第10話
十
雷梧は、哥舒翰らを連れて駅を出た。
洛陽へ向かう途中で燕軍の部隊に遭遇し、護送してもらう形になった。大並木が陰を作る街道を進む。
「お前、将軍だったんだってな。こりゃ俺も期待していいかな」
火抜帰仁は笑う。腿の傷があるので、馬に乗っていた。
雷梧は、借りた馬の上で頷く。しかし、手柄を気にかける余裕などなかった。今になって、殺されかけた恐怖で震えが来ている。
「寸法違いの鎧で、お前が燕軍だと気付いていた。しかしあの負け戦で、俺も身の振り方を考えていたからな」
こちらの気も知らず、火抜帰仁はしゃべり続ける。
安禄山は雑胡(異民族の混血児)だから、蕃将を優遇している。漢民族のお前が将軍になれるのだから、俺の出世も間違いない。うまく口添えしてくれれば、傷の恨みは忘れてやろうと笑った。
この男の気分一つで助かったのか。
急に、ひどい吐き気が押し寄せてきた。すぐに馬を降り、藪に駆け込んで嘔吐する。
岩に腰掛け、そのまま休んだが、また奴の気が変わったらと思うと、震えが止まらない。
「どうかしたか」
声に驚いて振り返ると、檻車に入れられた哥舒翰が、街道からこちらを見ている。
虜囚とはいえ、声にはまだ威厳があった。
「顔色が良くないぞ」
「大丈夫です。お気遣い、恐れ入ります」
思わぬ労いの言葉に、素直に礼を言う。
そうでなくても雷梧は、半年ものあいだ潼関を守った哥舒翰に敬意を抱いていた。わざわざ声をかけてくれたのは、気持ちが落ち着いている証だろうか。
そう思うと、緊張も消えてきた。側に行き、檻車の速度に合わせて歩く。
「お顔を殴ってしまい、申し訳ありません」
「気にするな。火抜帰仁は車椅子まで壊した」
哥舒翰は、戦と共に全てが終わったような、さっぱりした顔で笑った。ただ、顔を含めて、左の半身が不自然に垂れ下がっている。
「負傷されたのですか」
しかし哥舒翰は首を振る。
「違う。俺は随分前に中風を患い、身体が利かなくなっていた。名声と贅沢に溺れた報いだよ」
意外な告白に、雷梧は驚く。
「どうしてそんな身体で、潼関の守りなどに」
「雷梧といったな。俺の前任だった封常清と高仙芝がなぜいなくなったか、知っているか」
雷梧は首を振る。
哥舒翰は、嘆息して続けた。
「彼らは監軍(目付け役)の宦官と不仲になり、冤罪を着せられて死罪になったのだ。俺はその代わりとして無理に引き出された。
この戦は、待てば勝てる。
だから潼関を堅守していたが、都の楊国忠は臆病で、『早く賊を討て』としきりに催促してきた」
「あの出陣は、そのせいだったのですか」
「出れば負けると分かっていた。しかし楊国忠に『哥舒翰は安禄山に内応するつもりだ』と讒言されてしまってな。
そして俺は、戦に衰えていた。崔乾祐の策にまんまと引っかかるとは」
絞り出すような声だった。
雷梧は黙って聞く。
「しかも撤退の際、黄河では多くの兵が溺れた。潼関の吊り橋では、落ちた兵士で壕が埋まるほどだった。後の者は、それを踏み越えて逃げたのだ。
出征したのは十八万、生還できたのはたった八千。降伏した者はまだ救われよう。後はすべて、犬死にだ」
哥舒翰は右拳で檻を叩き、泣いた。
「あなたを起用しながら、戦法を任せなかった宰相の罪でしょう」
雷梧は、哥舒翰に同情した。いくら名将といえども、戦のやり方に口出しされては勝てるものではない。
ひどく腹が立つ。護送の燕兵ですら、話を聞いて憤っている。
反乱軍になって良かった。
口には出さないが、雷梧は初めてそう思った。
「分かってくれるか。忝ないな」
苦笑した哥舒翰が、遙か西へ憤懣の視線を注いだ。
やがて洛陽の城壁が見えてきた。城門のそばで、闇鵬が草を食んでいる。ここで待っていたようだ。
雷梧は愛馬に乗り、哥舒翰と火抜帰仁を司令室へ連れて行った。
安禄山は、微笑んでいた。
「雷梧、哥舒翰殿の縄をお解きしろ」
憎み合っていた間柄なのに、安禄山は不思議に温厚である。
雷梧が縄を解くと、安禄山は自ら取って椅子を勧めた。ただ、火抜帰仁には、ほとんど目も向けない。
哥舒翰も、訝しんだ顔を見せた。
「何の真似だ。俺への恨みは深いはず、さっさと殺せ」
しかし安禄山は、恭しく巨体を屈めた。
「ご病気の身であそこまで潼関を守るとは、この安禄山恐れ入っております。危うく我らは、干上がって負けるところでした」
「そうだ、勝ったのはお前たちだ。――と言わせるために、生かしておいたのか? 先に言うぞ、決して賊軍に加担したりはせん」
哥舒翰は、猟犬のように睨んだ。
しかし安禄山は、満面の笑みで頷く。
「長安からの無理難題には、さぞ苦労なさったでしょう。楊国忠は、軍人を消耗品としか考えていません。手柄が多くなれば消そうとする。私が良い例でした」
安禄山は、自らを指さす。
哥舒翰はちょっとだけ考える顔をしたが、すぐに食らいつく勢いに変わった。
「佞言で出世したお前などに、同情されたくないわ。俺にまでおべっかを使う気か」
安禄山は、微笑んだまま首を振る。
「我々は貴殿の不遇に心を痛めております。是非とも、わが大燕帝国の要職をお任せしたい。――いえ、利に転ぶお方とは思っていませぬよ。共に力を合わせ、平安の世を築きたいのです。しばらく身体を休めた上で、改めてお考えください」
安禄山は恭しく屈み、一退する。
雷梧の後ろで、利に転んで主を差し出した男が、真っ青になっていた。
「おい、ちょっと。俺はどうなる?」
「不義不忠は、我が軍にも不要だ。斬首」
安禄山は、鋭く手刀を振った。表情は、壁蝨を潰すかのようである。
「それはないぞ。雷梧、何とか言ってくれ」
「聴かぬ。耳障りだ」
安禄山が高らかに手を叩く。屈強な兵士が火抜帰仁の両脇を抱え、素早く連れ出した。
雷梧は、内心ほっとした。
安禄山は、何事も無かったかのように笑顔に戻っている。ゆっくりと一礼し、哥舒翰に退席を促した。
雷梧は哥舒翰を支えて城内を歩き、彼のために用意された部屋へ案内した。
窓を開けた。眩しすぎる角度で夕陽が差している。雷梧は閉めようとしたが、哥舒翰が止めた。夕陽の方角にある、長安を想いたいのだという。
雷梧はどうにも切なくなり、頭を下げた。
「哥舒翰殿、お願いです。共に戦ってほしいとは言いませんが、せめてこの地に残ってください。その身体では、もう戦は」
哥舒翰は寝台にどっかりと座り込むと、苦い顔で笑う。
「俺を憐れんでくれるな。いいか、安禄山の厚遇ぶりは、明らかな打算だ。――今は、唐が倒れて燕が建つか、唐が持ち直して燕が潰れるかの瀬戸際だ。天下の有力者たちは、強い方に従おうと趨勢を見ている。確かに洛陽を獲るまでは、安禄山が圧倒的に強かった。
しかし、唐も巻き返した。それによって根拠地の范陽が危なくなり、安禄山は撤退まで考えたらしいな」
哥舒翰はさすがに、敵をよく知っていた。
「だが結局やつは、潼関を突破して長安を獲る道を選んだ。俺を誘き出しさえすれば、勝てる自信があったんだろう。――そして事実、そうなった」
「でも、哥舒翰殿を殺さずにこうしてお迎えしています。敬意の現れでは」
哥舒翰は乾いた笑いで、首を振る。
「俺を味方に引き込んで、中立の連中を靡かせようと考えているだけだ。
しかし、唐の朝廷が腐っているのも事実。二つの帝国は今どちらとも、黄昏なのだ」
哥舒翰は、懐かしむのとは違う目で、茜空をにらんだ。
翌日、雷梧は安禄山に呼び出され、哥舒翰の心境を聞かれた。
「そうか。さすが哥舒翰、こちらの手の内は読んでいたか」
話を聞いて、安禄山は冷笑する。
あまりの変貌に、雷梧はぞっとした。
「ではやはり、あの方を利用しようと?」
じろりと、機嫌の悪そうな目が来た。
「他にあるか? 奴の声は使える、それだけだ。……もういい雷梧、お前は刑場へ行け」
「刑場へ?」
急な命令に、驚いて聞き返す。
「火抜帰仁に、殺されかけたそうだな。刑は待たせてある。お前が首を刎ねてこい」
時刻はほぼ正午。
馬軍練習場はずれにある刑場は、かなりの人だかりになっていた。燕兵ばかりである。処刑台の周囲は、高い柵で隔離してあった。
雷梧は警護兵に柵を開けさせ、台へ向かう。
火抜帰仁がいた。腰の高さの台に、頭を載せられている。
「雷将軍、お早く。観客がうるさくて」
脇には、宇文平が立っていた。火抜帰仁を縛った縄をしっかりと持っている。
雷梧は、気が進まなかった。火抜帰仁の恨みを一身に受けるのが怖い。かといって、助ける事も禍根になりそうである。
「やりましょう。もう、狂っちまってます」
驚き、火抜帰仁の顔をのぞき込んだ。目は焦点が合わず、涎を垂らし、何か言っている。
「死にたくない。シニタクナイ……」
同情が沸いた。有頂天から突然、絶望へ叩き落とされたのだ。誰だって正気ではいられないだろう。
雷梧は、苦しみを止めてやりたくて剣を抜く。しかし、宇文平が言った。
「ちょうどいいものがありますよ」
熟銅の、ごつい匕首が差し出された。忘れもしない、火抜帰仁自身の得物である。何とも皮肉だった。
雷梧は受け取り、項を狙って振る。
すとんと、首が落ちた。
燕兵たちがどよめく。
地に落ちた首と目が合った。表情が違う。
許さんぞ。そう言いたげな形相。
「やめろ。自分で選んだ結果じゃないか」
雷梧は叫び、匕首を投げ捨てる。そして振り返らずに刑場から去った。
翌日、司令室の前を通り、驚いた。
哥舒翰が書記の席に座り、不自由な身体で文書を書いている。左右には安禄山と厳荘がおり、晴れやかな笑みを浮かべていた。
「賢明な御判断ですぞ。哥舒翰殿の呼びかけがあれば、多くの勢力が我が大燕に味方するでしょう」
厳荘が、書き上がった文書を眺めながら言う。そして雷梧に気付き、お部屋にお送りしろと指示した。
「火抜帰仁と同じだ。死にたくない。笑ってくれていいぞ、雷梧」
哥舒翰は自嘲に顔を歪めて、寝台に座った。
自分もそうする事を勧めたはずなのに、雷梧はなぜか腹立たしい気持ちになる。
安禄山をあれだけ唾棄していたくせに。火抜帰仁がどうなったか、知っているはずだ。
「何を言いたいか、顔に書いてあるな。許せ、少しでも長く生きるには、これしかなかった」
雷梧は、思わず顔をこする。
哥舒翰が笑った。
「俺と安禄山は、長年いがみ合ってきた。だがそれは、楊国忠の策略でもある。強大な軍事力を持った奴を牽制するため、俺は利用されていたんだ」
悔しかったのだろう。声に表れている。
「楊国忠は、皇帝の耳元でしつこく、『安禄山は絶対に造反する』と囁き続けた。安禄山にも元から野心はあったが、この扇動に追いつめられて挙兵を早めたのだ。
楊国忠にとって計算外だったのは、安禄山が強すぎた事」
「簡単に討伐できると思っていたのですね」
雷梧は少し呆れた。哥舒翰も苦笑する。
「遠くで戦が起きている間は、楊国忠にも現実感がなかった。しかし今は、さぞ焦っているだろう。潼関は落ち、俺までいなくなったのだからな」
一矢報いて痛快なのか、哥舒翰は笑った。
「だがな雷梧、この乱は単なる兵乱とは違う。民族の紛争でもあるのだ」
突然、話が広がった。哥舒翰は真摯な目になっている。
「この大陸を支配してきたのは、長いあいだ漢民族だった。だが、周辺の地域から入った別の民族もかなりの数になっている。俺や火抜帰仁、安禄山もそうだ」
言われてみれば、そのようだ。幼い頃からいろんな人種に囲まれていた雷梧には、あまり気にならない事である。
しかし、ふと気付いた。
「ということは、燕が天下を統一すれば、漢民族の王朝は終わる」
「そうだ。だから、今まで負けに負けてきたが、唐はこの先、底力を出すだろう」
無理かも知れぬがな、と哥舒翰は笑った。
嘲笑っているような、しかしどこか悲しそうな、混ざった表情だった。
翌朝、雷梧はまた安禄山に呼び出された。
雷梧は、これを機会だと思った。
哥舒翰拿捕の功績もあることだし、安禄山に直訴して略奪をやめさせよう。雷梧は軍袍の襟を正し、勇躍、部屋を後にした。
小雨と強い風の中、石畳の上を走る。
司令室に入ろうとしたとき、厳荘が廊下を走っていた。逃げるような勢いである。
「どうかされましたか」
厳荘は足を止め、こちらを見た。頬にひとすじ、鞭の痕がある。
「いろいろな。……最近の陛下は、機嫌が悪くなるとすぐに鞭を振るう。気をつけろ」
忌々しげな表情で、厳荘は去った。
安禄山の残忍な面は知っている。しかし厳荘ほどの側近まで、鞭打つとは思わなかった。
略奪をやめてほしいなどと言ったら、やはり同じ目に遭うのだろうか。
恐る恐る司令室に入ると、以外にも安禄山は機嫌の良さそうな顔だった。
「潼関は完全に押さえた。お前の働きだ、礼を言うぞ」
「恐縮です。それで、お願いがあるのですが」
しかし、安禄山は笑って止める。
「すぐに前線に戻ってくれ。長安攻略の孫孝哲が、人手を欲しがっている。兵は五百ほどでいい」
「わかりました。――それで陛下、お願いです。どうかこれ以上、無慈悲な略奪は」
「父として、いや、男としての深慮だがな、長安が落ちれば戦利品の奪い合いになる。
王金鹿から聞いたんだが、お前、長安で誰かに会ったんじゃなかったか?」
雷梧の脳裏に突然、舞姫の姿が蘇った。彼女たちの事を忘れた日はない。若く美しい姿態が、今でも想い描ける。
洛陽で略奪が起きたとき、兵士たちがあちこちで唐の女性を襲った。雷梧は、恐ろしく、汚らわしいと思いながらも、自分にも存在する獰猛な欲望に気付いていた。
「で、略奪がなんだって?」
安禄山が、邪な笑いをした。
全て見抜かれている。
雷梧は咄嗟に、質問を変えた。
「陛下はまだ、長安へは?」
すると、安禄山は笑みを消し、潰れた鍋のような顔になった。
「今は行く気も失せたな。わしの欲しいものはない」
「楊国忠を討つのではなかったのですか」
安禄山は突然、笑いだした。
あまりの大声に天井までたわむようだった。
「報告があった。潼関奪取の後、唐帝李隆基は長安を捨て、親族だけ連れて逃げたのだ。しかし、馬嵬の駅で護衛兵が暴動を起こし、乱の元凶だと言って、楊国忠を殺したそうだ」
「本当ですか」
信じられず、聞き返した。楊国忠はともかく、国主ともあろう皇帝が、民を見捨てて逃げ出したというのか。
「それだけではない。悪政の根源だと、楊貴妃までが殺された。護衛兵をなだめるため、さすがの皇帝も承諾せざるを得なかったそうだ。
なあ雷梧、わしはこれから、何を目的にすればいい? 李隆基の眼前で楊国忠を斬り、楊貴妃を奪うことだけが楽しみだったというのに」
そうつぶやきながら、安禄山は鞭を手にしていた。顔つきも凶暴になっている。
雷梧は、殺気を感じた。
「話は終わりだ、失せろ!」
風が鳴った。鞭が雷梧の左耳に当たり、ちぎれるほどの激痛が走る。
「失せろ! うぬ、失せたか!」
安禄山は、真っ赤になって鞭を振り回した。しかし、手探りをしながら、空ばかりを切っている。
「陛下、まさか、目が?」
「言うな!」
声をたどって、鞭が当たりそうになる。雷梧は仕方なく、扉を開けて外へ逃れた。
柱の陰で、厳荘が薄笑いで立っていた。
「洛陽に入ってから、陛下は病にかかっていたのだ。尿が甘くなる病にな。目はそのせいだ。そして今は仇敵まで失い、お心が不安定になっているのだよ」
「では、何か治療を」
しかし、首を振られる。
「美食や酒をやめろと言えるか? あの様子では、もう先は見えている。……なあ雷将軍、これからは私の方に付かんか」
黄色く澱んだ、厳荘の目。雷梧は、安禄山がどうなるのか、予想がついてしまった。
「考えておきます。今はまず、長安に」
良いだろう、と笑う厳荘に一礼し、雷梧は逃げるように走った。
こんな燕が、天下を獲れるのだろうか。
腐敗臭漂う洛陽城を、早く遠ざかりたい。
代わりに、舞姫たちの事がどんどん膨らんできた。
(あの姉妹はまだあそこにいるだろうか。だとしたら長安が落ちた場合、誰かに捕まったりはしないか?)
石畳を走り、厩へ急いだ。小雨混じりの風は、さっきより強くなっている。
もう安禄山の事は頭にない。
訴えたかった理想も、かき消えていた。
彼女たちを守りたい。
いや。
誰にも渡さない。
ただそれだけが、狂おしく燃えていた。
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