第9話
九
混戦の最中、雷梧はいつしか、煙に巻かれて味方を見失ってしまった。
迷いながら林道を抜けると、車椅子に乗り、百人ほどに守られて逃げていく蕃将(異民族の武将)がいる。年老いた猟犬のような、眼光鋭い人物。
雷梧は咄嗟に、倒れている唐兵から鎧兜を奪った。一回り大きかったが、急いで身に付ける。自分の鎧は闇鵬に括り付け、燕軍陣地の方角へ走らせた。そしてあの車椅子を探し、何食わぬ顔で追従する。
やがて黄河へたどり着いた。彼らはこれを渡って、潼関に戻るのだろう。ここの川幅はかなりある。
兵士が大急ぎで船を引っ張ってきた。雷梧も手伝い、船に乗り込む。
その時、岩のように大きく、厳めしい蕃将が寄ってきた。黒く重そうな鎧から、高位の軍人に見える。
まずい。
質問でもされたら、ばれてしまう。
「おまえ、名前は」
「ら、雷梧です」
蕃将は鋭い目を向けたが、軽く笑っただけで、すぐに舳先へ戻って行った。
雷梧は、熱い溜め息をつく。
安堵感と共に、希望が湧いてきた。
(このまま唐軍の内部へ入ろう)
燕軍の元々の作戦は、逃げる唐軍と共に潼関の内側に突入する事だった。後方にも、たくさんの燕兵が続いているだろう。
黄河を渡り終え、慌ただしく街道を進んだ。雷梧は車椅子を守るように、ぴったりと張り付く。
そのうちに、さっきの蕃将が車椅子に話しかけた。
「王思礼の部隊はまだ無事だそうです、哥舒翰殿」
「そうか。火抜帰仁、潼関を越えて駅(伝令のための宿舎)へ入れ」
雷梧は、あっと叫びそうになって咄嗟に口を押さえた。この車椅子の男は、潼関を守る主将ではないか。
彼を討ち取れば、ここの戦局は終わる。
幸い、向こうはこちらに気付いていない。しかし、独りでどこまでやれるのかと思うと、一気に不安になった。運良く討ち取れたとしても、どう脱出するか。
雷梧は結局、ずるずる付いていく事しかできぬまま、潼関を通過し、関西という駅に到着した。
もう日が暮れていた。哥舒翰が叫ぶ。
「急げ。押すのでは遅い。担げ」
雷梧は数人と共に車椅子を担いだ。そのまま駅に運び込む。
屋根のある建物に入れたことで、一行はようやく安心したようだった。
「疲れた。薬湯を持ってこい」
哥舒翰の顔色は、蒼白だった。
無理もない。潼関が落ち、都・長安は防壁を失ったのだ。
哥舒翰は薬湯を熱そうに啜っている。負傷のせいか、左半身が動かないらしい。討つなら絶好である。
(殺してしまっては、退路がなくなる。賭になるが、人質に取ろう)
何気なく近付き、そっと剣を抜く。
そして斬る代わりに、柄で哥舒翰の頬を殴った。車椅子が大きく揺れる。
異変に気付いて、皆が振り返る。雷梧は、鼻血を流した哥舒翰に剣を突き付けた。
「ここまでだ。哥舒翰は連れていく、扉を開けろ」
唐兵たちが、あっと叫んで硬直する。雷梧は哥舒翰の兜を投げ捨て、髪をつかんで立たせた。
その時、
「やっぱりか!」
火抜帰仁と呼ばれていた武将が、薬湯を投げつけた。
あまりの熱さに驚いて、雷梧は哥舒翰を放し、跳び退ってしまった。
慌てて体勢を整えたとき、雷梧は左後方に金属の光を見た。直感で剣を振る。鋼の削れる音がして、強い力が跳ねた。
振り返ると、鉾の先くらいに大きい、熟銅の匕首(鍔のない短剣)を手に、火抜帰仁が刺突して来た。
雷梧は左へ跳び、距離を開ける。
そこにあった椅子を取り、相手の足下めがけて投げた。
椅子が足を捉え、火抜帰仁がよろめく。雷梧はその喉元をめがけて突いた。
だが、火抜帰仁がいない。よろめきついでに転がって逃げたのか。驚いて止まると、左後方に殺気。剣で左を払うと、再び鋼の反発。
(同じ手か)
そう思った途端、背中を強く蹴られた。
息が詰まる。雷梧は勢いを利用して前転し、振り向き起きた。火抜帰仁は、またいない。
急いでしゃがむ。案の定、また左後方からの刺突が来る。頭上を匕首が泳いでいた。
雷梧はしゃがんだまま、相手の腿を刺す。
「うっ」
火抜帰仁が呻きながら、床に倒れた。雷梧は素早く相手に馬乗りし、喉元に剣を当てる。
だが突然、天地が回った。
火抜帰仁に腰をつかまれ、力任せに体を入れ替えられたのだ。
岩のような巨体が、雷梧の腹に乗る。
首が冷たい。
ごつい匕首が、喉の横に当てられていた。
「ふ、不届きな小僧め。殺せ、帰仁」
向こうで哥舒翰が喚いている。
こんなかたちで、死にたくはない。
だから雷梧は尚更、恐怖や後悔に蓋をした。もう首筋からは、大量にに血が吹き出しているはずだ。
雷梧は、目を閉じた。
「――哥舒翰殿、俺はあんたに聞きたい。これからどうするのか」
しかしまだ無事だった。それどころか、火抜帰仁は哥舒翰に質問を投げている。
「何故そんな事を。無論、敗残の兵を集めて、もう一度戦う」
「無理だ。あんたも、もう分かってるはずだ。潼関は崔乾祐に占拠されている」
表情は見えないが、火抜帰仁の殺気が消えていた。
「言うな。潼関は、これから奪還する」
哥舒翰の声は、弱々しい。
それに対して、鋭い舌打ちが響く。
「二十万の兵を、一日で失ったんだぞ。間違いなく死罪だ。俺は死にたくない」
泣きそうな声だった。今日の敗戦は、唐にとってそれほど致命的なのだろう。
「わかった、そこまで言うなら好きにしろ。だが、俺はここで自害する。安禄山に跪くなどできるか」
哥舒翰は剣を抜いたようだ。
だが火抜帰仁が素早く動き、どたばたと音がした。
自由になった雷梧は、起き上がり、首筋を暖めるように手を当てる。
目の前には、倒れた車椅子と、哥舒翰の髪をつかんだ火抜帰仁。
思わぬ展開に、周囲も沈黙している。
乾いた声で、火抜帰仁が笑った。
「雷梧、俺は燕軍に降るぞ。土産はこの爺だ」
腐敗した希望。そんな色の目だった。
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