初恋
神聖アーリマン王国のマユ女王は
その後、マユ女王はたった十年ぽっちでこの大陸の東半分の国々を「悪竜」を以て滅ぼし、完全に支配して見せる。
故に、マユ女王は「大陸史上最悪の悪女」と大陸全土にその悪名を広く深く刻み、大陸西部の残った諸国では歌にされるほどに永く恐れられた。
◇◇◇
私は、神聖アーリマン王国に他国から献上された、奴隷の子供。
蛙の子は蛙であるように、奴隷の子も奴隷。だから私も、生まれながらの奴隷だった。
マユ女王は奴隷の消費が途轍もなく速く、激しかった。
マユ女王の好きな色は自分の髪や瞳と同じ色の、赤色。「赤き女王」と呼ばれる所以だ。
マユ女王は赤色をたくさん見たいからと、奴隷一万人を野に放ち、その奴隷一万人が「なるべく派手に血を撒き散らすように殺し尽くせ」——そう、家来の悪竜に笑いながら命じたらしい。
そういうことで、私も、その奴隷一万人の中にいる。
野に放たれてから、もう一日は経ったんじゃなかろうか。野原は、マユ女王が望んだとおり血の色で真っ赤に染まっている。どこからともなく、女の美しい高笑いの声が聞こえる気がした。
昼間はあちこちからひっきりなしに聞こえていた、奴隷の皆の悲鳴はもう聞こえない。皆、悪竜に食い尽くされてしまったのか。それとも、夜になってしまったからか。
私は、いつか腹が空きすぎて堪らなくなった時に食べようと肌身離さず隠して持ち歩いていた、熟すどころか腐りつつある林檎をひとつ胸に抱いて、野原の血だまりの中でいつの間にか眠っていた。
どろりと、ぬめった血の海の中から身体を起こして、辺りを見回す。満月の銀光に照らされて、肉塊となった奴隷たちが赤の中から真っ白に浮かび上がる。私のすぐ隣には、私の何倍も大きい奴隷の大男が身体を奇麗に真っ二つにされて、血の中に沈んでいた。
私は、生き残ったのだろうか。生き残っても、良かったのだろうか。
「……生きてるのか、死んでるのかも……わからない」
未だに生きている心地がしなくて、私は喉を震わせて独り言ちる。
昼間は奴隷たちの波に押し流されて、その波に踏み殺されないようにひたすら無我夢中に走っていたけれど。
そういえば私は、まだ「悪竜」を見たことがない。世界でいちばんの悪女、マユ女王は遠目で見たことがあるが。
「悪竜……見てみたい、な」
唐突にそんな衝動に駆られて、私は林檎を抱えたまま血の海から立ち上がった。
悪竜に見つかれば、死んでしまうのは必然。それでも私は何故か、冒険に旅立つような熱情が胸を躍らせ、ようやく生きている実感が湧いてくるのだった。
こんな気持ち、生まれて初めてだ!
だって、世界でいちばん悪かろうと、この近くに「竜」がいるのだ。「竜」なんて伝説上の生き物、会ってみたいに決まっている。
私は、見渡す限りの血の海を、ひたすら歩いて悪竜を捜し回った。悪竜を呼び寄せるように、歌をうたってみたりもした。
「女王マユの家来は『世界でいちばん強くて恐ろしい悪竜』。悪竜と目が合えば、自分のお国を滅ぼされてしまう。だから、決して悪竜を見つけてはいけな——あ」
ふと、たくさんの奴隷の死体が見上げるほど山積みになっているところに、黒づくめの男が一人、死体の山に背を預けながら片膝を立てて座り込み、目を閉じている姿を見つけた。
私は死体の山に駆け寄って、男をじっと観察する。一目見てわかった。この黒い男は死体ではない。死にかけてはいるが、確かに生きている者なのだと。
「……」
男は、ずいぶんと憔悴しきっているようだった。肩辺りまで伸びきったぼさぼさの艶のない黒髪に、蒼白い頬は痩せこけ、濃い隈に縁どられた目は落ち窪んでいる。
その腹からは、ぎゅるるるると、腹の虫が悲痛な声を上げていた。どうやらずいぶんと腹が減っているらしい。
私は腕に抱いている林檎をちらりと見た後、黒い男に声を掛けた。
「お前、だいじょうぶ? 腹、減ってるんだろう」
「……」
「私の林檎、あげるよ。ほら」
私は男の瘦せこけたほっぺたに、林檎をぐいぐいと押し付けた。すると、死んだように身じろぎすらしなかった男がようやく、眉間に皺を寄せながら気だるげにゆるゆると瞼を持ち上げて、私を見た。
「……」
男は喉も乾ききって声が出せないのか、私を睨みながら口を薄く開閉させる。
私は「しかたないな」と零しながら、手に持つ林檎を大きくかじってよく咀嚼すると、そのまま男に口づけた。
「! ……ん……は……」
男の驚愕したような吐息が漏れるのも構わず、私は男の顎を片手で掴むと、その口内へ、嚙み砕いてやった甘酸っぱい林檎の柔い果肉と果汁を注ぎ込む。やっぱり、林檎は腐ってからが美味しいなと痛感しながら。
「……ん、あにしやがる……クソガキ!」
「ん。喋れるようになったか。ほら、林檎。食べな」
喉が潤って声を出せるようになったのだろう男に、私は齧りかけの林檎を持たせた。
男は持たされた林檎と私へ交互に視線を何度もやりながら、困惑も混じったような、しかし警戒するような声で低く唸る。
「……てめぇ、俺が誰だかわかってて、こんなふざけたことやってんのか……?」
「そんなの知らない。だけど、私は悪竜を捜してるんだ。なあお前、悪竜を見なかったか? 口が利けるようになったんだ、何でもいいから教えてよ」
「……」
男は何故か呆れたように深いため息を吐いて「最悪なもん思い出した……」と、片手で目を覆うように頭を抱える。私はそんな男に首を傾げながらも、「悪竜、見てないか? 私、どうしても悪竜を見つけて、会ってみたいんだ」と再び問う。
男は目を覆っている指の隙間からわたしを覗き見しながら、低い声で逆に私へと問い返してきた。
「悪竜……それにどうしても会ってみたいなんざ、てめぇの気が知れねぇ。んなもん、見つけちまっていいのか? さっきてめぇ、歌ってただろうが。悪竜を見つけると、てめぇの国が滅ぼされるんだぞ。くわえて、てめぇもぶち殺される」
「いいんだ。悪竜を見つけて逢えるなら、死んでも。今の私の楽しみは——生まれて初めて、ようやく見つけることができた楽しみは、それだけだから。それに」
私は胸を張って、片方の口の端を釣り上げて笑って見せる。
たぶん、悪戯するときって、こんな気持ちになれるのか。悪くない。
「私、国持ってないし。悪竜を見つけても何も奪われない! もし、国を持っていたとしても。私は私の国を悪竜に滅ぼさせはしないよ。なんか、自信がある!」
私の自信満々な宣言に、男は大きく目を瞠って、何か幽霊でも見たかのような顔をしてしばらく私を見つめていた。でも、男は一度目を伏せると「ふ」と吐息と共に小さな笑いを零して、私の林檎を懐にしまいながら立ち上がった。首が痛くなるほどに見上げないといけないくらい、大きな男だった。
「……てめぇ、名は?」
男が私を見下ろして、静かに問うてくる。私は胸を張って答えた。
「ナヒトア! 自分でつけた名前だ」
「ナヒトア……太古の創世神話に出てくる巨神の名か。たいそうな名を名乗りやがって、生意気な」
「いい名だろう。あと、マユ女王が嫌いな女神の名前でもあるからな! それにもあやかった」
「まったくもってあやかってはいねぇだろ。怖いもの知らずかてめぇは……」
「それで、お前の名は? 私が名乗ったんだ、お前も教えてよ。名前」
私がそう尋ねると、男は神妙な顔をして一つ間をおき、静かな低音で名乗った。
「……イエルク・アジダハーク」
「アジダハーク? あれ。それって、確か……」
悪竜の名前じゃ。
そう呟こうとした瞬間、凄まじい突風が巻き起こって、私は咄嗟に両腕で顔を覆う。
風が弱くなって、ふと顔を上げると、目の前にいたはずの男が——蛇のように長い身体をうねらせる、狼の顔と山羊のような長い角と耳を持った巨大な黒竜の姿に変わっていた。
そして、私が驚きのあまり声を上げる間もなく。私の身体は竜の身体に攫われて、私はいつの間にか竜の長い
「俺は……俺を見つけて腐った林檎を分け与えやがった女には、
黒竜——イエルクのぼやくような声を耳にしながら、私は顔に吹き付ける強風に目を細めて、空を見上げた。
流れゆく藍紫色の星空は、いつもより色とりどりの光の瞬きが鮮やかに、輝いて見える。
イエルクの身体を覆う艶やかな黒い鱗は、星々の光を映してきらめき、銀色の
地上は星空よりも遥か遠く思え、母なる大地を離れた足が宙に揺れる度、ぞくぞくと興奮にも恐怖にも似た激情が、腹の底から湧き上がってきた。
同時に、何故か凄まじい眠気に襲われる。イエルクが、何か魔法をかけたのかもしれない。私は今眠ってしまっては堪らないと、とにかくイエルクにたくさん話しかけた。
「イエルク。イエルクは何で、死にかけてたの?」
「マユ女王の
「そうなのか。マユ女王はやっぱり、無茶苦茶を言う……よく、そんなとんでもないわがまま女王さまに忠誠を誓えているな。イエルクは、マユ女王がすきなのか?」
「……」
イエルクがあからさまに黙り込んだので、私は思わず噴き出した。
「なに。図星? まあ、マユ女王は最悪だけど絶世の美女だからな。気持ちはわからなくもないよ。イエルクは面食いなんだ」
「違ぇ。顔じゃねぇ。確かに顔はいいが。俺は——昔、飢えて独り死にかけてたところを姫さんに見つけてもらった。そんであの人は、当時の夫だったアーリマン国王にぶん殴られながらも、飢えた俺に腐った林檎を分け与えた。その代わり、『死ぬまで私に平伏し付き従わなければ、焼いて食べてあげる。だから、私のモノになって、私の夫を殺し、私をこの世界でいちばん偉い女王にしなさい』とかいう、とんでもなく最悪な契約を交わしちまったがな」
私は思わず、驚きのままに目をしばたたかせた。
イエルクのマユ女王との出逢いが、まるでさっきまでの私とイエルクの出逢いに、よく似ていたからだ。
「まあ、それからも色々最悪なことしかなかったが、結局……気がついたら最悪なあの姫さんに惚れちまってた。もう後戻りできねぇくらいに。これが、惚れたら負けってやつだな」
まるで、運命だ。
私はマユ女王に惚れているとはっきり
だって、これは運命でしかないだろう。
イエルクと話をしていると、イエルクの傍に居ると、イエルクと共に空を飛ぶと、こんなにも——心の臓が、燃えるようにときめくのだから。
それに、こんな私とまともに話してくれる誰かは、イエルクが初めてだったのだ。
「そうだな。イエルクはマユ女王に本気で惚れてしまった時点で、マユ女王に負けてる。イエルクにはもうどうしようもない」
私は、続いて口を開こうとするが、強烈な眠気が再び襲ってきて、ろれつが回らなくなる。まるで、イエルクが「もうこれ以上、先を口にするな」とでも言いたいかのように。
それでも私は、必死にイエルクの銀色の
「だが、私もイエルクと同じだ。わたし、イエルクのことがすきになった。だいすき、なんだ……つまり私も、イエルクにだけは敵わない。イエルクにだけは、負ける……でも、負けたままは悔しいだろう? だから、イエルク。最後に……教えてよ」
「……」
イエルクは何故か、焦燥に駆られているかのように、私にかけた眠りの魔法を強めていく。何を、そんなに怖がっているんだろう。
そんなことを考えながらも、私は、意識を手放すぎりぎりで、何とかイエルクに問うた。
「イエルクは、どんな人がすき? 私、次にイエルクと会う時まで……イエルクが思わず一目惚れしてしまうような、そんな女になるから……」
意識が、イエルクの銀色の
しかし、私は確かに——イエルクの、唸るような低音が、私の問いに小さく答えるのを聞いた。
「世界でいちばん——最悪な女の王」
そうして、次に気が付いた時。私はマユ女王の治める神聖アーリマン王国から遠く離れた西方の大地で、目が覚めたのだった。
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