花が咲いた日(下)
知っていた。
書類仕事が苦手なマスターの代わりに、煩雑な手続きの一切は、私が引き受けていたのだから。
馴染み深いこのアパートを三月いっぱいで引き払うことも、私の引き取り手をすでに見つけていることも、マスターが四月から住む場所も。
知っていたのだ。私は十六年間もマスターの世話を焼き、欠かさず日報を書き続けたのだから。
マスターの食事の量がこの一年ほどで激減したことも。一日の外出時間や歩数がほとんどゼロになったことも。処方される薬が徐々に強くなり、量が増えていることも。
車椅子での移動に適さない小さなアパートでは、もはやこの先、マスターが暮らすことは難しい。
そして、一般家庭用アシスタントロボである私は、簡単な家事ならばこなせても、歩くことすら覚束なくなったマスターの介助をする機能など――まして、終末期の緩和ケア機能など、持ち合わせてはいなかった。
マスターが教員時代の伝手を辿って探してくれた私の再就職先は、田舎の小さな児童養護施設だ。人手不足に悩まされており、私が得意とする事務仕事や、掃除や施設修繕といった雑務の担い手を必要としているらしい。今や旧型モデルとなったオンボロの私でも歓迎してくれるというのだから、文句の付けようなどあるはずもなかった。
「お前には十六年もよく働いてもらった。退職金代わりと言っちゃなんだが、何か欲しいものがあれば、なんでも言ってごらん」
残った遺産は全部、私の新たな職場に寄付するからと、マスターは相変わらずの変人ぶりを遺憾なく発揮して私に尋ねた。
「新しいノートをください」
私は即答した。白いページも残りわずかとなったノートを胸に抱きしめて。
「このノートがいっぱいになった次の日からも、日記を書き続けられるように」
マスターはちょっと目を丸くしたあと、すっかりこけてしまった頬を緩ませて、声を上げずに笑った。
三月は矢のように過ぎ去っていく。
何をするにも不自由なマスターの生活をどうにか支える傍ら、不要になった家財や衣服を順に処分し、冷蔵庫の中身や食品ストックを計画的に使い尽し、アパートおよび各種ライフラインの解約や、銀行や役所の手続きを片っ端から進めていく。マスターが溜め込んだ大量の本を整理し、古本屋に引き取ってもらうだけで大仕事だ。
そんな中でも、私は毎日、日報と日記を書いた。マスターも毎日、震える指で私の日記の採点をした。点数は、未だ95点を超えられない。
超えられないまま――マスターと私に、三月三十一日の夜が訪れた。
明日の早朝、マスターはタクシーで終の棲家へと向かう。私はマスターを見送ったあと、業者による残った家財の処分に立ち会ってから退去を完了させ、その後、施設の職員に迎えに来てもらう手はずになっている。
ぽっかりと広くなったリビングの窓際に車椅子を寄せ、桜の花びらがベランダに舞い込むのを眺めるマスターに、私は静かに歩み寄った。最後の一ページの、一番下の行までを埋め尽したノートを、両手で持って見せながら。
「マスター。今日の日記です」
顔をこちらへ向けたマスターは、はっとしたような表情を浮かべてから、力の無い笑みを浮かべた。片手を出しながら、そうだな、と、彼は寂しげに呟く。
「一年間よく頑張ったな、アス。どれ、今日の採点を――」
「採点は要りません」
マスターの言葉を遮り、私は言った。目を瞬かせたマスターの鼻先から、分厚い眼鏡がずり落ちそうになる。口を開きかけたマスターを制し、私は一方的に続ける。
「要りません。返さなくていいです。一言一句完全に記憶していますから、その日記はマスターに差し上げます。その代わり」
私は徐に、マスターに見せていたノートの下に隠していた、もう一冊のノートを取り出した。
「これも一緒に、貰ってください」
今度こそ、目をまん丸にして驚くマスターの手に、私は二冊のノートを半ば無理矢理押しつける。慌ててノートを受け取ったマスターは、眼鏡を押し上げ、題字を記していない二冊目のノートをしげしげと眺めた。
「これは……」
「日記です。明日から一年間の」
ぽかんと、マスターの口が大きく開かれる。
それ以上は何も言わず、私はマスターに背を向けてその場を辞した。
「4月1日 快晴
マスターの症状が一夜で劇的に改善した。診断結果は健康そのもの。ホスピス入居は急遽取り止めとなり、私の再就職も白紙になった。アパート退去の撤回や各種施設への説明に追われる私の横で、マスターは呑気に『花見に行きたい』などと言う。このアパートでのマスターとの生活は、この先もまだまだ続きそうだ。」
私の二冊目の日記の初日は、このように始まる。
一年前の四月一日、マスターは私に言った。日記は自由だと。なんでも私の好きなように書いていいのだと。
だから私は、自由に書いた。
マスターと私が、これまでと同じようにこのアパートで暮らし続ける、私が想像した「未来の日記」を。
春のうちは、行政手続きや家財の買い戻しで大忙しだ。今年もベランダにツバメが巣を作り、やっぱりマスターが中を覗き込もうとして、私は冷や汗をかかされる。
初夏には生活もすっかり元どおりになって、マスターの読み道楽も復活した。書斎の床に築かれている本の山に悩まされるのは、もう慣れっこだ。
マスターがずっと行ってみたかったという、同人誌即売会にも突撃した。紙の本など絶滅寸前だと見くびっていた私の予想は裏切られ、真夏の暑さをものともしない盛況ぶりに驚かされる。マスターは二人でも運べないほどの量の本を買い求め、私に酷く叱られた。
秋も深まった頃、長年マスターが切望していた、彼の両親の墓参りに出掛けた。四時間も電車に揺られて辿り着いたマスターの故郷は、初めて来たはずなのに、アパートと同じ空気を持っていた。
大晦日は例年どおり、炬燵に入って一緒に年を越した。テレビ中継で除夜の鐘を聴きながら、「今年もよろしく」と、もったいぶって互いに頭を下げた。
そしてまた、春がやってくる。
日記も終わりが見えかけて、私はまた、マスターに新しいノートを所望する――。
この一ヶ月間。引っ越し準備で忙殺される傍ら、これまでどおりの日報と日記も書き続けながら、私はこっそり、この「未来の日記」を書いた。
これが正しい「日記」ではないことなど知っている。虚偽かどうか、まして点数などどうでもよかった。
私が何より欲しかったのは、一冊のノートでもなんでもなく、ただ、マスターと過ごす未来だけだったのだ。
別れは、呆気ないほどあっさりしていた。
わずかな愛用品を詰めたボストンバッグを携え、運転手の助けを借りてタクシーに乗り込んだマスターは、後部座席の窓を開けると、片手を挙げて私に微笑みかけた。
「世話になったよ、アス。長い間ありがとな」
私は深々と頭を垂れたまま、マスターの顔も見ないで淡々と返す。
「お世話になりました、マスター。長い間ありがとうございました」
マスターが「ああ」と小さく呟いたのを合図に、タクシーがゆっくりと発進する。
車のエンジン音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで、私はアパートの玄関先で頭を下げ続けた。
住み慣れたアパートを離れ、私の新生活が始まった。
大勢のやんちゃな子どもたちとの暮らしは騒がしく慌ただしく、だが毎日が新鮮で刺激的だ。施設の職員はみな私に好意的で、仕事仲間として頼りにされるのは嬉しく誇らしい。
けれど、新しくもらったノートに私が書く日記に、点数をつけようなどという変人はいない。そもそも私は、私が日記を書くということを、誰にも明かしていなかった。
マスターがどうしているのかは、私にはわからない。家族でも親族でもない私に、わざわざ彼の安否を教えてくれる人などいないのだ。
マスター本人からの電話や手紙も来なかった。彼にその気が無いのかもしれないし、その力すら残されていないのかもしれない。もしかしたら、下手に私とやりとりをすることで、それが途絶えたときの私の心情を慮っているのかもしれない。
ただ、少なくとも、施設への入居が認められたマスターに残された時間は、どれだけ長くとも数ヶ月しかないはずだった。
目まぐるしく季節は過ぎ去り、年が明け、気付けばあっという間に一年が経とうとしていた。
三月三十一日、夜。一日の業務を終え、一年分の日記を書き終えてノートを閉じた私のもとに、一人の職員が顔を覗かせた。怪訝な面持ちで彼は言う。
「これ、キミ宛に届いたんだけど」
そうして差し出されたのは、角2サイズの茶封筒だった。
今日の夜に配達指定がされている。配達業者で保管されていたらしく、受付日は半年以上前。宛名は「アシスタントロボ・アス様」となっており、依頼者欄には――見慣れた懐かしい筆跡で、マスターのフルネームが記入されていた。
私は封筒を呆然と眺める。職員が去るのを待って、固く糊付けされた封筒を開けた。
中から出てきたのは、一冊のノート。
一年前の今日、マスターに無理矢理押しつけた、私の「未来の日記」だった。
封筒の中身はそれだけだ。手紙の類は何も添えられていない。
首を傾げながら、私はノートを開き――そして、目を離せなくなった。
「4月1日
――このアパートでのマスターとの生活は、この先もまだまだ続きそうだ。」
『奇跡って起こるんだなぁ。何はともあれ、これからもよろしく!』
「8月12日
――会場の賑わいぶりに、マスターと同じような本好きがこんなにいるのかと驚かされた。」
『アスのこの日記も、いずれ本にして、あの会場に並べてみたいなぁ。』
「11月7日
――マスターがまた靴下を裏返したままにしていた。叱るのは通算931回目だ。」
『より汚れているのは内側なんだから裏返したほうが綺麗になるんだ、って、反論するのも931回目だぞ。』
「3月31日
――今日でこのノートも終わるので、新しい日記をマスターにねだった。
明日からも、この先もずっと、私はマスターとの日々を書き続けるつもりだ。」
『もちろん! 明日からもこの先も、ずっとよろしくな、アス。』
私が書いた「未来の日記」の下には、見覚えのある赤いペンで、馴染みのある口調で、小さなコメントがびっしりと書き込まれていた。
ノートはすっかり汚れてへたれ、紙面の至るところに点々と水濡れの痕が残っている。ほとんど力が入らなくなった指先で、これだけの字数を書き込むのはどれだけ大変な作業だったろう。にも関わらず、私の日記の一日一日、三百六十五日の全てに、コメントは漏れなく添えられていた。
私は無我夢中でページをめくり続ける。何度でも繰り返し、ありもしなかった一年を振り返る。
日記の中にマスターがいる。
私の過去に、今に、そして未来に。
マスターからのコメントはいかにも彼らしく、その言葉を発しているマスターの声も、笑顔も、実在しない私の過去のメモリーに浮かび上がっては鮮明に刻まれる。
けれど。
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
ノートの表紙いっぱいに描かれた、花びらのような縁取りのある大きな渦巻き模様の意味を、いつか、私はあなたに訊けるだろうか?
Fin.
花が咲いた日 秋待諷月 @akimachi_f
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