第28話 目指すところへ
ある日の午後。
隣の広間から厨房へ戻って来たのは、製菓担当料理人のマルタンだ。
いつも持っているメモ代わりの更紙束を握り、大きく溜め息をついている。
背が低く、丸っこい身体の彼は、肩を落としているともっと丸く見えた。
休憩に入ろうと、広間に向かっていた副料理長は、前から歩いて来たマルタンの様子を見て首を傾げた。
「なんだよマルタン、辛気臭いな」
「副料理長ぉ、俺、製菓の才能ないんですかねぇ」
「はあ? なんで落ち込んでんの」
「試作する焼き菓子、いっつもハイスの方が評判良いんですよ……」
マルタンは、がっかりした様子で溜め息をついて見せた。
製菓を担当する料理人は数人いるが、その中でもハイスとマルタンの製菓技術は抜きん出ていて、他の者は調理と製菓を兼任しているが、二人は余程忙しい時以外は製菓だけを担当していた。
季節のデザートや焼き菓子など、新しいもの
を作る時は、製菓担当料理人がそれぞれ試作して、隣の広間に試食を出す。
休憩に訪れた使用人達がそれらを食べてみて、投票式に評価するのだ。
顔を合わせば、感想をもらうこともある。
もちろんそれだけで決定するわけではないが、多くの票や評価をもらった試作品が、新作のベースとなることが多い。
だからこそ、試作を出した料理人は、その評価をとても気にする。
誰だって、自分が考案した菓子や料理が評価されれば嬉しいのは当然だ。
それが認められて、メニューに加えられるとなれば、尚の事だろう。
「俺はハイスには勝てないのかなぁ……」
唇を歪めて言ったマルタンを、ひょろりと背の高い副料理長は見下ろすようにして、腰に手をやった。
「ハイスに勝ちたいと思ってるの?」
「いや、ハイスにっていうか、やるからには一番になりたいじゃないですか」
「一番になりたいのか? この厨房で? その次は領地で? 更に国で?」
突然規模を大きくされて、マルタンは慄いた。
「そんな大それたこと考えてないですよ!」
「大それたことか? 一番になりたいのに? ここの厨房なんて小さい世界だぞ。そこでハイスを抜いたら満足なの?」
「うっ……いや……」
身近で同じ立場のハイスと比べていただけで、そこまで深く考えたことはなかったのだろう。
マルタンは一瞬言葉に詰まったが、口を尖らせて反論した。
「副料理長だって、ずっと料理長と仕事してきたなら、料理長に勝ちたいとか、自分が料理長になりたいとか思ったことあるでしょ?」
「俺? ないけど」
「へ? ないの?」
「ないよ」
副料理長は曇りなく笑って、まだ炉の前に立ったままの料理長に視線を向けた。
「
料理長と副料理長は、同期の見習いとして領主館の厨房に入った。
二人共、領街の富裕層向けのレストランで別々に働いていて、領主館で見習い料理人の募集が出されたことを知り、応募して採用されたのだった。
まだ、老紳士が領主で、大奥方も健在であった頃だ。
その頃の厨房は、前料理長が絶対的な
若い料理人達は、誰がいち早く料理長に認められて、彼の近くで働く役職をもらえるか、虎視眈々と機会を狙っている者も多かった。
そんな中で、若い頃の副料理長は常に飄々としていて、楽しく仕事をしていた。
幼い頃から、何でも簡単にそれなりのレベルまで習得出来てしまう彼は、料理を楽しいと思っていたが、特に極めたいと思っているわけでもなかった。
周りからは「もっとやる気を出せばトップを狙えるのに、なぜ本気にならないのか」と言われ、それでも我が道を行けば、「勿体ない」とか「器用貧乏」などと言われる始末だ。
だが、副料理長にはよく分からなかった。
なぜ、たった一人しか立てない場所を目指すのか。
もちろん、それを求める者がいてもいい。
しかし、価値観は様々だ。
上ではなく、上を支える場所で出来ることをして充足することが、なぜ不足であるように言われるのか……。
働き始めて数年、二人は見習いを卒業し、若手の料理人の中でも実力を認められていた。
その日、前料理長は半休で、午後から出勤だった。
その前日から、領主夫妻は次代の長男を連れて別の領へ出掛けていて不在。
妻である奥方は、お腹に
領主一家の食事は一人分。
しかも、領主達がいないので、領主の執務を手助けする通いの文官達も今日は休みだ。
使用人の為の食事を作るのが主な仕事になるため、中堅の料理人達も休みや半休だった。
その日の奥方の為の昼食で、主菜担当を任されたのは、
彼は当時、いつもスープを任されていた。
どちらかと言えば寡黙で、与えられるどんな仕事にも常に真面目に向き合う男だったが、突出した実力を持っている、とまでは言い切れない印象の料理人だった。
だがおそらく、この機会は上を目指す者にとっては願ってもない好機だ。
主菜を作る炉の前は、いわばその厨房の頂の場所。
彼がここで実力を見せることが出来れば、役職を与えられることは間違いないと思われた。
しかし、そろそろ盛り付けに掛かろうかという時に、スープ担当の場所で問題が発覚した。
金属製の杓子は、熱伝導を防ぐ為、持ち手に硬い革が巻かれてあるが、それを止めていた紐部分が切れていることに気付いたのだ。
小鍋に入ったとろみのあるミルクベースのスープでは、底に沈んでいる具は見えない。
「入ったところは見てないのか!?」
「分からない……気づいたら、なくて……」
スープを担当していた料理人は顔色を失くしていた。
「鍋以外のところに落ちていないのか!?」「昨晩道具の手入れをした見習いは誰だ!」と、様々な声が飛び交う中、主菜を担当していた
「俺が新しいスープを用意する」
言って彼は、淀みのない動きで寸胴鍋から小鍋にスープストックを注ぐ。
さすがに、副料理長は側に寄って小声で言った。
「おい、炉を離れていいのか? 好機だったろう」
「何の好機だ。いいから仕事しろ」
「今日担当してた奴にやらせろよ。濾して異物を確認する手だってある」
「今確認してどうする!」
ひょろりと背の高い副料理長を、
「異物があったら? 除去して提供するのか? いつ入ってどれだけ煮込まれたか分からないものを? 害があるかもしれないんだぞ!?」
副料理長はハッとした。
奥方は妊婦だ。
いや、妊婦だとか、貴族だとか、そんなことは関係ない。
彼は、人間の身体に入るものとして、目の前の料理を見ている。
害になる可能性のあるものは決して出せない、そんな揺るがない想いがあるのだ。
コイツは、たった一人の為に、本気で調理している。
役職を求めてなんて、そんな小さな目的で仕事をしてない―――。
「ぼうっとしてないで、仕事しろ。スープの出来るタイミングが遅れる。全体の流れを調整してくれ」
当然のように出された指示に、副料理長は面食らった。
「なんで俺!?」
「お前なら出来るだろう。いつも細かく調整しているはずだ。任せた」
その言葉を投げるだけ投げて、彼は自分の仕事に集中した。
『任せた』
副料理長は、背中に鳥肌が立つのを感じた。
この
ここの仲間も。
だから、ここで働く皆が気持ち良く動けて、いつでも美味い料理を淀みなく提供出来るように、日々さり気ない気配りを意識して、全体を見渡して仕事をしていた。
しかし、誰にも気付かれていないと思っていた。
そもそも、気付かれても、上を目指して腕を磨く料理人には不要と思われる
下手をすれば、余計なこと、又はいつものように、やる気がないと受け取られる部分であるはずだった。
副料理長は大きく息を吸って、全体を見渡した。
こちらを見たままの料理人や下女達に即座に指示を出す。
「
「五分だ」
ハーブを刻む手を止めず、
副料理長の顔には、どうしようもなく喜色が滲んだ。
コイツは、俺のこともちゃんと見ている。
“料理人”なんて、一括りにはしてないんだ―――。
副料理長は、炉の前で前掛けを外し始めた料理長から、マルタンに視線を戻した。
「俺はさ、
「目指すところ……」
マルタンが呟くと、副料理長は笑みを深める。
「そっ。それが俺にしか出来ない仕事で、他の誰にも譲れない立ち位置なわけ。マルタン、お前もさ、お前にしか出来ない仕事があるよ」
マルタンはガバと顔を上げて、副料理長に詰め寄った。
「俺にもありますっ!?」
「あるよ。ハイスの菓子はさ、味はピカイチだ。組み合わせのセンスは感心するね。技術も確かだ。だけどデザインは凡庸。田舎の菓子店のものだ」
新作の菓子を作る時、完成形をイメージして描き出すのはいつもマルタンだ。
ハイスのイメージを受け取って、多くの試作品を、華やかで夢のある見た目に変える。
それを元に、ハイスもデザートを仕上げる。
「領主館の菓子の華やかさは、マルタン、いつだってお前が作ってるんだぜ?」
「俺が……」
「目指すものが同じでも、競うばかりが方法じゃないってことだよ」
副料理長が、ポンとマルタンの持つ更紙束を叩く。
マルタンは改めて、更紙をびっしりと埋めた、自分の描いた菓子の
「まだ休憩してなかったのか?」
いつの間にか近くに来ていた料理長が、副料理長を見て言った。
副料理長はニカと笑って、料理長の肩に腕を回す。
「今からだ。オイ、今日の賄いのスープ、俺が担当だぜ。絶品だよ〜?」
「いつも言ってるよな」
「いつも絶品なの!」
「知ってる」
回された腕をベシと叩いて、料理長が広間に入って行く。
叩かれた腕を大袈裟に
《 目指すところへ/終》
次の更新予定
領主館物語 〜その日常に微笑みを〜 幸まる @karamitu
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