第3話
(この缶も、デザインがすごいと言っていたのに。今や王子のお気に入りね。あのカップもクッキーを乗せたお皿も)
一杯目で使った青いカップは装飾が少なく洗練されたデザインだ。
かたや二杯目で使っているカップや皿は、花や果実が描かれたとても可愛らしいもの。茶葉の缶と同じで、さも私が主役よ、と言わんばかりだ。
ソフィアはワゴンから室内へと視線を動かした。
この部屋も随分と様変わりした。
(ランプも、クッションも、花瓶も……。いつの間にか私が知らない物が増えたわ)
カップがシンプルなデザインであったように、ヨハン王子はさっぱりとしたデザインを好む。だが、彼の私室は今や可憐になりつつある。
今までの彼であれば、花柄など選ぶことなどありえなかった。
(王子の優しさはご結婚相手にも向くのね)
ヨハン王子の好みの変遷は、はっきりとはわからない。
でもきっかけは明確にわかっていた。結婚相手であるマーガレット嬢が理由だ。
茶葉をお土産にくれたのはマーガレット嬢だし、飲み方をお勧めしてくれたのもマーガレット嬢。紅茶のお供としてクッキーを差し入れたのもマーガレット嬢で、なにより缶のデザインはマーガレット嬢がしたのだとか。
あの茶葉はマーガレット嬢の生誕を祝ってご両親が作られたもの。彼女が十歳になったのを記念して、デザイナーと一緒に手掛けたと聞く。
“夫婦になったら同じ飲み方が出来た方が楽しめるだろう”
ヨハン王子が少し苦笑いしながら言っていたのを思い出す。
ソフィアが「甘い物が苦手なら無理なさらなくても」と言った時の返答だ。
本当、彼は根っからの優しいお人なのだ。
「さて。そろそろ僕は行くよ」
飲み終えた二杯目のカップを持って、ヨハン王子がワゴンに近づいてきた。
ソフィアはお礼を言って空のカップを受け取る。
その時、ヨハン王子はワゴンの上のサンドウィッチを見て、
「それはソフィアのご飯かい?」
と尋ねた。
ソフィアは間をあけて笑顔を作る。
「ええ、そうです。仕事が立て込んでいると言いましたでしょう? 今日は椅子に座って食べる暇がなさそうで」
「そうなのか。休める時があれば休むんだよ」
「はい」
相変わらずお優しい、ありがたい気遣いだ。感謝の意もこめて頭を下げれば、ヨハン王子の笑い声が聞こえた。
二人はドアまで連れたって歩く。閉じられたヨハン王子の部屋のドア。ソフィアはドアを開けた。
ヨハン王子がドアを通る。いつもならここで軽く手をあげて「またね」と言うのが普段の流れなのだが。
彼はそうすることなく、ソフィアをじっと見た。
「ソフィア。本当に今までありがとう。君のおかげで大きくなったといっても過言ではないよ」
「それは言い過ぎですよ、ヨハン様。大きくなられたのは、ヨハン様ご自身の力です。……ヨハン様、これからはマーガレット様に朝の身支度をお願いしてくださいね」
「あぁ、わかってるよ」
この国は結婚したら、夫の身支度を手伝うのは妻の仕事だ。
私室にも寝室にも立ち入るには妻の許可がなければ不可能。たとえ掃除のためであっても、だ。毎回妻に確認をとり、妻の指示下でしか動けない。
ということは。
ソフィアはもうヨハン王子の身の回りのお世話をすることはない、という意味でもある。ヨハン王子は今日、マーガレット嬢と結婚し、彼女を妻とする。
ソフィアが培ってきた誇りと責任ある仕事は彼女に引き継がれるのだ。
二人は見つめ合う。幼いころに出会い、どちらも随分と成長した。
ソフィアは腰を折り、頭を下げ、深くお辞儀をする。
「いってらっしゃいませ」
ソフィアのお見送りにヨハン王子が人生一の笑顔を作った。
ああ、わかる。マーガレット嬢と結婚するのがこの上なく幸せなのだ。
彼は苦手なものを努力して好きになれるくらい、趣味や意志が変わるくらい、彼女を愛している。
ヨハン王子が靴音を鳴らして廊下を歩いていった。
長い長い廊下。彼が小さくなったのを見て、ドアを閉める。
このヨハン王子の私室を掃除したら、もう足を踏み入れることはない。
ソフィアは何かあればお申し付けください、と言ったが、メイド長から今後はヨハン王子に仕えることがないようきつく言われていた。
(マーガレット嬢は私が嫌いだもんね)
メイド長は直接的なことは口にしなかったが、マーガレット嬢の要望だということはわかっていた。ヨハン王子とソフィアは竹馬の友でもあるから。
阿吽の呼吸で行動する二人が、言葉がなくてもわかりあっている二人が、正直言って好ましくないのだ。
ワゴンの取っ手を持ち、ドアまで持っていく。
空になったカップ二つ。空になった花柄のお皿。でも青い皿だけにはサンドウィッチが乗ったまま。
ヨハン王子の当たり前の軽食。もしかしたらまた甘くないものが食べたい、と言うかもしれないから。
クッキー、シフォンケーキ、マドレーヌ。色んな甘い物を作るのと同時に、毎回サンドウィッチや塩味が効いたビスケットをソフィアは用意していたのだ。
でもここ最近で食べてもらえた記憶はない。いつでも彼のお腹と心を満たすのは、マーガレット嬢を思い出させる甘い物。
(ヨハン王子は優しいお方なのよ)
ソフィアはサンドウィッチをおもむろに掴むと、口元に持っていき勢いよく頬張った。胚芽を使ったパンにチーズがよく合う。砂糖の入っていない紅茶にあわせた、ソフィアご自慢のサンドウィッチだ。
(お優しい方なのに、私には)
ソフィアの頬を涙が流れる。
塩味が効いたサンドウィッチがますます塩辛くなる。それでも食べ続け、最後の一かけらを口内に放ると何度も何度も咀嚼して飲み込んだ。
(私には優しくないのね)
自分のためじゃない、ヨハン王子のために用意したサンドウイッチなのに。
それに気が付いてもらえないなど、もう随分と前から甘いお菓子が紅茶のお供というのが彼の当たり前になっていたことを示している。
ソフィアは雑に目元を拭うとドアを開け、ワゴンを廊下へと出した。
室内を振り返る。きっと明日はもっと、可愛らしい部屋になるのだろう。
ソフィアは部屋に向けて言った。
「ご結婚おめでとうございます。ヨハン王子。私は、あなたが大好きでした」
ヨハン王子はソフィアには優しくないから。
ソフィアが彼に恋心を抱いていたなど、知る由もない。
私の王子は優しくない あずま もも @azumahigashi_5
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