最悪たちの、一途な伝説

 イエルクは、確かに覚えていた。


 十年前——一人ひとりの奴隷の少女を、密かに神聖アーリマン王国の外へと逃がしたことを。


 それは、ほんの気まぐれだった。

 マユ女王の無茶な命令で、いつものように死にかけていたところを、まさか「腐った林檎」で助けられるとは思わなくて。


 だからつい、気が緩んだ。


 つい、その少女を己が心底惚れている女に重ねて、口をきいてしまって。

 つい、少女の名まで訊いてしまって。

 つい、己の真名まで教えてしまった。


 そしてあの時は飢えて殺す気力もなかったから、何となく外へと逃がしてやった。

 それらは全て、ほんの気まぐれに過ぎなかったのだ。

 ちょっと、惚れた女との懐かしい思い出を柄にもなく感傷的になぞってしまったがゆえの、ただの気まぐれ。それだというのに。


「なあ、イエルク。マユ女王はどこにおられる? ここまで来たら、降伏宣言を出してもらいたいんだが。ああ、でも……あの女王さまがそう易々と降伏宣言なぞしないか。くわえて、女王さまにのお前は、決して彼女の居場所を教えてはくれないだろうし。さて、どうしたものか」

「……」


 イエルクはからの玉座の前で微かに息を乱しながら、目の前でうろうろと玉座の間を歩き回る、魔法を繰る長杖を肩に担いだ一人の女を見つめて、心底過去の己の過ちを悔いている。


 漆黒の鎧を身に纏い、星空に瞬く星光にも似た白銀の髪を揺らす、恐ろしいほど美しく、竜である己にも劣らぬほど強い女——その名を、ナヒトア。


 およそ十年前。己が気まぐれで生かしたかつての少女ナヒトアは、今や大陸に名だたる超大国の一角である「ミスラ帝国」という魔法軍事国家を治める「女帝」と成っていた。


 現在、神聖アーリマン王国は女帝ナヒトア率いるミスラ帝国に侵攻されている。

 神聖アーリマン王国が支配していた属国は次々とミスラ帝国に侵略され、今や残っているのはこの神聖アーリマン王国の領土のみ。


 かつては「世界でいちばん悪い赤き女王」と大陸全土に轟いたマユ女王の悪名はすっかり忘れ去られつつあり、今やミスラ帝国の「世界最悪の侵略女帝」というナヒトアの悪名の方が恐れられている。

 そうして本日はなんと、女帝ナヒトアが直々に突如として神聖アーリマン王国の王城に現れ、マユ女王へと「降伏宣言」を迫ってきたのだった。


 イエルクはこの五年ほどの間で既に、数え切れぬほどナヒトアと殺し合った。そして殺し合うほどにナヒトアは末恐ろしくなるほど強くなって、ついにはこの玉座の間まで来た。

 ゆえにイエルクは、この「世界最悪の侵略女帝ナヒトア」を生かしてしまった己の過ちを、現在進行形で深く悔いているのだ。


「そうだ。せっかく今日もイエルクと会えたんだから。アレ、言っておかないと」


 ナヒトアが、にかりと眩しい笑みを浮かべてこちらを振り向く。

 イエルクはますます、過去の己の所業を悔いる気持ちやら、何とも言えぬ感情が混じり合って、苦虫を嚙み潰したような顔をした。


「私と結婚しよう。イエルク」

「断る。……いい加減、それ止めろ。


 そう。ナヒトアはこうしてイエルクと会う度、殺し合う度——真っ直ぐに、求婚。もしくは口説いてくるのであった。

 今やもう、数え切れぬほどに、執拗に。死ぬほど


「昔私は、お前には負けると言ったな。だが、私は諦めないよ。惚れたら負けなら──惚れさせるまでだ」

「ばーか。そりゃ無理だ」


 イエルクは即座に首を横に振って、否定する。思った通り、ナヒトアは食い下がった。


「私に無理なことはない。だって私は奴隷から『世界最悪の侵略女帝』にまで成ったんだよ? お前好みの悪い女。お前が私に惚れるためなら、私は何にでもなれる。マユ女王をも、超えられる」

「無理だっつってんだろ。もうてめぇはあの人を超えられねぇ。俺もあの人を忘れられねぇ。平行線なんだよ。何もかも……永遠に」

「? 何。その言い草、は……待って。まさか、イエルク。マユ女王は……」


 ナヒトアが、何かを悟ったように目を瞠って、アイスブルーの瞳を揺らす。

 イエルクは言うつもりのなかった事実を、「それ以上口を開くな」と頭のどこかで激昂するもう一つの己の心を差し置いて、ナヒトアに零した。


「一年ほど前か……あの人はで死んだ。そんで、今痛いほどに思い知ってんだが。死んだ人間にかかわる記憶は、おぞましいほど綺麗に頭に焼き付きやがる。だから俺は死ぬまで、あの人に惚れたまま終わるわけだ。生者のてめぇには……どうあがいても、死んだあの人には敵わねぇに決まってる」


 確信をもって己の諦念を口にしたイエルク。しかしそれに、間髪を容れずナヒトアが口をはさんできた。


「馬鹿を言っているのはお前の方だ、イエルク。確かに死者は美しく不変になるが、生者は変わり続ける。いつしか死者への美しい記憶を大きく上回って、より鮮烈に、生者のおもいは燃え上がる。生者たる私は変わるだろう、死者の焦げ跡にいつまでも縋り続けるお前を振り向かせるくらいに。そして、お前自身も生者だ。だから、お前の心も魂も、絶対に変わる。不変なまま終わるものか」

「……」


 ナヒトアの言葉に、思いがけずイエルクは呼吸を止めて、ナヒトアを見つめる。


「お前が不変とのたまう、その心。そういう一途なお前が私は大好きだが。それでも私が必ずや、その一途な不変の心ごと全て呑み込んで、お前の魂の根底を変えて見せよう。マユ女王に負けたお前を、私が惚れさせたら。私の全勝ちだろう?」


 ナヒトアは、不敵に笑う。十年前と、変わらぬ眩しさで。


「私は勝つよ。死んだマユ女王にも、死者に囚われ執着し続けるお前にも。だから、楽しみにしていて。イエルクはマユ女王を想いながらも、私に惚れて、私と夫婦めおととなり──世界でいちばんになる。なあ、イエルク。マユ女王だけでなく、私に惚れて、怖くなるほど幸せにさせられる覚悟は決まったか?」

「な……」


 何も言い返せずにいるイエルクに、ナヒトアが「今日はもう帰るよ。また会いに来る」と言って、背を向ける。

 そうして最後に顔だけ振り向いて、あでやかに、たおやかに——もう耳に胼胝たこができるほど聞き慣らされた、イエルクが貰ったことのない、あの言葉を口にした。


「愛してる、イエルク」


 ◇◇◇


(ナヒトアと最後に会ったのは……半年前か)


 マユ女王の不在を嗅ぎつけた、列強国の連合軍に急襲を受けたイエルクは、崩れた城門の陰で何故かナヒトアと最後に会った時のことを思い出していた。


 空には、「飛行艇」などと呼ばれる、奇怪な兵器が飛び回っている。マユ女王や己が扱えた稀少な「魔法」の力や文明は、時代の流れと共に廃れつつあるらしい。

 連合軍は「もう空の支配者は悪竜だけのものではない。我々、正義の人類のものだ!」などとほざいていた。


 悪竜でも、世界でいちばん悪い女王ですらも、空を支配することなどできなかったというのに。


『イエルク』


 ふと、またナヒトアの声が聞こえた気がした。そういえば、「世界最悪の侵略女帝」は空を侵略することはできたのだろうか。

 血を流しすぎたせいか、何故かナヒトアの事ばかりが頭に思い浮かぶ。

 もうすぐ死んでしまうという時に、何故よりにもよって——己の最大の過ちである、あの最悪の女のことばかりを、想ってしまうんだろうか。


 どうして。死に際になって、いちばんに蘇るのがあの最悪の女が己の名を呼ぶ声で。

 どうして。死に際になると、あの憎たらしい顔を見たいなどと、今まで一度も思ったこともないことが頭を過るのだろうか。


「……生きるのも、大概最悪だったが……死ぬのも、最悪かよ。俺の生は終始、最悪だな」

「イエルク!」


 幻聴かと、思った——そんな声が、すぐ耳元で己の鼓膜を激しく震わせ。己の冷えた体温を燃やすかのように、両肩を熱く細い手によって強く掴まれた。


「まだ、生きてる……! 随分と捜したよ! 間に合って本当によかった……といっても。私も死にかけてるんだが」


 ナヒトアが眉を下げて笑いながら、己の隣に並んで座り込む。

 石のように動かなくなった身体に鞭を打ち、イエルクは首だけを動かしてナヒトアを見ると——彼女の身体は既に死んでいてもおかしくないほどに、重傷を負っていた。

 イエルクは乾いた喉を振り絞って「……何故、てめぇが……」と必死に問いただす。すると、ナヒトアは相変わらずからからと笑って、イエルクの肩に寄りかかりながら答えた。


「神聖アーリマン王国の資源を前々から狙っていた国々の連合軍が『悪竜退治』に向かうと聞いて……居ても立っても居られなくなってね。つい、捜しに来てしまった。悪竜捜しは、私の人生で初めてできただから」


 ナヒトアが荒い呼吸を繰り返して、十年前にも聞いたような言葉を口にした。同時に、ナヒトアの呼吸が段々と、弱々しくなってゆく。


「とにかく、イエルクに会えてよかった……ふふ。このまま一緒に死ぬのも、悪くないかもしれないなあ」


 冗談交じりのような声だった。しかし、イエルクにはその言葉が冗談には到底思えなくて、唸るようにナヒトアへと怒りの声を振り絞った。


「黙れ……死ぬなんぞ、易々と口にすんじゃねぇ。次言ったら……殺すぞ、クソが」


 イエルクは、血を吐きながら、隣にいる最悪の女の名前を十年ぶりに口にする。もう既に先に逝ってしまった、心底惚れてやまない悪の女王の事を思い出しながら。


「死ぬ、な……ナヒトア」


 ナヒトアが大きく目を見開いて、イエルクを見上げてくる。


「……俺より先に死なねぇと……そういう約束、できるなら。結婚してやってもいい。ただし俺が姫さんに惚れてんのは、永久に変わらん……てめぇには、惚れねぇし。負けるつもりもねぇが……」


 イエルクは流し目で、こちらを見上げてくる零れんばかりのアイスブルーの瞳に己の視線を絡めて、飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、自分でも訳が分からないような言葉を紡いだ気がした。

 そこで、ナヒトアの気持ちの良い笑い声が鼓膜を叩く。


「ふ、っはははは! 婚約の条件が、数百年を生きる悪竜より、永く生きろとは。面白いことを言う」


 ナヒトアの場違いな笑い声を耳にして、イエルクは何だか、とんでもない失言をしたような気がしてきて苦し紛れに悪態を吐く。


「……ああクソ……血を流しすぎて、戯言を……死にたくなってきた……今のは、忘れ……」

「次はお前が黙れ、イエルク。そして、今は死んでも死ぬな。言質はとった、誓わせろ」


 イエルクは思わず、己がまた新たに犯しただろう過ちを撤回しようとするが、それは即座にナヒトアへと阻まれた。


「約束する。私はこれから至極健康第一に人生を謳歌し、お前よりも遥かに長生きしてみせる。何百年と悪竜をやってきたお前より長生きせねば、私もとは言えないだろうしな」

「は……馬鹿言ってんじゃねぇ。今にも死にそうな奴が……」

「もう死ぬ気など微塵もしないな。あと何百年と最高に長生きする気しかしない。だって私達、結婚するんだよ?」


 ナヒトアは死にかけているとは思えない動きで突如立ち上がると、軽々とイエルクを肩下から担ぎ上げて歩き出した。それを目の当たりにしたイエルクは、一瞬呆気に取られて瞠目したまま固まるが、すぐに思わず盛大な舌打ちを鳴らして、怒りと後悔で震えるため息を吐き出す。


「てめぇ……死にかけのフリして、かまかけやがったな……!? この、嘘吐きクソ女が……! 本当に最悪だ、てめぇは!」

「ははは! イエルクは騙しやすくてたすかる。本当にありがとう、愛してるよ」



 イエルクは、心底思い知った。

 己はやはり。一生、マユ女王や女帝ナヒトアといった、「世界でいちばん最悪な女」に振り回されて、生きていくしかないのだと。







 これは、とある大陸にて永く歌われる伝説。

「世界でいちばん悪い赤き女王」と。

「世界でいちばん強くて恐ろしい悪竜」と。

「世界最悪の侵略女帝」による。

 世界三大悪と恐れられた「最悪」たちによる、世界でいちばん最悪で——いちばん「一途」な恋の伝説である。

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最悪の一途〜悪女と悪竜と侵略王、「最悪の伝説」たちによる百年の片恋物語〜 根占 桐守(鹿山) @yashino03kayama

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