三日目

 初めは幽霊かと思った。梨の木陰に白い人影が座っていた。祖母の葬式で見た白装束を着ており、横座りをしている。着物の裾から白い裸足が見えていた。

 そこを訪れた理由はよく覚えていない。麦藁帽子に半ズボン、虫取り網を握り締めていた。おそらく成瀬川に自慢したくて、大きな虫を捕まえに遠出したのだと思う。燦々さんさんと降り注ぐ日差しを濾過する木漏れ日の下で、長い黒髪を地面に垂らしたまま微動だにしない少女を前にして固まった。つばの下で冷や汗をかき、片足が一歩後ろに下がる。

 そのままきびすを返しそうになるのを、生来の負けん気が許さなかった。生唾を呑み、喉の奥から声を発した。

「おい」

 声が裏返った。目を瞑った少女の反応はなく、やはり死んでいるのではないかと疑った。傾いでいた首が緩慢に動き出し、華奢きゃしゃな肩にかかっていた墨色の髪が滑る。薄く瞼を開けた。

「誰かいるのですか。すみません、どうにも現世うつしよは眩しいもので……」

 朦朧もうろうとした眼差しは、白く濁っていた。

 目が悪いのだろう。祖母がかかっていた目の病気とよく似ている。確か白内障とか言ったか。ともあれ生身の人間だと安心した。少年は虫取り網を地面に突いたまま、白装束の娘に話しかけた。

「そこで何をしてんだよ」

「何も」

 待っているだけです。彼女はそう答えた。

「待ってるって、何を」

「災いを」

 盲目の少女との会話は殆ど理解できなかった。少し頭がおかしいのではないか。靴も履いておらず、もし迷子になっているのなら家へ送り届けてやろうと思った。

「お前、どこの家の子だ」

「家?」

 小首を傾げた。艶やかな黒髪がしなだれ、左前になった着物の襟元から白い鎖骨が覗いた。どうしてか少年の鼓動が速くなる。

「家なんてありません」

「そんなわけないだろ。じゃあどこに帰るんだよ」

「どこにも」

 まるでらちが明かなかった。苦虫を嚙み潰したような表情になる。仕方なく彼女の素性を探ることにした。

「名前は何て言うんだ」

 彼に問われて、少女は少し考える素振りをした。目の前に広がる菊の花畑を遠く眺めて、少年の方に細い首を向ける。

きく、です」

 なぜだか面映おもはゆい表情をしていた。

 少年は鼻を鳴らす。おもむろに近寄り、手を差し伸べた。

「とにかく、大人のところまで連れていってやるよ」

「いえ、私は」

「いいから」

 戸惑う少女の手を強引に握る。気温は高いというのに、恐ろしく冷たい感触だった。思わず手を放してしまった。白い手を胸に抱えて、白装束の娘は呟く。

「あなたの手は、温かいですね」

 言葉をなくす少年の前で、少しよろめきながら少女は立ち上がった。彼の目の前に立ち、白く濁った瞳で見据える。その雰囲気に気圧けおされていると、彼女は何かを差し出した。その手のひらに乗せられていたのは、白い紙人形だった。

「これを」

「紙人形?」

 恐る恐る受け取りながら、その物体をめつすがめつ眺める。

「そのヒトガタを手離さないで」

 彼女は黒髪を項垂うなだれる。その下で呟きが漏れた。ごめんなさい。

「何で謝るんだよ」

「私では、あなたたちを救えない」

 そう述べた白装束の娘の背中越しに、濃緑色の山々が見えた。その峰を大きな手が掴んだ。白く骨ばっており、次に剥き出しの頭蓋骨が現われた。昏い眼窩で、盆地の底にある町を見下ろした。歯が生え並んだ顎を開き、青い空に咆哮を轟かせた。



 夜に沈んだ丘の上で、背後から気配がした。梨の木のそばで振り返ると、警察官が立っていた。見慣れた制服を着ていたから、顔が半分ほど欠けていても駐在所の人だとわかった。残った顔面に笑みを浮かべ、電源の入らない懐中電灯を握り締めている。

 おそらく遅くなっても帰らない子供を捜していたのだろう。顔が大きく抉れた警察官の背後から、青年団らしい人々の輪郭が浮かび上がった。いずれも目鼻や耳が欠け、顔が削げていた。欠損した肉体を気にかける様子はなく、一様に安心した表情を浮かべていた。

 全てを思い出した少年には、その光景は悪夢そのものだった。

 遥か頭上で、咆哮が遠く響いた。見上げると、仄暗い水の空にあの骸骨の巨人が浮かんでいる。白い眼光を宿した左の眼窩で、少年を見下ろしていた。

 頭の向こう側が覗く駐在が、片手を差し出した。白い手袋が嵌められた手を前に、少年は後ずさる。青年団は取り巻き、包囲しようとしている。その顔には一切の悪意もなく、逆に空恐ろしかった。このヒトガタだけは奪われてはいけない。彼は紙人形を胸に抱いた。

 水底で、一陣の風が吹いた。菊の野原が騒めき、黄色い花弁が視界を舞う。目の前が晴れると、白い背中が佇んでいた。ひどく華奢で、長い黒髪が腰まで垂れている。儚げな横顔が見えた。

「思い出してくれてありがとう」

 前に向き直り、白装束の娘は言った。

くさびは抜けました。この禁域は閉じられる」

 水底で空を見上げた。俯せに漂う巨人の骸骨と視線が混じり合う。

「神の御許へ還りましょう」

 その言葉を合図に、少年の足元から浮力が生まれた。体が宙に浮き、靴底から地面から離れる。警察官や青年団の人々も同様だった。力なく手足を投げ出し、空に向かって落ちていく。

 急激な息苦しさに見舞われた。喉元を押さえ、足を暴れさせながら浮上していく。霞んでいく視界に映ったのは、町中から浮かんでいく人々だった。そのおびただしい水死体とともに遠ざかっていく町並みを見下ろし、浮力に任せて彼の意識は断たれた。仰向けになった少年が最後に見たのは、巨大な頭蓋骨がすぐ間近で凝視している光景だった。左の眼窩の奥に、白い何かがいる。胎児と同じ姿勢で、白い髪の尾を丸めている。

 あれは子供だろうか。意識が闇に呑まれる寸前で、少年はそう考えた。

「君、大丈夫か」

 瞼の裏を透かし、陽光が眩しかった。力強い手に肩を抱かれ、目を開けた。目の前には迷彩服を着た大人がおり、自分を見下ろしている。その肩越しに、ヘリコプターの機影がかすめる。

 どうやら自分はボートに乗せられているらしい。その大人は少年の生存を確認し、口元のマイクに叫ぶ。

「生存者を確認。少年一名を救助」

 上空をヘリコプターのローター音が行き交う。山頂近くまで水に浸した盆地の上で、朝日が昇ろうとしていた。水面は町の住民の水死体で埋め尽くされ、地獄の様相をていしていた。

 少年は眩しさに目を細め、知らず強く握り締めていた手を開いた。その中にはくしゃくしゃになった白い紙人形があり、瞬く間に黒く染まってちりと化した。



 災害発生から三日目の早朝、唯一の生存者である十歳の少年が救助された。

 盆地の中にある町は突如発生した大規模な水害によって水没し、住民たちの生存は絶望視されていた。被災後から三日を過ぎると、被災者の生存率がいちじるしく低下する。災害派遣された陸上自衛隊によって、少年はこの『72時間の壁』までに救助された。そのあいだ、水底で生存し得た理由との関連は明らかになっていない。

 防衛省は総力を挙げて、この特殊激甚災害を引き起こしたと推定される巨大な人型の存在を追跡している。

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