第4話 二人と一人……


 「男の子と、その子のお母さんだよ」

 沢田が入居する前、その部屋には、小学一年生の男の子と、その子の母親が、二人で住んでいたらしい。シングルマザーである。

 口の軽いご近所さんは、離婚の原因が旦那のDVであること、その母親が駅前のお弁当屋さんで働いていることまで教えてくれたらしい。

 個人情報も何もあったものじゃない。

 そして、沢田は、休暇をもらっている間に、そのお弁当屋を訪れたのだ。

 

 「すみません」

 注文とお弁当の受け渡しを兼ねたカウンターの向こうに声を掛けると、「いらっしゃいませ」と返事をしながら、二十代後半の女性が顔を覗かせた。

 沢田は、声を聞いただけで分かったと言う。

 「おかえりなさい」、「いってらっしゃい」、そして「火事よ!」と叫び、沢田の命を救ってくれた女性である。

 女性も、沢田が誰だか、すぐに察したようであった。

 初対面であるにも関わらず、沢田の声を聞き、驚いた顔になったのだ。

 そして、沢田にこうたずねた。

 「あの……、もしかして『ただいま』の?」

 「助かりました。ありがとうございます」

 沢田が礼を言うと、女性は、その言葉の意味を理解し、「良かった」と安堵の笑みを見せた。

 あたたかく優しい笑顔だったそうだ。


 女性が仕事を終える時間を聞いた沢田は、その時間にもう一度弁当屋を訪れ、少し話をしたらしい。

 

 「向こうも、引っ越し先の部屋で、いきなり『いってきます』や『ただいま』という男の声が聞こえてきて、最初は、たいそう怖かったと言ってたよ」

 「それが普通の感覚だよ」

 オレは苦笑しながらそう言った。

 「でも、すぐに慣れて、逆に、夜、「ただいま」って言うオレの声が聞こえると、妙に安心したってさ」

 「……火事の夜は?」

 「声の主が炎に包まれそうになっている夢を見たらしいよ。

 それで必死になって、声を掛け続けている内に目が覚めちゃったって。

 オレが助かったのかどうか、ずっと気になってたって言ってくれたよ」

 「男の子は?」

 「声のおじさんって言って、オレを部屋のどこかに住んでいる透明人間か何かだと思ってるんだって」

 「透明人間か。子供らしいな」

 「来週の日曜日、三人で会うんだよ。

 声のおじさんはオレだよって言うつもりなんだ」

 「なるほど」

 嬉しそうな顔になっている沢田を見て、オレもどこか嬉しい気持ちになって、小さく笑った。


 沢田がその母子、美沙さんと結婚し、健一君の父親となったのは、それから三ヶ月後のことだった。

 結婚式で見た美沙さんは優しそうな女性で、健一くんは沢田に懐いていた。

 「ただいま」と「おかえり」が似合う家族になるんだろうなと思い、独身のオレは、少し羨ましく感じた。


 お幸せに……。


 


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「ただいま」の声が…… 七倉イルカ @nuts05

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