西胡の馬

春乃ヨイ

西胡の馬

 庭菊ていぎく黄を翻し玉露色濃き秋の頃、洛雪るおしゅえはひとり紅提灯の連なる歩廊を歩いていた。

 足を一歩進めるごとに水晶の簾が微風に揺れ、妃嬪ひひんたちの焚く白檀の香りが鼻腔をくすぐる。

 後宮のさざめきも遠くに聞こえるほどに幾重にも重なった帳の奥の奥が胡妃こひの住まう一画だった。


 その号が示す通り、胡妃は西方から嫁いできた妃である。

 とう王朝は馥宗ふくそうの時代、血気盛んな若き皇上は西域への遠征を繰り返していた。弓馬を自らの半身の如く巧みに操るイル族は長らく陶の脅威であったが、此度の遠征で馥宗はついにイルを支配下に置くに至った。

 王と王妃は戦禍で命を落とし、最後に一人残った王女を連れて都に凱旋した馥宗は彼女を後宮へ入れ、豪奢な一室を設えさせた。皇帝の傾寵のほどは衆人にも明らかで、ともすれば早朝の政務すら疎かにするほどであった。


 馥宗は異国の妃の類まれなる美をその手に留めおきたいと願った。そこで、洛雪に胡妃の絵姿を描けとの命を下したのである。宮廷には他にもお抱えの画師がいたが、悋気深い皇帝は胡妃を後宮の外に出し、画師とはいえ他の男の視線に晒すことを良しとしなかった。宦官である洛雪ならばその懸念もないだろうというのが馥宗の宸慮しんりょであった。


 洛雪が初めて目にする室内はあらゆる贅を凝らしたつくりになっていた。

 赤い絹の帳には金糸で鳳凰が紡がれ、白磁の香炉からは麝香じゃこうがなよなよと立ち上る。足元には獣の一枚皮の敷物が敷きつめられており、その上に玉の琵琶が無造作に放り出されている。黒檀の寝台の上には刺繍の掛け布団と錦の床敷が置かれ、その上に胡妃は腰を下ろしていた。

 紅塗りの花窓の外を眺めていた胡妃は洛雪が足を踏み入れると同時に身構えるようにこちらを振り向いた。


「尚芸局から参りました、洛雪と申します。陛下から胡妃様の御絵を仕上げるよう賜っております」


 黒い官服の両袖を大きく払ってその場に膝をつき、胡妃からの言葉を待つ。しかし洛雪の耳に響いたのは、鈴の音のような軽やかな声で紡ぎ出される聞き馴染のない音の羅列だった。


「お待ち下さい、言葉が分からぬのです」


 陶に来てから幾何か経ち、ある程度は胡妃も陶の国語である陶音とうおんが分かるのだろうと思っていたが、思いのほか言葉が通じない。宮中にはイル語を解す人間はおらず、通辞を期待することもできない。

 見知らぬ人間の来訪に警戒心を強める胡妃を前に、洛雪は一先ず自分が何をしに来たのかだけは伝えねばなるまいと思った。


 持参していた画布を広げ、その上で絵筆を動かす真似をして見せる。およその意は解したのか、胡妃は関心を失ったように再び花窓の外に目をやった。拍子抜けしながらも絵筆を握り直した洛雪はすぐに下絵に取り掛かる。画布を文鎮で押さえて墨をその脇に置くと、洛雪はそこで初めて胡妃の横顔をまじまじと見つめた。


 象牙色の肌は玉を磨いたように滑らかで、頬は濡れたようにつややかに照っている。細く高い鼻梁や、線を描いたようにくっきりとした二重瞼は西方の血を思わせる。粉黛ふんたいを凝らした後宮の妃たちとは違って化粧はほとんどしておらず、濃い眉と珊瑚色の唇が目を引く。

 肌の白さに映える漆黒の髪は結わずに流れ落ちるままにしていた。寝台の横には皇帝が贈ったのであろう翡翠の櫛や黄金の簪がそのまま放置されているが、柔らかな耳朶には見慣れぬ意匠の真珠の耳飾りを付けている。


 しかし、何より印象的なのはその瞳だった。外を見つめる胡妃の瞳は真夏の青空を映したかのような深い紺碧こんぺきをしていた。


 顔の輪郭を辿るために頬に掛かった横髪をよけてくれと言おうとして、洛雪は言葉が通じないことを思い出した。仕様がないのでその場を立ち、胡妃の髪に触れようとした瞬間、ぴしゃりと強かに手を叩かれた。不機嫌そうに寄せられた眉根の下で、青い瞳の中の瞳孔が猫のように広がってこちらを威嚇してくる。


「失礼いたしました」


 宦官である以上、着替えや髪結いのために妃の体に触れる機会は自ずと多くなる。彼女たちも今更それを何とも思っていないために思わず体が動いてしまっていたが、余りに考え無しだった。洛雪は慌てて手を引っ込めると、上半分を団子に纏めて残りを垂らしたままの自分の髪の先を摘まみ、それから胡妃の黒髪を指さした。


「髪」

『……イシャ?』


 恐らくイル語で「髪」を意味する言葉なのだろう。どうにか会話の糸口を見つけ、洛雪は陶音とイル語を続けて言いながら手で自分の髪を後ろにやる仕草をする。胡妃もまた、少し遅れて自分の横髪を耳に掛けた。



 ……



「座る」

『グマルハー』

「あなた」

『サエスメ』

「前」

『メスルヤラ』


 それから、洛雪は胡妃のもとを訪れる度に一つか二つほど陶音を口にし、それに胡妃がイル語で答えるようになった。洛雪が下絵を描く間、胡妃は大抵花窓の外を見つめていた。

 絵を描くのに正面を向いていて欲しいと何度伝えても、彼女の瞳は吸い寄せられるように外へ向いてしまうのだ。


「あなたにも、ここを出て行く場所など他にないでしょうに」


 微かに首を傾げてこちらを向いた胡妃と目が合って初めて、洛雪は自分が思わずそう呟いていたことに気が付いた。


「何か見えるのですか」


 発言を取り消すかのように急いで言葉を重ねて立ち上がる。熱心に何を見ているのかと胡妃の後ろから窓を覗き込むと、所々にまめができた細い指が一点を指し示した。

 その先に、皇帝の住まう殿舎の側に建てられた厩舎があった。幾人かの宦官が桶を手にしてくびきに繋がれた栗毛色の馬の世話をしているのが見える。


「こちらでは馬、と申します」


 洛雪もまた陶音で応えた。

 しかし、胡妃は洛雪の言葉が聞こえなかったかのようにそのまま窓の外を眺め続けている。馬が好きなのかと尋ねようとしたが、その言葉をどう説明して良いのかが洛雪にはどうしても分からなかった。



 ……



「私」

『ヤー』

「手」

『アトーダ』

「本」

『パスラタパ』


 洛雪が後宮の外に出るのは数年ぶりだった。

 外朝の蔵書寮には後宮にはない書籍も多く所蔵されており、絵を描くのに必要だからと申し出ると易々と通行許可が下りた。

 後宮より華麗さには欠けるものの、太い柱や高い天井に描かれた金装飾などが威厳を醸す外廊を小股で歩きながら、洛雪は周囲の視線が自分に注がれているのを感じた。中には洛雪と面識のあった者もいるのだろうが、誰一人として話しかけてこようとはしなかった。


 久方ぶりに目にする蔵書寮はかつてと同じ姿を保っていた。

 天井の高い楼閣の上まで伸びた書棚には隙間なく冊子や竹簡が並び、揃いの官服を身に着けた文官たちが蔵書の中に埋もれるようにして作業を行っている。

 洛雪もまたイル族について書かれた文書を取り出し文机の一つに腰掛けようとした時、一人の文官が茶器を洛雪の前に差し出した。礼を言って磁器を受け取った洛雪は、杯の唇を付ける箇所が欠け落ちていることに気が付いた。くすくすと微かな含み笑いが遠巻きに聞こえる。

 後宮に入ったばかりの頃、欠けた茶碗を出してしまって当て付けかと上職に手酷く打ち据えられたことを洛雪は思い出した。

 「欠ける」という言葉が宦官にとって最大の禁句であるということを知ったのはその後のことだった。


 今更傷つけられるほどの名誉も誇りもありはしない。


 茶器をその場にそっと置き、洛雪は手にした冊子を広げた。西域との外交に関する文書だった。擦れかけた墨で書かれた文字列の中に、馬という言葉があるのに目を引かれる。

 胡妃の生まれ育ったイル地方は名馬の産地として知られており、前王朝の皇帝にも献上されたことがあるという記録だった。イルの馬は一日に千里を駆け、つやつやとした黒い毛並みは青く見えるほどだったという。


 馥宗が初めて胡妃を目にしたのは馬上だったという話だ。

 弓を片手に戦場を駆けていた王女を皇帝は見初め、最後まで武装を解かなかった彼女を降伏させた。胡妃の愛馬がその後どうなったのかは知らないが、きっと絹織物のように艶のある見事な青馬を駆っていたのだろうと思った。



 ……



「花」

『シャラーブル』

「お許し下さい」

『ミカルディナ』

「水」

『アウムダ』

 

 下絵に彩色するには胡妃の顔に化粧を施す必要があった。

 普段は決して妃の化粧をしたがらない洛雪だが、此度ばかりは絵を描くのと同じ要領だと己を納得させる。画材と共に扇型の化粧箱を取り出すと、胡妃の物問いたげな視線が注がれるのが分かった。箱の表面には薄衣を纏った仙女の姿が螺鈿らでんで描かれており、蓋を開けると色とりどりの顔料が並ぶ。


 洛雪は紅を何色か自分の手の甲に取った。茶色がかった濃い赤色から青みがかった桃色まであるが、胡妃の象牙の肌には僅かに黄色が入った明るい朱色が似合うだろう。

 紅を筆にのせて胡妃の顔に近付けると、勢いよく身を引かれてしまった。洛雪がそれまで使っていた絵具だと勘違いしているのだろう。イルにも化粧の文化自体はあるはずだ。そう考え、洛雪は胡妃の前に差し出していた筆を引き戻し、甲に残った同じ色の紅を指で取って己の唇にのせた。

 洛雪の意図に気が付いたのか、胡妃も今度は大人しく顔を差し出した。


「もう少し、上を向いて頂けますか」


 顎に軽く指を添え、微かに開いた唇に筆を走らせる。

 形の良い唇が、花が開いたかのようにふんわりと色づいた。少しはみ出た部分を指で拭い、次に金色の粉末を筆に取る。

 胡妃の閉じた目には力が入っているのか、長い睫毛が微かに揺れていた。目の上の窪みに扇型に粉を塗ると、きらきらと雲母のような輝きだけが残った。目の際には茶色の線を入れる。昨今の後宮では頬や目尻に紅をのせ、酒に酔ったかのように見せるのが当世風とされるが、胡妃のはっきりとした目鼻立ちには似合わない。頬には何も塗らず、目尻にすっと翠色をのせるだけに留めた。


 瞳を閉じたまま動かない胡妃の姿は、洛雪がかつて触れた冷たい顔を否が応でも想起させた。知らず指に力が入ってしまっていたのだろう。胡妃が目を開けた。紺碧の瞳が不思議そうに揺れている。

 洛雪は急いで化粧筆を仕舞い込み、画布に向き合った。その日はいつにも増して言葉数が少なかった。


「胡妃様、陛下がお召しです」


 女官の声がかかり、洛雪は顔を上げた。彩色に夢中になるあまり、気付けば窓の外には夜の帳が降りている。

 普段は夕暮れ時には胡妃のもとを辞しているため、皇帝に遣わされた宮女に鉢合わせすることは今までありはしなかった。宮女はちらりと洛雪の方を向いてから、すぐに胡妃に立ち上がるよう促した。


「お待ち下さい」


 洛雪は手巾を水で濡らし、胡妃に差し出した。一瞬の間の後、胡妃は手巾を顔に押し当てて化粧を拭い取った。

 己が彩った胡妃の姿を閨で待つ皇上にだけは見せたくないと、洛雪は何故かそう思ったのだ。



 ……



「夜」

『ルヴァハラ』

「立つ」

『デザヤラハータ』

「やめる」

『ニザーバル』


 次第に夜の訪れが早くなり、曇り空にはちらちらと白いものが混じるようになった。霜の降りる朝はぐっと冷え込み、容赦なく体温を奪う。

 画材の整理をしようと白い息を吐きながら外廊を渡っていた洛雪はふと、胡妃の房室の方に目をやった。中庭を挟んで見える格子窓の向こう、目の高さに腰紐の先が揺れているのが見えた。


 瞬間、洛雪の喉がひゅっと鳴った。


 手にしていた画材が床に当たり、陶器が割れる鋭い音が背後から聞こえる。何事かと他の宦官たちが顔を覗かせるのにも構わず、洛雪はその場を駆け出していた。



『ふわり、と記憶の中で赤い衣の裾が舞った。


 ――兄上!


 くるりくるりと少女が回る度に、牡丹の髪飾りが揺れて羽衣が揺蕩う。

 綺麗だよと声を掛けると、兄上の言葉は信用できませんと翠仙ついしぇんは頬を膨らませた。それでもすぐに、鴛鴦おしどりの刺繍の入った衣装を摘まんで、幸せそうに顔を綻ばせる。


 たった一人の家族だった。

 父母は幼い頃にこの世を去り、兄である洛雪が父のようにして育てた妹だったのだ。

 好いた男のもとに嫁がせるというのに、他の年頃の娘に引け目を感じさせるようなことはしたくなかった。幸い、宮廷画師の職は給金に困ることはなかった。仕立てたばかりの婚礼衣装は晴れの日を待ちきれないように春空に照り映えて見えたのだ。


 ――婚礼の日は兄上に化粧をして頂きたいのです。


 他の女性に頼んだ方が良いと諭す洛雪に、兄上が一番お上手ですものと翠仙は笑って言った。


 宮中では丁度春の宴を目前に控えた時節であり、彼もまた大屏風の修繕に駆り出されていた。日夜宮中に詰めてばかりいたせいなのだろう。全てを知ったのはあまりにも遅くなってからだった。

 外朝に女官として出仕していた翠仙の姿をある日馥宗が目にしたとしてもおかしくはなかった。そして、一度下された皇帝の命を取りやめさせることのできる者などこの世には誰一人としていなかったのである。


 十数日ぶりに休暇を貰って家へ帰ると、珍しく翠仙が出迎えに来なかった。夜も遅く、既に眠ってしまったのかと布団を覗くが、冷え冷えとした寝床には人の気配がない。出掛けているにしても遅すぎると家中を探して歩いていると、ゆっくりと動く影が視界に入った。


「翠仙?」


 暗闇の中、場違いに赤い婚礼衣装の裾が風に吹かれて揺れた。


 高い天井の梁に帯を掛け、ゆらりゆらりと揺れる体は以前よりも遥かにほっそりとして見えた。

 傍らに置かれた文には、後宮に入れという皇帝の命を拒絶した己のせいで兄にまで累が及ぶことを謝る言葉が繰り返し書きつけられていた。翠仙はその死に際しても恨み言の一つも口にはしなかったのだ。


 婚家になるはずだった家の方でも子息が縊死しているのが見つかったという。


 翠仙の死化粧を済ませて赤い面紗を掛け、その体を棺に入れたところで、役人が大勢家に押しかけて来た。洛雪も死罪くらいは覚悟していたのだ。しかし、彼に言い渡されたのはそれ以上に恥ずべき刑だった。


 既に男でも女でもなくなり果てたその身に宿す望みなど最早なく、ただ絵画への執念だけが残った。


 そうして今でも、洛雪は一人おめおめと生き残っている』



 後ろから洛雪に引っ張られ、均衡を崩して倒れ込んだ胡妃の体を下敷きになる形で受け止める。


「お願いです、それだけは、あなただけは、やめてください、お願いですから」


 血相を変えた洛雪の剣幕に、胡妃は自分が叱られていると思ったのだろう。弱々しく謝罪の言葉を口にする。


『ミカルディナ』

「そうではないのです――」


 続く洛雪の言葉に、胡妃は分からないとでも言いたそうに首をふるふると振る。

 彼女が陶音を解したところで、さほど意味はなかっただろう。当の洛雪にさえ、自分が何を口走っているのかなど分からなかったのだから。


 不意にぐいと頭を掴まれた。両頬を手で挟まれ、額に胡妃の髪先が当たる。目に映ったのは吸い込まれるように青い瞳だった。悪夢でも見ていたかのように取り乱していた心が胡妃のもとに引き戻されるような心地がした。


「すみません、もう大丈夫ですから」


 息を落ち着けて周囲を見渡すと、寝台を窓辺まで引きずった跡が見えた。衣擦れの音をさせて上体を起こすと、胡妃は窓の外を指さした。

 身振り手振りを交えたイル語によると、いつも見ている厩舎に馬の姿がないため気にかかり、遠くまでよく見ようと思って天井付近にある明かり取りの隙間に手を伸ばしたのだという。


「ああ、冬ですから殿舎の中に仕舞われたのでしょう。また春になれば戻って来ますよ」


 無理矢理寝台に上って外を見ようとするなど、いかにも胡妃らしいと笑おうとして、洛雪は仕損じた。


 今にも泣き出しそうな表情で顔を歪める洛雪を見て、胡妃は赤子を宥める様に再び背中に手を回した。


 その日洛雪が自室に戻った後も、服からは微かに花の香りがした。



 ……



「寒い」

『ロバルベ』

「足」

『グリネータ』

「雪」

『ディターニア』


 シュエ、と胡妃が洛雪を指さして言った。


 一呼吸置いてから、それが自分の名を示しているのだと気づく。

 初めて会った日に名乗って以来の名を未だに胡妃が覚えているとは思っていなかった。火鉢の置かれた帳の中は暖かく、庭園を一面の白に染め上げる雪だけが窓の外に見える。


「ええ、雪が降る日に生まれましたので」

『シャエルシーバ』


 続けて胡妃が口にする。何を意味しているのか首を傾げる洛雪に、胡妃はじれったそうに再び繰り返す。


『ヤー、シャエルシーバ』


 そこで初めて、それが胡妃の本名なのだと理解した。

 皇帝に娶られて以来、どんなに求められても胡妃は頑なに自身の名を口にしなかったと聞いていた。


『シャエル』


 洛雪が言葉を教えるように胡妃が厩舎を指さす。恐らく、今はそこにいない馬を示しているのだろう。


『シーバ』


 空を指し、洛雪の横に置かれた絵具を指し、そして最後に己の瞳を指さした。その動作が意味することは明白だった。


「青い馬」


 こくり、と胡妃が頷いた。シャエルシーバ、と洛雪は口の中で転がすようにして繰り返す。その名は何よりも胡妃に似合っているように思われた。



 ……


「雨」

『トキエラ』

「鳥」

『アルパム』

「おやすみなさい」

『ヤフユムディ』


 絵の完成は目前に迫っていた。しかし、一か所だけどうしても上手く描けないものがある。

 胡妃の瞳だ。

 藍を煮だしてもはなだを絞っても、貴重な鉱石を幾ら砕こうともその青色がどうしても表現できない。

 澄み渡る夏の蒼穹を写し取る以外に、胡妃の紺碧の瞳を地上に表すことなど不可能のように思われた。


 来る日も来る日も幾つもの青色を小皿に広げては洗い流す洛雪の姿を眺めていた胡妃は、しばらくして首元から何かを外した。牛革でできた簡素な首飾りの先には綺麗に研磨された瑠璃石が付いている。


『ラジャワルド』


 深い青色の表面には金色が斑に入り、星空のように輝いていた。西域の限られた山岳でしか採取されない鉱物で、都にはほとんど流入せず金と同等かそれ以上の価値を持つ。そして何より、この瑠璃石は胡妃が故郷から持ってきたものなのだろう。


「……よろしいのですか?」


 おずおずと尋ねると、胡妃は迷わず洛雪の手の中に瑠璃石を握らせた。


 乳鉢に石を入れ、鉄の棒で小さく砕く。瑪瑙めのうを使ってさらに細かく磨り潰すと、出来上がった粉末の一部を小皿に乗せる。粉ににかわを混ぜ、丁寧に練ってから筆に取る。筆先を画布に押し当てるようにして色を付けていく。瑠璃色は、一寸の狂いもなく胡妃の瞳を描き出した。

 止めていた息を吐いて顔を上げると、ぐいとこちらに身を乗り出した胡妃の同じ色をした瞳が洛雪を捉えた。


「出来上がりました」


 洛雪の言葉に、胡妃はにっこりと微笑んだ。

 この絵姿は完成し次第すぐに皇帝に献上しなくてはならない。皇帝が絵をどうするつもりなのかは知らないが、きっと胡妃の手元には何も残らないのだろうと思うと、洛雪は無性に我慢ならない心地がした。


 小皿に残った粉末を筆に取ると、寝台の横に置かれた屏風へと歩みを進めた。

 山林の手前に広がる湖に浮かんだ孤船に一人の老人が乗った、古風な水墨屏風である。洛雪は筆を構え、その中に湖の水を飲む瑠璃色の馬を描き加える。その上から黒い顔料を重ねると、微かに青みがかった艶のある毛並みに仕上がった。


『シャエル』


 胡妃が童子のように声を弾ませる。


「紛物で申し訳ありませんが」


 肖像が完成してしまえば、もう胡妃に会うこともないだろう。

 片や皇帝の寵妃、片や元罪人の宦官。胡妃が陶音を口にすることは結局一度もなかったが、やり取りは以前よりも遥かに容易になっている。恐らく、自ら話そうとしないだけで聞き取ること自体はできているのだろう。彼女にはそれだけの聡明さがあった。


 自分がおらずとも、胡妃はこの国で上手くやっていけるはずだ。そう心に言い聞かせて、洛雪は胡妃のもとを辞した。



 ……



 完成した絵を携えた洛雪は王宮の広間に通された。王宮に立ち入ったのはこれが二度目である。大理石の太い柱の立ち並ぶ宮殿は死のような静けさに満ち、洛雪の靴の底が鳴らす音だけが辺りに響く。

 玻璃の玉座の上に、若き皇帝は坐っていた。精悍な顔つきは広大な国を治める王としての威厳を湛えているが、洛雪を見下ろして微かに細められた瞳は尊大さに満ちていた。


 洛雪は無言のまま、両腕に抱いていた肖像を木枠に立てかけた。

 絵を覆っていた白布を取り払うと、声にならない感嘆の声が沸き起こった。周囲に居並ぶ役人たちは噂に聞く胡妃とはこれほどまでに美しいのかと溜息を漏らし、或る者は余りの麗しさにそれが洛雪の創り出した虚像なのではないかと疑った。肖像が真実胡妃を描き出しているかどうかを知っているのは皇帝と洛雪だけであった。


「見事だ」


 しばらくの沈黙の後、馥宗はそう口にした。皇帝からの直截な賛辞に周囲にどよめきが広がる。

 実際、洛雪の手掛けた肖像はよくできていた。そして、余りにもよくでき過ぎていたのだ。


「だがな洛雪、汝は余の財に手を出した」


 その肖像は胡妃の全てを掌握しているはずの皇帝でさえも目にしたことのない姿を描き出していた。数多の戦士を束ねる女王の如き凛々しさと、西の果てにおわすという西王母の如き慈悲深さ。どこまでも図り知れぬ神秘性を持ちながら、幼い子供のような純粋さを秘めたその姿。どれだけ褥を重ねようとも常に刃のような鋭い瞳で馥宗を拒絶する胡妃の姿はそこにはなかった。

 そして、そのことが偉大なる皇帝の自尊心をいたく傷つけることになるであろうことを洛雪は既に知り過ぎるほどに知っていた。


「故に余はここに裁定を下す。二度とその目に我が妃の姿を映すことが出来ぬよう、汝の両の眼を焼く」


 広間に動揺が広がる。しかし、すぐに皇帝の両脇に控えていた武官が洛雪の両腕を捕らえた。最早抗う気にもならなかった。

 この世で見るべき美しきものは既に見終わった。そう確信して静かに瞳を閉じた時だった。


 甲高い馬のいななきが聞こえた。


 宮殿の前に広がる広大な石畳の上を一頭の馬が闊歩していたのだ。黒々としたたてがみは歩みを進める度に揺れ、青黒の毛並みが陽光を受けてつややかに光り輝く。広大な草原を歩むかのような若々しい駿馬の上に、一人の女が乗っていた。


 長い髪を頭の上で一つに結い上げ、白い髪紐が仙女のように風にたなびく。

 奢侈に溢れた皇宮の中では不釣り合いなほどに堂々としたその姿に、王宮中の人間は目を奪われた。


『シャエルシーバ』


 小さく呟かれたその言葉に、馬上の人影がこちらを振り向いた。

 馬の腹を軽く蹴ると千里を駆ける名馬はいきり立ち、そのまま広間に疾走してきた。磨き上げられた大理の床に固い蹄の音が反響する。

 高官たちが為す術もなく広い王宮の中を逃げ惑う中、人馬は迷うことなく一直線に洛雪の前まで走り抜けた。


「洛雪」


 上体を横に倒した胡妃がこちらに腕を伸ばす。

 主人の意を汲みとったかのように馬もまた背を下ろした。洛雪もまた導かれるように手を指し伸ばす。瞬間、ぐいと体が引き寄せられ、洛雪は馬の背に足を掛けた。突如重みを増した背中に馬が激しくいななく。

 胡妃は玉座をちらと見やった後、馬の首を描き抱いて何事かを呟いた。馬は鼻をならし、再び高く前脚を上げる。イルの言葉とは馬と一心同体になるための言葉なのだと、その時洛雪は理解した。


 外朝を守る警備たちが次第に周囲に集まって来る。

 胡妃は洛雪の横に立っていた武官の背から奪い取っていた弓と矢筒を手に取った。片手で矢を三本取ると、もう片方の手に構えた弓につがえる。あぶみも鞍も手綱もないというのに、足の動きだけで馬を制御しながら、シャエルシーバは矢を放った。

 三本の矢は一寸のぶれもなく、こちらに駆けて来ていた武官のうち先頭の三人に突き刺さった。

 馬上で弓を構えたシャエルシーバの姿はまさに、戦場を駆け抜ける戦の女神のようだった。休む間もなく矢を射続ける彼女に圧されたように武官たちは後ずさり、人馬は王宮の外に躍り出た。


 後ろを振り返ると、玉座から半ば立ち上がった皇上が足元に落ちた肖像を手にしていた。その絵姿はどこまでいっても胡妃の幻影に過ぎなかったのだろう。洛雪の眼に映るシャエルシーバの姿はそこにはなかった。

 既にこの世に生きる意味を持たぬはずの自分が再び筆を執るのならば、その理由は彼女にあるのだろうと洛雪は感じた。


 ぐいと袖を引かれ、洛雪は前を向いた。紺碧の瞳が洛雪の視界を奪い、すぐにはるか遠く彼方を望む。


 そうして、二人を乗せた青馬は日の沈む西方へと駆け出したのだ。

 


 ……



 後日、ほとんど手の付けられていない胡妃の房室から一台の屏風が見つかった。

 古ぼけたその屏風には、湖水とその水面に浮かんだ孤船に乗る翁しか描かれていなかったという。

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西胡の馬 春乃ヨイ @suzu_yoshimi

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