第12話
十二
鰯雲の浮かぶ空が、不自然に赤かった。時刻のせいだけはない。略奪のついでに、あちこちが放火されているのだろう。
雷梧たちが、並木のある街道に出た途端。
「どこへ行く気だ、雷梧」
聞き覚えのある声に驚き、振り向く。
「宇文平……お前たち、何故ここに」
そこにいたのは、宇文平と、費賢登、縻刻、それに王金鹿と方翔だった。五人とも、返り血がついている。
「まさか、店の人たちを殺したのは」
雷梧の問いかけを手で制して、宇文平は頷いた。
「ああ、邪魔だったからな。それよりなあ」
なぜか、口調が横柄になっている。
「いつもは略奪を禁じておいて、自分では女を、しかも二人もか。予想通りだが、実際に見ると腹が立つぜ」
吐き捨てるように言われた。内容は正しい。
が、これまで礼儀正しかった宇文平が、なぜ。理由が思い当たらない。
宇文平が、毒蛇のような目で笑った。
「教えてやろうか。ガキの将軍なんか、すぐ死ぬと思っていたんだよ。副将に志願したのは、後釜を狙っての事さ。――ところがどうだ、悪運が強くてなかなか死にやしない。潼関攻めの日も、うまく孤立させたのに、手柄を立てて戻って来やがったし」
何と言うことだ。
宇文平はじっと、自分が死ぬのを待っていたのか。
安禄山に欺かれたときより、こたえる。胃の中を全て吐き出したい気分になった。
宇文平が、王金鹿と方翔を指さす。
「こいつらが見ていたんだよ。以前おまえが、あの酒場にいったのをな」
なるほど、この二人は本職の密偵だったようだ。先日、安禄山が妙な配慮をしたのも、彼らの工作に違いない。雷梧は今になって気付き、唇を噛んだ。
「理由を知りたいか? その胡姫は、俺たちも狙っていたからさ。宇文平がいれば、店を襲うのも楽だからな」
左端で、小柄の方翔が笑う。この上なく下卑た笑いだった。
つまり、利害の一致した彼らは、結託して罠を張っていたのだ。雷梧の怒りは、もう抑えきれないところまで来た。
沙維羅が、雷梧の腕にしがみつく。
「何を言ってるの、この人たち。あなたは唐の将軍でしょう?」
宇文平が、愉快そうに笑う。
「そう、それも見ていたぜ。お前が勝手に敵になってくれて助かるよ。上官殺しは、誤魔化すのが面倒なんでな」
宇文平が手を振り上げると、他の四人が刀を抜き、横に広がった。夕陽を刃に光らせて並ぶ様は、少し美しくすら見える。
沙維謝が、雷梧の腕から剥がすように妹を引き寄せた。二人とも、雷梧を心配そうに見ている。
雷梧は、自分の軽率さを悔やんだ。
しかし、決意はすぐに固まる。
「僕はもう、軍人じゃない。ただの雷梧だ。――向こうに僕の馬がいる。二人とも、それで逃げろ」
後方を指差すと同時に、雷梧は横列の左端へ飛び込んだ。油断していた方翔を、一閃に切り捨てる。
振り向くと、沙維謝が妹の手を引いて走っていた。しかし、回り込んできた王金鹿に抱き留められてしまう。
雷梧は助けようとしたが、費賢登と縻刻の二人が、並んで体当たりをして来た。
避ける間もなく、地面に倒される。が、雷梧は同時に費賢登を刺す。そして立ち上がりざま縻刻を斬り、大きく突き飛ばした。
宇文平が、薄笑いを浮かべながら姉妹に近づいていた。そして沙維謝の上着を捲り、露出の多い肌に驚喜している。
雷梧は剣の血を振り払い、駆けつけた。
巨体の王金鹿が、突進してきた。雷梧はその勢いに交差させて、腰へ斬撃する。
大男が倒れた。
「き、金鹿!」
宇文平が、動きを止めた。その隙に、姉妹が走り出し、雷梧の後ろに隠れる。
「ふん、少しは強くなったな。だが、俺には勝てんぞ」
宇文平は、邪悪な笑みを見せた。
確かに、彼は雷梧の師である。手合わせで勝てた事は、一度もない。
自分一人なら、逃げるのはたやすい。
どうすべきか。決意したはずの天秤が、激しく揺れた。
「きゃあっ」
悲鳴に振り向くと、いつのまにか費賢登と縻刻が回り込み、姉妹を取り押さえている。
何てことだ。
無意識に、手加減をしていたらしい。ずっと連れ添った部下を、本気では斬れなかったのだ。
まずい。
宇文平が、剣を抜いている。
いや、剣ではない。鉾先のような、ごつい匕首。
「火抜帰仁のだ。憶えているだろう。あの後、俺がもらっておいた」
雷梧の首筋に、つららを当てられたような冷たさが蘇る。
「ありがたくいただくぜ。色っぽい舞姫と、裏切り者の首を」
宇文平がにじり寄る。
突然、やけに野太い悲鳴がした。振り返ると、沙維羅を押さえた費賢登だった。
「う、馬だ! 闇鵬だ!」
本当だ。愛馬が、宵闇の向こうから突進して来る。手綱を結んだ焦げ柱が、折れて引き摺られていた。
真っ青になった費賢登が、沙維羅を放して逃げ出す。
闇鵬が大きく跳んだ。走っている費賢登の上に着地する。大量の血が飛び散った。
更に闇鵬は前肢を跳ね上げ、もう一人を蹴飛ばす。縻刻は動かなくなった。
沙維謝が妹を連れて、走り出す。
「くそっ、まずいな」
狼狽したのか、宇文平が背を向けた。
雷梧は、剣を強く握る。女が欲しいのでは、もうない。間違いもしたが、今、やるべきことは一つだ。
宇文平に迫り、腰斬。
しかし、巻かれていた革帯に負け、剣は止まった。
「このやろう!」
宇文平が振り向き、刺突してきた。
間に合わない。
剣を捨て、匕首をつかむ。
だが、押し込む宇文平の膂力が勝り、刃は鎧の小板を突き抜けた。更に皮膚を破り、腹の中に入ってくる。
その圧力が、冷たい。
「ぐ、ぐ……」
しかし、こんな時なのに、雷梧はとても晴れやかな気持ちになるのを感じていた。
自分にできる事を、精一杯やっている。
それによって自由になれる人がいる。
喉に大量の血がこみ上げながらも、雷梧は笑顔になっていた。
急に、後ろへ倒れた。
蹴倒されたようだ。
宇文平が嗤いながら、砂を蹴る。それが目に入った。
宇文平と、その向こうの夕陽が消える。
もう、どこも痛くはない。ただ、ひどい眠気が襲って来る。
だめだ。もう少しだけ、力を。
天よ。
雷梧は祈った。
どうか、手を貸さないでくれ。
自分の力でやりたいんだ。
腹には、匕首が刺さっていた。
柄を握り、引き抜く。
ものすごい血と、柔らかい何かが飛び出た。
それよりも、宇文平の位置を。
夕陽も見えない。わずかな明るさを感じるのみだった。
跳躍。
渾身、匕首を振る。
うまく着地できず、仰向けに落ちた。
目を擦る。
宇文平の首が、胴から離れて浮くのが見えた。やけにゆっくり動いているように、雷梧は感じた。
その隙間の向こうから、光が差している。
沙維謝と沙維羅の顔も見えた。二人が駆け寄って来る。
声が出ない。
よかった、と唇を動かすのが精一杯だった。
闇鵬がないている。
雷梧は、目を閉じた。
* * *
沙維謝は再び、その街道にやって来た。
右手には幼い娘の手を引き、左手には小さい鍬と、竹の水筒を提げている。
六月の風が、少し年を重ねた彼女の頬と、金色の髪を優しく流す。風に合わせて振り返ると、家族を乗せた馬車が見える。
沙維謝は、草もない空き地に足を止めた。
妹の沙維羅が馬車を降り、小走りにやって来る。
手にした鍬で、穴を掘った。
そして娘に持たせていた苗木を受け取り、丁寧に植える。
人に聞いたところ、燕の皇帝を名乗った安禄山は、部下に裏切られて命を落とした。その後、燕軍は指導者を次々に代えながら、唐の国土を荒らし続けたという。
しかし唐は、玄宗の子・李亨を新たな帝とし、名将たちも奮戦したおかげで、九年後にようやく乱を鎮圧した。
結果的に、唐王朝はかなりの国力を消耗したものの、今も大陸の主として命脈を保っているという。
沙維謝はあの日、妹と共に長安を脱出した。そして故郷の康国に帰り、今も平穏に暮らしている。
今日は、あれから十年を経た日である。
姉妹はそれぞれの夫と子供を伴って、長安を訪れた。馬車を牽く二頭の馬は、闇鵬の産んだ子だ。
沙維羅が隣に来た。彼女の頬には、涙が伝っている。
沙維謝は、水筒を開けた。
そして、あのとき助けてくれた少年将を想い、彼と同じ名の、梧の苗に水を注いだ。
(完)
夕陽など見えない 城 作也 @johsaku
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