左大臣 1
この陰気な娘にはまったく腹が立つ。
皇后となったのは肩書きだけのもので、微塵も役に立たぬ。少しはあの若造に気に入られるよう機嫌を取ればよいものを。少しの愛嬌もふりまけず、得体の知れぬ女に宮中を乱される始末だ。
「父上、どのような御用でしょうか」
女房がすべて出払ったのを見届けてから、桔梗が口を開いた。
「桔梗、先日の朝議であの若造が口走った内容は知っているか」
桔梗の眉頭がわずかに寄る。
「父上、主上とお呼びくださいませ。どのような場であってもその呼び名はなりませぬ。ここは内裏でございます」
「はっ、笑わせるわ。思ってもおらぬことを口にするな。誰があれを帝にしたと思っておる」
真面目で融通がきかぬ性格は誰に似たのか。皇后にするからと、少し厳しく育てすぎたのやも知れぬ。
せめて桔梗が母似であれば違う未来があったのやも知れぬが、惜しくも自分に似てしまった。不美ではないが、男に受ける顔ではない。やっと生まれた娘だというのに。
「それで、お前は知っているのか」
「はい、存じております。近衛府をかぐや姫のために使うとか」
「ほう、誰に聞いた」
「風の噂にございます」
桔梗は顔色ひとつ変えず、淡々と答える。面白みのない娘だ。
「追い風の奴か」
「誰とは存じませぬ」
様子を見るに、甥ではなさそうだ。あの男は無害そうな顔をして、あちこちで浮名を流している。この娘も従兄妹として共に過ごす間に心惹かれていた。
今も時たま追い風がここを訪ねているとの知らせがあるが、そこが情報源ではないとすると、噂は予想以上に速く宮中を駆け巡っているようだ。
「わかっているだろうが、近衛府を訳の分からぬ女のために動かすなど許されん」
「承知しております」
「あの腑抜けは、ついぞ気が触れたようだ。もはやこれ以上、あれを帝にしてはおけぬ」
ようやく桔梗の表情に変化が現れた。戸惑いとも納得とも取れる色を宿している。
「退位を迫るおつもりなのですね」
「そんなぬるいことをするか」
何もわかっておらぬ。皇后ともあろう者がこれでは、帝を御せぬのも納得だ。
「何のために皇后になったのだ」
まだ分からぬという顔でこちらを見つめる娘に腹が立つ。ただ皇族の血を引く子を成すために入内させたと思っているのか。皇后としての心構えが甘い。
「殺せ」
桔梗は時が止まったように目を見開いて固まるが、ひと呼吸の内に己を思い出すとゆっくりとまばたきを繰り返した。
「何のご冗談でしょうか」
「お前が、帝を、殺すのだ」
もう一度、ゆっくりと言う。桔梗はようやく飲み込んだのか、扇でさっと顔を隠し目を伏せた。
「お考え直しください、父上」
「考え直すのは、お前だ。あの腑抜けに退位しろと言って、是と言うと思っているのか。あれは今、気が触れておる。何とかという女を助けるには、帝という地位と権力が必要だ。退けと言われて首を縦に振るわけがなかろう」
そう言えば扇で隠した口元から、ぐっと息を飲む音が聞こえた。
「お前は皇后なのだ。夜殿で刺すなり、毒を盛るなり、いかようにもできるだろう」
「そ、そんなこと」
声を震わせて反論してくる姿に、はらわたが煮え立つのを感じた。己の髭をなで、なんとか気持ちを鎮める。
「帝殺しなど、いたせませぬ。それにそんなことをしてしまったら、私だとすぐ知れてしまいます。そうすれば我が一族の栄華は地の底に落とされるでしょう」
「帝殺し程度、もみ消すなど容易いことよ」
宮中には息のかかった者が何人もいる。姉上と築きあげたこの御所に、私の思い通りにならぬものなどない。たとえ帝の胸に刀が突き刺さって見つかろうとも、気が狂って自分で刺したと言い張れる。
「今の宮中の空気をお前も知っておろう。月から来たと頭のおかしいことをわめく女にうつつを抜かしている者が、帝という尊い身分に居座れるものではない。お前がせぬなら、他の誰かがやるだけだ。あやつの役割は終わった。東宮がいるのだ、次の帝の心配は要らぬ」
むしろ丁度良かったとさえ思える。東宮はまだ幼い。即位したとて二十年近く摂政が必要だ。摂政としての地位をここまで早く手に入れられるとは喜ばしい。
だが、まだ桔梗は食い下がる。
「私が殺せば、穢れを一族に持ち込むことになります」
覚悟の足りぬ娘だ。
「どうせ女には月に一度の穢れがあるのだ。今更、穢れが一つ増えたところで変わるまい。帝が死んだらお前は尼にでもなって寺にこもるのだから、そもそも関係なかろう」
ここまで言って、やっと口を閉じた。まだ納得しきれていないようだが、やる以外の道は残されていない。何せ国の命運がかかっている。
「一刻を争う。機会を伺ってすぐにでも動くのだぞ」
ぐずぐずとして聞き分けのない娘だ。一人娘だからと甘やかし過ぎたのかもしれん。
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