千の詫び

福山典雅

千の詫び

 陰は足元だけでなく心に映る。さぞかし重いものかと思えばそうではない。のしかかる陰は刺さるのだ。その痛みを逃す様にわたしは生きている。

 大正を迎え流行りのハイカラな服装を横目に、寸法の合う母の着物を手に取る方が好きだ。借家暮らしでもそれなりの贅はある。

 父の事業がうまくゆき、わたしが女学校に通うのも未だに信じられない。家を買わないのは母がまだ心配しているからだ。物珍しい西洋菓子なども、たまに何処かから手に入れて来る母は、慎ましくも上手く生活を繕っていた。

 そう言う意味で仕事以外の父は駄目だ。芯がない。馬鹿にするわけではないが仕方ない。随分と難しい事を教えてくれるし、柔軟な姿勢で世情を理解している。だけど、わたしから見れば頭の良さは道を探す事に長けているが、どの道を選ぶかには向いていない。結局の所、超然とはゆかず思想に支配される。だから母がわたしには賢く見えてしまう。

 今日も父は遊びに来た書生の田所さんと難しい話をしている。わたしはふかし芋を持って行き、挨拶をすますと早々と退散したかったのだが、掴まってしまった。

 父達は海外の情勢をこと細かく語り議論をかわすが、それは空の理屈だ。女の噂話には辟易する癖にやっている事は同じだから面白い。こんな穿った見方でしか楽しめない自分を持て余しながら暫く拝聴し、もっともらしく頷き適度な所で場を辞した。

 わたしの役目は彼らの博識さを三段下くらいから眺め、若い女学生らしく見当違いな事を言えばいい。その無邪気さが意外に的を得てたりすれば満点だ。今日もうまく出来た様だ。わたしが部屋を出てそのまま台所で母の手伝いをしていると、また父が声をかけて来た。

「千尋、田所くんの買い物に付き合ってやってくれないか?」

 嫌な事を頼んで来る。妙齢の男性と買い物にいくなどまっぴらだ。わたしは備え持った羞恥心とは別に、世に誤認を生じさせる行動を好ましく思わない。

「贈り物を選んで欲しいのですが」

 父の背後から申し訳なさそうに頼んで来る田所さんは、先だって田舎の両親から電報を貰い、数日中に帰ると言っていた。そのお土産だろうか。こうして二人から頼まれると流石に断るのも憚られる。わたしは仕方なく外出の準備をした。

 賑わう街の往来を、わたしは大柄な田所さんの少し後ろから追随した。「そちら」、「こちら」と控えめながら言葉をかけ、適当なお店を案内した。

 土産は日持ちも考えあっけなく煎餅に決まった。田所さんも両親への愛情とは別にこの辺りはいい加減なもので、「千尋さんがそう言うのなら、それに致します」とあっさりしたものだ。それでわたしのお役は御免となり、帰ろうかと思った矢先だった。

「もし千尋さんがよろしければ、珈琲茶館へ行きませんか?」

 田所さんが妙に力のこもった声色で誘って来た。

 女学校の友人と怖いモノみたさに行った事があるが、玉突きやトランプなどの遊興にふけり、金銭を賭けたりする場所だ。騒々しさは我慢できるが、もくもくと目に染みるタバコの煙がどうにも好きになれない。わたしは田所さんを不快にさせずにやんわりと断った。

「この後、母と所有がございますので……」

 簡潔に短くが親切と言うものだ。断りは長くすればいい訳になる。聞かれてもいない事を先回りしてだらだら語るのは真がない。だが田所さんの反応は違った。

「大丈夫です、父上様から許可は頂いておりますから」

「父から?」

「はい、千尋さんと少しお話がしたかったので、土産選びはそのついでです」

 思い当たる事があり、わたしは間髪いれずに問いかけた。

「実家に帰省されるのはお見合いですか?」

 田所さんは上目遣いのわたしに対し、一瞬酷く驚いた。その狼狽を隠せないまま口元が幾度か動いたのだが続く言葉に逡巡し、漸く後に一言だけ語った。

「……そうです」

 決まりが悪そうな田所さんを伺うに、わたしは出過ぎた事を言ってしまった自分の軽率さを恥じた。感情とは度し難い。

 結びついた考えを己の手柄として素直に伝えても、相手にとっては何ら益がない場合が多い。この場合は沈黙すべきだったのだ。

 田所さんは深くため息を吐いた後に立ち止まり、「ですが……」とわたしの方を向き続けた。随分と真面目な顔をしている。

「それはわたしの意志ではありません」

 きっぱりとした口調は単簡な響きで優しくもあり、また覚悟を秘めた様でもあった。わたしはどう答えるべきかわからずに沈黙した。

「珈琲茶館は不適切でした。千尋さん、わたしと散歩しましょう」

 散歩なら構わないかとわたしは小さく頷き、歩き始めた田所さんの少し後ろを再びとことこと追った。

 大きな背中だ。思えば書生をしている彼が我が家に来る様になり三年近くが過ぎていた。わたしが最初に見たのは家の廊下だった。

 角からのそりと見知らぬ背の高い男性が現れたので、思わず「きゃーっ」と悲鳴をあげしゃがみこんだ。慌てて駆け付けた父と母にオロオロする田所さんがいた。あまり良い出会いではない。

 その後、座敷で改めて紹介して貰った。快活に笑うがおしゃべりでなく、その様子に却って饒舌になる父を見て気恥ずかしさが募ったものだ。 

 田所さんは大学に通っていた。父の古い友人の息子で上京の挨拶に来たのだが、その後もちょくちょく遊びに来る。父の事業にも興味があるのか暇な時は手伝いもしているらしい。

 わたしは少し年上の男性が家にいるのはとても居心地が悪かった。悪い人ではないのだろうが、図々しい男は嫌いだ。最初の頃は田所さんが帰ると、父によく文句を言っていた。

「お前は男を見る目がないなぁ、はははは」

 度々、そんな風に笑い飛ばされる。意地になる程愚かではないが、不機嫌にはなる。母にも同じく訴えたが、「お父さんのお客様ですよ、そんな風に言うものじゃありません」と逆に叱られた。

 母がそう言うならそうなのだろう。わたしも仕方なく考えを改めようと努力した。家の中で出会うとなるべく目線を合わせず、俯きがちに会釈だけして、恥ずかしそうに立ち去る様に心がけた。

 そんなわたしの様子にも田所さんはお構いなしだった。ただし、家を訪ねる時に持って来る菓子折りの内容がどうにも変化してゆく。

 父は「気を遣うものじゃない」と言うが、「珍しかったので」と必ず手土産を持参する。その内容がバウムクーヘンにチョコレート、シュークリームにパイなどだ。当時まだ十五歳だったわたしは、悔しいが田所さんのお土産が楽しみになっていた。

「千尋さんもどうですか?」

 田所さんはわたしにそう声をかける。そしてお土産を茶菓子として一緒に頂く様になってしまった。はしたないと思いつつその誘惑には勝てず、「はい、いただきます」と食べてしまう自分の情けない食欲に、自意識が裏切られた気もしていた。

「お口にあいますか?」

 遠慮気味にわたしの反応を伺う田所さんがおかしくて、わたしは素直に答える。

「とても美味しいです。ありがとうございます」

「それはよかった。もっとおあがりください」

「い、いえ、そんなにたくさんは……」

 大柄な田所さんとは食の量が違うのだと言い返したかったが、恩もあるので我慢しておいた。こうしてわたしはそのうち田所さんがいる風景を、普通に受け入れられる様になった。

 今にして思えば随分と気を遣って貰ったものだ。それ以外にも様々な場面で田所さんは優しかった。父と馬鹿話をし、わたしの事に話題が及ぶとさりげなく気遣いをみせ味方をしてくれる。大柄で快活だが細やかな心根のある彼は、いつも玄関に脱ぐ靴は隅っこの方に几帳面に揃えて並べていた。


「少し座りますか」

 田所さんがそう言い川沿いに設置されている木のベンチにわたし達は腰かけた。並んで座ると言うのはなんだか気恥ずかしく、座布団一枚くらいの距離を置いて座った。

「見合いの話は父が仕事先から頼まれたらしいのです」

 遠慮がちに語る田所さんにわたしは薄い微笑みを返してあげた。

「わたしは次男だし、父母からすれば良縁でもあると言っていました」

 相槌をうつのもでしゃばる様なのでわたしは沈黙して聞いていた。

「ですが断るつもりです。だから一度田舎に帰り父母や兄と話そうと思っています」

「断るのですか?」

 つい驚いて声を出した後に、恥ずかしくなり頬が熱くなった。

「わたしには好いた女性がいます」

 臆面もなくとんでもない事を田所さんは口に出した。驚いた。そんなわたしの反応を愉快に思ったのか、田所さんは軽く笑顔を作り「うーん」と背伸びをしてベンチにもたれかかると、視線を大空に向けた。

「わたしの好いた人は慎ましくてかわいらしい方です。考えが顔に出やすいのか最初は煙たがられているのがすぐにわかりました。わたしもね、すっかり嫌われているのかと落ち込んだものです。まだその時は好きだの嫌いだのではなく、単純に女性に嫌われると言う事が嫌なだけの見栄っ張りでした。わたしはその人の笑顔をみたいと思った。何をすればいいかわからず、とにかく話のきっかけとして色んな所を回り、珍しい御菓子を探して届けたのです。すると最初は渋々という顔でしたが、それでもその女性は少しづつわたしに心を許した様な仕草を見せてくれるようになりました。そして気が付くと、わたしに満面の笑みを向けてくれるようになっていたんです。わたしはそれが嬉しかった。嬉しくていつもより余分に笑っていました。その日の帰りに気が付いたのです。ああ、わたしはこの女性に恋をしている。その笑顔が失われてしまう事を、こんなにも恐れていると知りました」

 穏やかに訥々と語る田所さんの顔は上気してゆき、それを聞いているわたしも逃げ出したくなるくらいに、耳までもが熱くなるのを理解していた。そこまで語った田所さんは急に立ち上がると、こちらを向き姿勢を正した。

「千尋さん!」

 わたしは自分の心臓の鼓動が激しく跳ねたのを感じた。だが同時にもう次の言葉を聞く勇気など持ち合わせていないのも自覚していた。

「わたしと夫婦になって頂けませんか」

 わたしは思わず視線を逸らし、膝の上で固く握りしめた両手をじっと見つめた。酷い女だ。こういう時に毅然とした態度も出来ない。わたしは自分が嫌になった。あらゆる思考を羞恥が追い越し、ただこの場を逃げ出したかった。沈黙するわたしを他所に田所さんは「……驚かせたようですね、すみません」と断りを入れ、再びベンチに座った。

「実は先程あなたの父上様にもわたしの気持ちを伝えております。そして『娘をやる事はかまわんさ。良い縁だ。だが千尋と二人で一度ゆっくり話してみろ。それで見合いを断ってからもう一度聞こう。それが誠実というものだ』、そう諭されました。だからわたしの気持ちをすべて貴女にお話致しました」

 そうか、もう父に話しているのだと、わたしはぼんやりと考えた。だがそこまでしか想いが及ばない。無性に母に相談したくなった。やっぱり家に帰りたい。

「少し……考えさせてください」

 沈黙の中でようやくそれだけをわたしは告げた。田所さんは「勿論です」といつもの快活さで応え、どう歩いたのか覚えてないが、わたしは家に送り届けられていた。


 部屋に戻りぼんやりとして、後に夕食を取った。父も母も特に田所さんの事は聞いて来なかった。いつも通り過ぎて却って拍子抜けし、少しだけわたしも冷静になれた。片付けを手伝いながら父が書斎へ移動するのを見計らい、母に「今日ね……」と相談した。

 母が教えてくれるには、もうすぐ大学を卒業する田所さんはうちの会社に就職するらしい。父が友人でもある彼の父親から頼まれて快諾した。ただし、彼の母親は地元に居て欲しいらしく、今回の見合いを進めたらしい。母は「女親はそういうものよ」と特に悪くは言わない。わたしもそういうものかと思った。

 田所さんの実家はそれなりの資産家と聞いていたし、父親は地元の名士でもある。兄がいて家を取る。わたしは一人娘だから婿養子が父は欲しい。願ったり叶ったりの相手らしい。

 今までそんな事を考えた事はなかった。母は「父さんの気持ちはわかるけど、最近は自由恋愛を言う人も増えて来ているから、貴女が余程嫌だったらお断りしてもいいのよ」とやんわりと言った。

 わたしとしては、自分の勝手で恋愛をして結婚するのは気持ちの上では憧れる。だけど現実問題それは傲慢でもある。だから女学校の中でも自由恋愛に憧れるはするが、結局は家の言う通りにする方が良いという考えが多い。わたしもそう思う。結婚して家庭を築くとは、自活して生きるが親子の関係を断絶するものではない。少なくとも浅はかな年齢である自分が下す判断よりも、余程世間を知った親の決めた相手の方が正しいのは間違いない。

 田所さんはよき人だ。快活で繊細な優しさがある。さらに誠実でもある。少なくとも不幸せになる自分が想像出来ない程度には、わたしも信頼を置いている。家の事を考え誰かを婿養子に向かえるのならば、父も母も好いてくれている田所さんは理想的な夫だろう。そこまで考えてわたしは彼と結婚する事が、もはや運命的にも決定事項である事実ではないかと慄いた。そう慄いたのだ。


 二日後、田所さんは実家に帰った。わたしは特に見送りに行くわけもなく、彼が我が家に挨拶に来たので「お気をつけて」とだけ伝えた。この二日間、わたしはじっくりと考えた。結論はとうに出ているのだが、気持ちの上で自分に言い聞かせる事がまだ出来ていない。

 これはわたしの性格云々の話ではない。十八という年頃のせいにした。わたしはどうしても会っておきたい人がいる。実際に会うと自分が何を想うのかはわかっている。だけど会わねばならない。そうする事で自分を言い聞かせる事が出来るはずだ。

 わたしは女学校の帰りにとある場所を目指した。芸事である。習い事をする者は多い。モダンにピアノを習う者や琴や琵琶や三味線もそれなりにいる。将来旦那様の外遊びを防ぐ為と、和楽器を習う者はどうにも見当違いだと思いながら、わたしも時折習い事に通っていた。

 その中でわたしは少し衰退気味なのだが詩吟に興味を持った。力強い歌声の中にある情景に、なんとも言えない陶酔感を抱いた。細かな節回しが中々覚えられず、「気持ちが出過ぎていますね」と柔らかく酷評されてしまうのだが、それでも楽しかった。わたしが通うのは小さな流派の私塾であった。教えるのはお師匠さんのお孫さんである良助さんだ。大学生ながら師範代である。わたしが会いたいと思ったのはこの良助さんであった。

 思い出すのは無作法な彼の態度ばかりだ。礼節に欠け、とても憎たらしいのだが憎めないずるい人だ。

 わたしと最初に会った時、彼はいきなり「お前は嘘つきだな」と真面目な顔で言った。その時は習い事を何にするかと悩む友人と見学に来ていた。

 失礼極まりないこの男にわたしは癇癪を起し、「帰ります」とすぐに出て行った。だが家に帰ってもどうにも怒りが収まらない。寝ても覚めても収まらない。それで翌日にわたしは一人で良助さんに文句を言いに行った。

「昨日の無礼を謝罪して頂きたいです」

 なるべく剣幕を起こさずにわたしは冷静に伝えた。だけど戻って来たのはもっと酷い言葉だった。

「なんだ、しつこい女だな。そんな事では結婚できないぞ」

「なっ! あなたにそんな事を言われるいわれはありません」

「ん? 冗談にそんなに目くじらを立てるな。言った俺が恥ずかしくなる」

「……あなたは人を馬鹿にして楽しいのですか? 余程性根が悪くお生まれになっているのですね」

 もうこの人には何を言っても通じない気がした。これ以上嫌味を言のも愚かしいと踵を返そうとした時だ。

「ははは、やっと普通になったな」

 笑いながら全く動じないまま落ち着いてそう言われた。

「……どういう意味でしょうか?」

 わたしは彼が何を考えているのかさっぱりわからなかった。またこれをきっかけに難癖をつけられては堪らないと、強く警戒しながら睨みつけた。

「俺から見ると君は随分と自分を抑えている様に思えた。ただそれだけだ」

「それがどうしたと言うのですか。人は少なからず自分を抑えて生きるものだと思いますが」

「もったいないんだ」

「もったいない?」

 益々意味がわからない。わたしは自分を抑えている。それは皆も同じで、むしろ全てを言わない方が美徳だと思う。なのに「もったいない」などとはどういう料簡なのだろうか。

「別に俺は西洋主義でもなんでもない。だけど古臭い頭も持っていない。これからの時代はなんてほざいている奴も嫌いだ。人は我慢し自分を抑える、それは立派だ。だけどな、哀しい顔はみたくない。お前からはそんな匂いがした。だからすこしふざけてしまった。言い過ぎだな、すまん」

 愁傷に謝られてしまい、わたしは言葉を失った。わたしが哀しい顔をしている? そんな自覚はなかったし、誰にも言われた事がない。なぜこの人にはわたしが哀しく見えてしまったのだろう。なぜそれがもったいないのだろう。わたしは益々意味がわからなくなった。

「あなたの言っている事はよくわかりません。謝罪は受け取ります。わたしも少し無礼でした。申し訳ございません」

 ふかぶかと頭を下げた。この人は変な人だ。もうこれ以上関わらないのが吉だ。そんなわたしが顔を上げると、まじまじと観察する様な視線を感じた。

「なにかたくらんでる顔だな、ははは」

「もう、また人を馬鹿にして!」

 思わず怒鳴っていたが、怒りと言うよりも呆れてしまっておかしかった。

「もう、もう、貴方って人は、変な人です」

 クスクスと笑ってしまった。わたしの負けだ。

 結局、わたしはそのままこの私塾に通う事になった。良助さんは変な人だ。だけど詩を吟ずる時は怖いくらいに真面目だった。聞いているわたしが時間を忘れる程に、その声と想いに惹きつけられる。芸術の魔性だ。

 だが、だんだんと付き合ってゆくうちにこのふざけた変な人が、わたしの中では得難い人に変わりつつあった。表面上だけを見ずに深い所を推察するに、正しい意味での愛情とはこういうものなのかとわたしは思った。

 軽口をたたく時も、真摯に詩吟を指導する時も、ふと漏らす言葉も、良助さんの一言一句は目の前の人間から決して逃げる事はない。素直とも優しさとも言えなくはないが、それだけではない含みがある。だからわたしは人としての情が広く穏やかで深いのだと思い至った。

 わたしは田所さんとの件が起こった時に、良助さんの事を考えていた。何故彼の事を想うのか自分でもよくわからない。良助さんには既に許嫁がいる。わたしは懸想するという強い想いでなく、彼に救いを求めたかった。今のわたしはどんな顔をしているのか、良助さんに言って欲しかった。もう決まってしまっている運命だが、良助さんに何かを言って欲しかった。その程度の我儘は許されていいのだと思った。わたしは愚かで嫌な女だ。

 私塾に向かう時にわたしの心持は揺らいでいた。歩く歩幅が小さくゆっくりとなる。往来の騒がしさがどんどん遠くになってゆく気がした。怖かった、寂しかった、みじめだった。わたしは自死する様な想いで一歩、また一歩と進んでゆく。今日でなくてはいけないのか、今日でなくてもいいのではないかと想い悩んだ。だが、気がつけば私塾の前に辿り着いていた。途端、戸が開かれた。

「あっ」

「……」

 わたしの姿を認めると良介さんは微笑んだ。

「いまから所用に出かけるので今日は休みだ。足を運ばせてしまい申し訳ない」

 いつもと変わらない口調。今日は珍しくスーツを着ている。何か特別な用事があるのだろう。わたしはどう返すべきか考える事が出来なかった。目の前にいる彼の、顔が、声が、仕草が、その思い出すべてが、自分の中から消えてしまいそうで怖かった。気がつけばわたしはぽろぽろと涙をこぼしていた。

「どうした、何を泣いている!」

 慌てた良助さんの声を聞けば聞く程に、わたしは涙が止まらなくなった。こんな道端で男性を前にして泣くなど恥ずかしい行為であるし、みっともない。良助さんにも迷惑がかかる。そんな理性を叩き壊す程、わたしはかまわずに涙を流し続けた。胸の奥が痺れて震え、食いしばる口元から嗚咽が漏れた。

 わたしは良助さんを見ようと思った。その姿を霞む瞳でどうにか捉え、手で目をこすり、しっかりと見ようと思った。すると良助さんが腕組みをして、怖い顔でじっとわたしを睨んでいるのがわかり、少し冷静になれた。視線が合うと「ふ~」というため息が聞こえ、「今日の君はとてもぶさいくだ」と言われた。わたしは焼け焦げてしまう程の羞恥に襲われた。


「おい、君、はやく撮りたまえ」

 良助さんが写真館のおじさんをせかした。

「へい、旦那様。……ですが、あの、もう少しお笑い頂けるとよろしいのですが……」

「構わん。俺は気にしないからはやく終わらせてくれ」

「……はぁ、では参ります、30秒程そのままで」

 最新式のドイツ製カメラを手に持つおじさんがシャッターを切る。「うちはチェリー手提暗函とは違う」などの講釈を少し拝聴したのちに、スタジオでなくわたしの希望で往来に出て写真を取る事になった。

 良助さんは仏頂面で「俺は写真はすかん」と不貞腐れたが、かわりにわたしは上機嫌だった。隣に立つ良助さんは無造作にポケットに手をつっこみ、不機嫌そうにカメラを睨んでいる。見慣れないスーツ姿がとても凛々しく感じられた。高価な写真撮影を通りの人々が少し物珍し気に眺めているが、気にしない。

 涙を流していたわたしが、どうにか冷静になって漏らした言葉が「一緒に写真を撮りたいです」だった。我ながら驚いた。良助さんも驚いた。だが彼はいつもの饒舌さがなりを潜め、不機嫌に「わかった、来い」とすたすたと歩き始めた。

 わたしは泣きはらした顔をごしごしとこすり、急いでその後ろ姿を追った。しばらくしてわたしは恐る恐るその後ろ姿に「所用は……」とだけ声をかけた。良助さんは振り返らずに「構わん」と短く言い、その語気にわたしはたじろいだ。だが同時に嬉しくもあった。それ以外の会話を交わさずに、わたし達は無言で歩き続けた。

「……では一週間後にお越しください」

 写真館の中で撮影後に現像した写真を受け取る控えを頂き、支払いを良助さんが済ませた。「お支払いはわたしが致します」と言うと、「恥をかかすな」とだけ言われた。相変わらず語気が荒い。わたしも「そうですか……」としか答えようがなく、御礼を言うのさえも気が引けた。   

 その場を辞し私塾に戻る傍らだった。相変わらず無言で前を歩く良助さんが少し速度を緩めてわたしと歩調を合わせた。

「何があった?」

 視線を合わさずに前を向いたままだった。もう語気は荒くはなかった。わたしはどう話すべきか迷った。いや、この期に及んでは、正直もう話さなくてもいいとさえ思えた。それはとても失礼な事だが、奇妙な意地の様なものがわたしの胸中に湧き上がる。もう十分だと思い、わたしは黙っていた。

「今日の君はぶさいくだ」

 再び良助さんが言った。わたしは「……はい」とだけ、消え入りそうな声で相槌を打った。

「何を思い詰めているのかわからないが、逃げるな。女性とは強くてしなやかな生き物だと俺は思う。今の君は弱く、そして強張り、ぶさいくだ」

「……そう何度も言われると腹が立ちます」

「構わないさ」

 少しだけ、ほんの少しだけ良助さんの口元が緩んだ気がした。隣で見上げるわたしは安堵した。気が付くと良助さんの上着の袖をつまんでいた。

「お、おい……」

 良助さんは戸惑ったがわたしは「少しだけ……」とぼそりと言った。そのまま私塾に戻り、わたしは良助さんに、今日で詩吟を習いに来るのを辞める事を伝えた。彼は何も理由を問わず「そうか」とだけ言い、わたしは「お達者で」と挨拶をした。

 十日程過ぎた後に良助さんから手紙が届き、そこにはあの時の写真が納められていた。手紙には短く「焼き増しさせて頂いた」とだけ書かれていた。

 わたしの頬に涙がつーっと流れた。息苦しくなり、手紙を胸に抱き天を仰いだ。悲しくはなかった。嬉しかった。こんな事を想うと罪悪感を感じてしまうが、わたしは嬉しかった。もうそれでよかった。ぺたんと部屋の中で座り込み、それから一時、わたしは声を殺して泣いた。震える身体の奥に残るものを、ただ愛おしんでわたしは泣いた。抱きしめた手紙がわたしの知らない重さになった。とめどなく流れる涙がわたしの視界を塞いだ。沸き起こる想いがわたしのこころを満たし、見て見ぬふりなど出来ぬほどに、鮮やかに透き通り、温かくて切なく身を震わせた。わたしという想いが、この世界で満遍なく生きているのだと、この時初めて知った。きっとそれは生涯、わたしの胸の奥にそっと残るものだ。

 薄く夕闇が広がる中で、わたしは一人で泣いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千の詫び 福山典雅 @matoifujino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画