第11話

 十一


 六月二十三日。

 雷梧は部隊を疾駆させ、文字どおり無政府状態になっている長安にやってきた。

「孫孝哲将軍、雷梧です。只今到着しました」

 燕軍が占拠した長安宮殿に入り、挨拶する。本当はすぐにでも、西の市場に向かいたい。

 孫孝哲は、機嫌が良いようだった。

「おう、噂に高い少年将だな。喜べ、長安は我々の手に落ちたぞ」

「はい。私は何をすれば」

 棒読みな返事をした。重要な局面が終わったのなら、今は仕事をもらいたくない。

 孫孝哲が、大きく笑った。

「今の長安で、やることといったら一つだろう。……これから先、唐の人間がつまらん意地を張らぬよう、大燕帝国の恐ろしさを思い知らせてやるのだ。わかるな?」

 笑顔は、狂気の笑みに替わっていた。

 殺し、犯し、略奪せよ。

 顔の皺一本一本が、そう告げていた。彼自身も略奪に行く気らしく、軽い装備に着替えている。

 結局、みんな一緒なのだ。

 ならば。

「……わかりました」

「そのうち、唐の官僚や宮女を捕らえて、洛陽に送る任務をまわす。燕国の首都で働かせるんだ」

 孫孝哲が、思い出したように付け加えた。


 雷梧は本営を出た。

 とにかく、これで姉妹を捜しに行ける。

 全身がざわざわしてきた。

 それを無理に抑え、街道脇の草原に待たせていた部隊のところに戻る。

 宇文平、費賢登、縻刻の三人が兵を揃え、立っていた。

「雷将軍、それで仕事は?」

 宇文平が尋ねる。

 雷梧は、途端に焦った。今まで禁じてきた手前、堂々と姉妹を捜しには行けない。

 苦い表情を隠そうと、日除けのように手をかざした。

「ああ、休みをもらえた。好きにしていいそうだ」

「でも、また我々は……」

 顔を見合わせて苦笑する宇文平たちを、しかし雷梧は手で制した。

「いや、今日はいいだろう。でも余りひどい事はするなよ。民に罪はない」

「珍しいですね。禁止しないなんて」

 宇文平が軽く驚いた。雷梧は慌てて愛想笑いを作る。

「いや、別に。せっかく長安に来たから、僕も街を見て回りたいし」

 宇文平たちは嬉しそうに礼を言った。兵を解散させ、いそいそと街へ向かっていく。

 雷梧はそれを確認すると闇鵬に跨り、西の方角へ走った。


 街は荒らされていた。おかげで、かなり道に迷う。長安に着いたときは正午頃だったのに、今は黄昏も近い。

 ようやく西の市場にたどり着いた。

 家屋の倒壊がひどいので馬を降り、焼け焦げた柱に手綱を結ぶ。そして徒歩で奥へと進んだ。

 酒場のあった路地を見つけた。

 しかし、店はあったものの、建物は戸を破られ、入り口付近には無数の足跡がある。略奪を受けた痕跡だ。雷梧の胸に、抑えても抑えても不安が溢れる。

 入り口から中を覗く。生臭さが鼻を突いた。戦場で何度も嗅いだ、夥しい血の匂い。

「くそ、遅かったか」

 しかし雷梧が中に入ってみると、死体は全て男だった。あの店主も転がっている。

「声がする。どこだろう」

 雷梧は、店のどこかから人の声がするのを聞いた。

 奥へ入ると、あの沙姉妹が、泣きながら立っている。

「あ……!」

 雷梧は、反射的に隠れた。

 ずっと逢いたかったのに、いざ現実になると、困惑でいっぱいになってくる。

 そもそも、彼女たちは自分の事など憶えていないかもしれない。

 大きく深呼吸をする。

 それでも、早鐘のような動悸。こんな緊張は、どんな戦場でも感じた事がない。

 しかし、戦場を思い出すと、かえって踏み出す勇気が湧いてきた。命のやりとりをする場では、考え通りに進む事など無い。

 後は、自然に動き出せた。

「何かあったのかい?」

 声をかけられて驚いたらしく、姉妹はびくりと痙攣してこちらを見た。そして小さく悲鳴を上げると、戸口のところに後ずさる。

 二人とも、以前のものよりいっそう肌の露出した服だった。姉が金色、妹は銅色で、肌にぴったりと貼り付いて、身体の線が全て見える。舞台の稽古中だったのかもしれない。

「怖がらなくていい。僕は軍人だが、乱暴はしない」

 静かに笑い、二人を見る。なるべく身体を見ないようにと、視線が不自然になった。

 乱暴するつもりは、直前まで有った。しかし、そんな事をして嫌われたくないという気持ちが急に現れ、欲望を反比例に押し殺していた。

「思い出しました。あなた、いつかお店に来ていた方ですね」

 一人がようやく口を利いた。雷梧より背が高く、切れ長の目をしている。

「そうだ。君は、お姉さんの沙維謝だね。そっちは妹の沙維羅。君たちが気になって、捜しに来たんだ」

 雷梧は、相手の名前を呼んだ。姉妹の顔が、少しずつ穏やかさを取り戻して来る。

「……本当に、ひどい事しない?」

 妹の沙維羅が念を押すように聞いた。丸顔の、緑がかった大きな目が、雷梧を見ている。あの日、雷梧に視線を注いでいたのは彼女だった。

「ああ、しないよ。……ここには、君たちだけかい?」

 そう聞くと、沙維羅は急に泣き出し、首を振った。

「燕軍が、お店に入ってきたの。親方たち、隠れてろって。でも、みんな殺されて」

 沙維羅の話し方は混乱していたが、内容は理解できた。やはり、店を襲ったのは燕の兵士だ。

 雷梧は、自分の事をどう話そうか迷った。

 その表情を見てか、姉の沙維謝が質問する。

「皇帝陛下が逃げたという噂を聞きました。そんなの、嘘ですよね?」

 沙維羅も聞いた。

「そうよ。だって、あなたは、唐軍の人でしょ? 燕軍と戦いに来たのよね?」

 雷梧の独特な鎧は、燕軍の一般とは違っている。唐軍に見えても不思議ではない。

 二人の視線が痛かった。雷梧の皮膚を突き抜け、心臓に絡みつく。

「あ、ああ、そうだよ。僕は唐の将軍、雷梧だ。被害の確認をするために、この辺を回っている」

 言ってしまった。

 口が、勝手に。

 途端に、自分の肩にとてつもなく重いものが乗った気がした。

 こう言うしかなかったのだ。雷梧は自答する。彼女たちを守るためには。――いや、本当は、逃がさないためには。

 表情が苦くなるのを、雷梧は俯いて隠す。

 逆に姉妹は、素直に安堵したようだった。ほっと息をついている。

「良かった。とりあえず安全なところへ連れて行ってくれませんか、雷将軍」

 沙維謝が言った。沙維羅も、お願いしますと小声で言う。

「信用してくれたかい。ありがとう……」

 なら少しくらい、と雷梧は己に許した。二人の身体に視線を移す。

 ぎりぎりまで布を削った胸元、完全に露出された腕と腹部。そして腰から下には、軽そうな布が申し訳程度の短さに巻き付けられているのみで、ほとんど素足だった。

「……とにかく出よう。その格好じゃ目立つ、何か羽織るんだ」

 相手が一人だったら、押し倒していたかもしれない。雷梧は、安心と渇望を交互に噛みしめた。

「そうですね。沙維羅、上着を取ってきて」

 うんと答えて、沙維羅が走っていく。

 突然、雷梧は抱き寄せられた。

 甘い香りと、豊かな胸の感触に、雷梧は驚いて硬直する。

 沙維謝が、春風のように優しい息で言った。

「あなた、本当は燕の軍人でしょう」

「い、いや、僕は」

 肩を押さえられたまま、雷梧は首を振る。しかし沙維謝は笑った。

「わかります。こんな仕事ですもの、男の人の嘘なんて」

 沙維謝のため息が、耳にかかる。

「私たち、ここで無理矢理働かされていました。妹にはさせなかったけど、客を取らされたことも一度や二度じゃありません。

 だから、親方たちがあんな事になって、正直ほっとしています。……望みなんてありません。ただ、故郷に帰りたいだけなんです」

 からみついた腕が、震えている。

 雷梧は彼女の腕を押さえて、緑の瞳を見上げた。

「嘘をついて済まない。でも、君たちを連れ出すくらいはできる。僕が将軍なのは、本当なんだ」

 雷梧にも、客を取るという意味は分かった。店主の死骸を蹴りとばしてやりたい衝動が、にわかに沸き起こる。

 頷いた沙維謝の髪が、鼻の頭にかかった。

「ありがとう。あなたを利用するみたいで心苦しいけど、長くはご迷惑おかけしません」

 雷梧は、長くてもいいんだ、と言いかけて止めた。しかし沙維謝は、それも読み取ったように微笑む。

「妹には、私から言います。あの子、ずっとあなたに逢いたがっていました。だから、あなたが誰でも大丈夫。

 それに、少し濁っていたけど、あなたには正しい心がある」

 突然、雷梧の胸に、時仁夏が最期に言ってくれた言葉が甦った。

 迷うときは、人のためになる方を選べ。それが正しい道だ。

 雷梧は、欲望を親切心に偽装していた自分を恥じた。沙維謝は、がっついている男だと気付きながらも、自分に賭けてくれている。

 雷梧は目を閉じ、静かに沙維謝の背を抱いた。


 沙維羅が、上着を持って走ってくる。

 沙維謝はそっと離れ、明るく微笑んだ。

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