾ににじり寄るので、声がぐっと近くなる。


「月から迎えが来るのでしょう?」

「それは、かぐや姫がそう申しているだけで」

「ならば、本人の言葉を信じましょう」


 宵宮さまは言葉を失っている。私まで頭がおかしくなったのだと、勘違いなさっているようね。目だけでなく、口まで開いたままにしていらっしゃる。いつものすまし顔がこんなに崩れるなんて。


「姫の言葉の真偽は関係ないのです。主上の前から立ち去り二度と現れなければ、月だろうと山だろうと、御所の裏だろうと構いません。主上の前から消えることが、月へ帰ることと同義でございます」


 そう言うと、宵宮さまは腰をすとんと落とした。何やら思案するようにわずかに頷いてつぶやく。


「成程、皇后さまのおっしゃる通りかもしれません」


 額の汗をぬぐいながら、にじり寄った分だけ元いた場所まで下がると、また背筋を伸ばしてこちらを見つめる。


「しかし、主上に気づかれぬように進めるのは至難の業でございます」

「ええ、ですから、私が帰します」


 また宵宮さまの目が見開く。


「貴方がたが動けばすぐに主上はお気づきになるでしょう。ですが、気にも留めていない后はどうでしょう」


 短く息を吸う音が聞こえた。この場限りの戯言ではない。何としてでもやり遂げてみせる。


 私が、かぐや姫を月に帰す。


 それが、私が帝殺しをせずとも生き残れる、ただ一つの道だ。

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