二日目

 目と口から蛸の足が這い出る体育教師を傍らを抜け、校門をくぐる。遅刻寸前だった。彼は精神論を口にして、理不尽に児童を𠮟りつけた。頭が空っぽに違いないと友達と悪口を言い合った。

 今は、きっとそうなのだろう。

 昇降口に入り、自分の下駄箱を開ける。いつの間に入りこんでいたのか、一匹のうなぎが飛び出して鼻をかすめた。少し驚いて、身をくねらせる尾の動きを見送る。気を取り直し、上履きに履き替えた。水苔が生えており、つま先や踵が緑色に染まっていた。

 重く濡れた不快な感触を我慢して、さまざまな魚が泳ぐ階段を駆け上る。急がなければ朝の会が始まってしまう。一段飛ばしで自分の教室がある階に着き、ランドセルを揺らして駆けこもうとして、半透明な何かに阻まれた。白みを帯びており、大きな海蛇の胴体に見えた。ただ頭部や尾は見えず、突起がところどころに生えている。その身をうねらせながら廊下の壁をすり抜けていく。

 少年は首を傾げた。これは何なのだろう。水中の生き物なのだろうが、壁を通り抜けるなど物理法則を無視している。足踏みをしているあいだに、強い力で肩を叩かれた。振り返ると、悪友の成瀬川が立っていた。彼は肥満体で、顔が大きく膨らんでいた。膨張した頭部に半ば埋もれた紫色の唇で、「おはよう」と言った。

「何もたもたしてんだよ。また先生に叱られるぞ」

 いくらか聞き取り辛い声で言った。前を指差しながら向き直ると、眼前の不可思議な生物は通り過ぎようとしていた。その尾が壁に吸いこまれると同時に、頭上でくぐもったチャイムが鳴った。

 体育の時間で、体操着に着替えて競争をしていた。白線が引かれたグラウンドを走っていると、頭上の空をさまざまな生き物が泳いでいた。リュウグウノツカイ、マンボウ、マンタ、オコゼ。そういった奇異な姿形の生き物と比べても、明らかに不自然な形態の存在が加わっていた。亀裂が枝分かれしながら四方に増殖していく影と、鱗の代わりに夥しい赤ん坊の顔が生えた奇魚。前にテレビで見た、古代の海に生息していたという背骨に手足が生えた形状を思わせる奇妙な生物が運動場の上を跨いでいる。

 それらに目を奪われていると、背中を叩かれた。痛みに振り向くと、成瀬川がにやけた表情で追い抜いていくところだった。不格好な走り方の後ろを猛追もうついしながら、少年は思った。そうだ、誰も気にしていないではないか。何もおかしいことはない。

 午後の退屈な授業を終えて、放課後を迎えた。夕日が揺らめく水底の通学路を、成瀬川と雑談をしながら並んで歩く。音楽の授業で使った、リコーダーのケースがランドセルとともに揺れている。

 他愛のない話だった。何組の女子が生意気だとか、最近転校していく子が多いといった、日常の出来事だ。

「皆、こんな田舎臭い場所から出ていくんだよ」

 成瀬川は膨らんだ頭部を重そうに揺らして言った。確かにそうかもしれない。この土地は山々に囲われた盆地で、少々窮屈に感じることがある。

「俺はここから出て自衛隊に入るんだ。怪獣をやっつけてやる」

 テレビで怪獣映画の影響でも受けたのだろうか。少年は苦笑いをした。お前は痩せないと無理だよ。その二人の遥か頭上で、巨人の骸骨が静かに漂っていた。

 やがて家の方向が別々になる分かれ道まで来た。いつも通り彼らは手を振りながら、別れを告げた。じゃあ、また明日な。

 ふと視野の端に異物が見えた。朝方、校内の廊下で見た半透明の白い海蛇が下りてきていた。その軌跡を目で追うと、真っ直ぐ友人の太った体を目指している。

 その突起の生えた胴体が、成瀬川の体を斜めに通り過ぎた。白く霞みがかかる。頭部が隠れ、あのどこか憎めない顔が隠れてしまった。海蛇が通り過ぎた後の形に、友人の体が消失していた。鮮やかな断面が見え、振っていた腕が血とともに水中を漂った。

 眼前で起きた惨劇に少年は絶句した。地面を透過して再び舞い上がった海蛇の長い影を見上げ、本能的に身の危険を覚えた。あれは捕食者だ。電柱の後ろに隠れ、震えが止まらなくなった肩を抱き締めた。

 やはりおかしい、何もかもが。友人が食われる日常など、あってたまるものか。

 白い海蛇は少年には興味を抱かなかった。空の彼方に漂い、どこかへ泳ぎ去った。少年はひどく混乱していた。いつからだ。この町は、どうしてこうなった。

 吐き気がこみ上げてきて、彼は嘔吐おうとした。給食を食べたはずなのに、胃の中は空っぽだった。ただ粘性を帯びた胃液だけが口から吐き出され、目の前を漂った。

 電柱の陰が飛び出し、家とは別の方向へ走り去った。商店街を抜けると、いずれも体のどこかが欠損した住人たちが不思議そうに少年を見送る。この光景を受け入れていた自分を、おぞましく思った。

 無我夢中で走った。目的地などない。ただ足は無意識に見覚えのある場所へと向いていた。山に囲まれた盆地の中心から離れた見晴らしの良い丘で、一本の梨の木が生えていた。舗装されていない道の傍らに黄色い菊の原があり、水の流れに合わせて小花が密集した花頭かとうが揺れていた。

 夜の帳が下りた丘の上で、木陰には誰もおらず、少年は途方に暮れた。自分は何を期待してここに来たのだろう。一面に広がる菊の花畑と梨の木。何か色が足りない。人の形をした空白があった。

 不意に半ズボンのポケットからはみ出ていた何かが浮かび上がった。少年の視界をよぎり、反射的にその物体を掴む。手の中にあったのは、人の形を象った紙人形だった。

「そのヒトガタを手離さないで」

 少年の耳の奥で誰かが言った。汚泥おでいに覆い隠された記憶をさかのぼる。

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