食卓の儀式
坂月タユタ
食卓の儀式
母は昔から料理が大好きだった。その腕前は店を出せるほどのものではなかったが、少なくとも家族にとっては心地の良い味だった。夕方になると台所から漂う香りが家全体を満たし、自然と食卓に足が向く。妹も母から料理を習っては、休みの日に凝ったものを作ってみんなに振る舞っていた。
だが、父が突然の事故で亡くなってから、家の様子は変わってしまった。母は必要最低限の料理しか作らなくなり、口数も少なくなった。料理の香りも薄れ、私たちは会話もなく皿を空にする。外で食べてきても良いのだが、塞ぎ込む母が心配で、私も妹もなるべく食卓を囲むようにしている。それは、食事と言うよりも、まるで冷たい儀式のようだった。
それが変わったのは、父の三回忌を過ぎたある日だった。
「今日から、新しい習慣を始めるわよ」母は唐突に言った。
その日、食卓にはいつもの料理に加えて、父が好んでいたハンバーグが並べられていた。それだけではない。父の席に椅子が戻され、皿と箸がきちんと置かれていたのだ。
「何これ?」と私が尋ねると、母は微笑んで答えた。
「お父さんも一緒に夕食を食べるのよ。」
その言葉には、冗談や比喩のような軽さはなかった。母の目は真剣で、まるで本当に父がそこに座っているかのようだった。
最初は戸惑った。私も妹も無言で食事を取ったが、母だけはその「見えない父」に話しかけた。
「今日は晴れていて、暖かかったわね。あなたが好きだった天気よ。」
奇妙だったが、母が幸せそうだったので誰も文句を言わなかった。それから毎晩、母は父のために席を用意し、食事を進めた。
しかし、その習慣が始まってから、少しずつおかしなことが起き始めた。
母が空席に向かって話すたび、何かが返事をしているような音が聞こえるのだ。それは、耳を澄ましてようやく聞き取れるほどの微かな低い音であったが、何であるのかは分からない。
「お父さん、今日はお仕事どうだった?」母が尋ねると、応えるように微かな音のようなものが聞こえる。私は妹と目を合わせたが、ふたりとも何も言わなかった。
そしてある晩、私は気づいてしまった。父の席に置かれたハンバーグの皿が、いつの間にか空になっていたのだ。
「……母さん、これ誰が食べたの?」そう尋ねると、母は不思議そうに首を傾げた。
「お父さんよ。当たり前じゃない。」
その夜、私は眠れなかった。翌朝、母が台所で料理をしている間に父の席をじっと見つめた。そこには何もない。空っぽの椅子がただ静かに佇んでいるだけだった。
次の晩も、また次の晩も、父の席の皿は空になり続けた。母の表情は日を追うごとに穏やかになり、家の雰囲気もなぜか以前のような温かさを取り戻しつつあった。
しかし私たち家族だけではないものがその食卓にいるという感覚は、日に日に濃くなっていった。
ある夜、妹が意を決して母に言った。
「お母さん……やめようよ、これ。」
だが母は首を振った。
「どうして?これが私たちの家族の形よ。」
その瞬間、電灯が一瞬だけ揺れ、父の席から微かな笑い声が聞こえた気がした。
***
それが食卓以外の場所に現れるまでに、それほど時間はかからなかった。
最初に気がついたのは、家中に漂う異音だった。夜中、台所から誰かが皿を叩く音がする。トイレが勝手に流れたり、足音とも風音ともつかない音が廊下を行き来したりもした。
そんな時は、私はじっと息を押し殺して、音が過ぎ去っていくのを待っていた。姿が見えなくても、音の主が食卓にいるものと同じであることはわかる。そしてもちろん、父ではないということも。
ある日、私は明かりの消えた台所でそれを見た。冷蔵庫の前に立つ、影のようなもの。人間の輪郭をしているが、目鼻立ちがなく、ただ黒く揺れている。
「……誰?」
声を絞り出すと、影は一瞬だけこちらを向いた。その動きは不自然で、人間らしいものではなかった。私は体が固まったまま動けず、影が静かに消えていくのを見送ることしかできなかった。
翌朝、母にそのことを話すと、彼女は穏やかに微笑んで言った。「大丈夫よ。それはお父さんだから。」
一切の疑いもない瞳に、黙って頷くことしかできない。しかし、私はあれが父であるとは、どうしても思えなかった。
その夜、妹が廊下で突然叫び声を上げた。慌てて駆けつけると、彼女は震えながら床にへたり込んでいた。
「誰かが、廊下を歩いてた……お父さんじゃない……」
廊下には、濡れた足跡が続いていた。人間のものに似ているが、形が微妙に歪んでいる。私たちは顔を見合わせ、声も出さずに抱き合った。
***
家の異常は日に日に悪化した。夜中に扉が勝手に開く。風もないのにカーテンが揺れる。自室に戻っても、誰かに見られているような感覚が常に付き纏う。
そして、最も恐ろしいのは母の変化だった。
母は夜中、誰もいないはずの父の席に向かって話し続けるようになった。その声は次第に低くなり、耳を近づけないと聞こえないほどだった。時間を気にせず、いつまでも食卓にいるようになった母を、私は毎日のように寝室へと運んでいた。
ある晩、深夜に私がトイレに起きると、食卓の方から母の声が聞こえてきた。おかしい、母は先ほど寝かしつけたはずだ。恐る恐る中を覗き込むと、痩せこけた母の背中が見え、やはり誰もいない父の席に向かって話しかけているようだった。
私が思わず声をかけると、母は虚な目をしてこちらを振り返る。
「お父さんが、戻ってきたのよ……」
私はその時、父の席に何かが座っているのが見えた。人間ではない。それは黒く、形を持ちながらも不安定で、まるでこちらを嘲笑っているかのように揺れていた。
私は悲鳴を上げ、母の腕を掴んだ。テーブルの上のグラスが滑り落ち、床にあたって砕け散る。その音が異様に静かな空間に響き渡り、空気がピリッと裂けるような感覚があった。
その瞬間、それはスッと音もなく消えた。残されたのは、空席のままの父の席。どこからか冷たい風が吹き抜け、床に散らばったガラスの破片が微かに音を立てていた。
次の日の朝、私は母に言った。
「母さん、これもう終わりにしよう。」
指差した父の席を見て、母は少しの間、焦点の合わない目で立ち尽くしていた。妹も心配そうに見つめる中、母はしばらくして「分かったわ」とだけ言った。感情を削ぎ落とした、機械のような声だった。
その夜、父の席に皿が並べられることはなかった。代わりに、私たちは妙に重たい沈黙の中で夕食をとった。
しかし、家の中には変わらず気配が残り続けた。夜になると、ふいに耳元で囁き声が聞こえる。見えない何かが肩を撫でる感触がする。そして、常に背後から見られているような感覚が消えない。
母の「儀式」は終わったはずだった。でももう遅い。この家には、何かが住み着いてしまった。それはもう、決して出て行かない。
食卓の儀式 坂月タユタ @sakazuki1552
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます