別離 二の節

 涼風が、頬をさすって、空を見上げる。

 刷毛で描いたような筋雲。夏は終わり、すっかり秋の気配だ。

 御簾をくぐり、出迎えた淑気舎しゅくきしゃ付きの者達に応じる。ひさしを抜け、身舎もやへと進めば、薬師くすしが診察を行っていた。

 丁重な挨拶に頷き、声をひそめて尋ねる。

「……加減は、如何に?」

「確かに息もあり、お食事も、わずかに召し上がっていらっしゃいますが……」

 濁した言葉。とこに臥した姿を、苦しく見つめる。

 あの夏の昼下がりから、すでに、一月ひとつきが経っていた。

 耳をつんざく絶叫。我に返って顔を離せば、気絶した白梅しらうめの顔があった。後悔に苛まれながら、目覚める時を、今か今かと待った。

 しかし、夜が明けても、白梅は眠ったままだった。

 試しに、世話の者が肩を揺すっても、全く反応がない。何かの祟りかと、宮司を呼んで祓ってみても、その瞼が開く気配はなかった。

 まるで、生きたまま事切れたような、深い眠り。今は、重湯と蜂蜜などを少しずつ与えて、なんとか命を繋いでいる状況だった。

 痩せてしまった白い頬を見つめる。

 怖い思いをさせたくないと、切実に願っても、己の中の獣が、暴れて理性を喰い破ってくる。こんなことになった今でさえ、立ち上る芳香に、気が狂いそうだった。

 薬師が、冷ました薬湯を、匙でゆっくりと流し込む。ほんの微かに、細く白い喉が動く。

(逝くな……白梅……)

 まだ、伝えたいことが、たくさんある。謝罪も礼も――せめて、帝として、皆の前で、賛辞を贈りたかった。

 臣下の多くは、干魃に備えるべきだと主張した。しかし、白梅が〈要〉の巫子みことなったならば、その託宣が、間違いなく正しいのだ。

 乱心したと思われても、もはや構わない。

 若竹わかたけに父親の説得を命じ、左大臣が応じると、主だった者達は、大水おおみずへの対策を承服したのだった。

 そうして、例年よりも野分のわけの多い夏を迎えた。強風で被害の出たところもあったが、頑丈に補修した堰のおかげで、洪水は免れた。

 この頃は、洗いたてのような空が続いている。白梅は、責を果たしたのだ。

 濃密な香気に、頭が揺らいでくる。薬師に、世話をよくよく頼んで、淑気舎から立ち去った。


 玲瓏に響く呼びかけ。おもむろに、瞼を開ける。

「――吾子あこよ。久方ぶりであるな」

 光輝く尊い姿。ようやく会えたと、喜びに満ちて、口を動かす。

 しかし、唇が引っついて、言葉は出なかった。まるで、膠で貼ったように、びくともしない。

 美しい面立ちが歪み、深く嘆息する。

「まこと、あの皇子みこには困ったものよ。似姿を授けたというに、時折、ああいう先祖返りする者が現れる。容姿も文武にも秀で、周囲の者を魅了するが、獣の本能に抗えぬ。危うきさがよ」

 憐れみの滲んだ、しかし厳しい眼差しが問う。

「吾が愛でたる子よ。そなたを、みすみす失うとは、如何にも惜しい。機会を与えよう。――皇子を慕う心と思い出とを、吾に差し渡せ。それを供物とし、その穢れを清めてやろう」

 願ってもない提案だった。深くこうべを垂れ、心から哀願する。

「まこと、よいのだな?」

 伏したまま、強く頷く。

 迷うことなどない。あれほど恐ろしい末路への歩みを阻めるのなら、どんなものでも差し出せる。

(……生きてさえいれば……また、お会いできる……新しい思い出を、つくっていける……)

 新しい心で、穏やかな時を紡いでいけたら。

 ふむ、と呟く吐息。慈しみ深い声が、呼びかける。

「――吾子よ。おもてを上げよ」

 ゆっくりと、身を起こす。

 おもむろに伸びてくる、華奢な輝かしい手。頬に触れて、そっと、柔らかな唇が落ちる。全身に喜びが広がり、力の戻る感覚で、満たされる。

 優美に離れる所作。光が、するすると、身の内から抜けていく。涙が一筋、こぼれる。

(さようなら……わたくしの、美しい思い出――さようなら……)

 細くたなびく光景が、豊かな唇の中に収まる。貴い面立ちが、慈しむ微笑みを湛える。

「清いそなたは、まこと、愛らしい。此度は、格別なることと、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

「非常なる御優しさ、誠に畏れ多きことにございます。これよりは、大御巫おおみことして、身命を賭して、お仕え申し上げます」

 恭しく、丁重に礼をする。満足げに輝くと、尊い姿は、高く消えていった。


 左大臣の語る声に、耳を傾ける。

 定例の報告。全て終わると、若竹が、憚りつつも補足した。

「いずこからか漏れたようで――都では、神々は豊葦原とよあしはらを見捨てた、との噂が、出回っております。いつまで、皆が耐えられるか……」

 白梅が臥してから、一月半。秋は深まり、冬が迫っている。

 今年は豊作であったから、まだよかったものの、どれほどの量を蓄えとし、種籾とするかは、うら次第なのだ。

 しかも、寒さに強いとはいえ、冬は、疫病が流行りやすい季節だ。どういった対策を講じるか、全く目処が立っていなかった。

 解決策は、ひとつだけある。〈要〉の巫子が、代替わりすればいい。

 若竹の、逡巡する気配。声を張り、言葉を阻む。

淑気妃しゅくきのきさきに危害を加えることは、朕が決して許さぬ。――よいな」

「……御叡慮のままに」

 静かに、御簾越しの影が、礼をする。そっと、言葉を押し出した。

「許せ、若竹」

 深々とこうべを垂れ、左大臣とともに、腰を上げる。

 と、慌ただしい足音が渡ってくる。

「――申し上げます! 今しがた、淑気妃様が、お目覚めになりました!」

 はっと、若竹が振り返る。目が合って、しかと頷く。

「すぐ参る。若竹、ついてまいれ」

「――はっ!」

 はやる心を抑え、おもむろに立ち上がる。むやみに衣擦れの音を立てぬよう、気を配りながらも、足早に紫蘭殿しらんでんをあとにした。


 挨拶もそこそこに、帳台へと向かう。開けたとばりの先に、はたして待ち望んだ景色があった。

 思わず、歓喜の声を上げる。

「ああ、白梅……! まことに目覚めたのだな!」

 しかし、真朱の瞳は、驚きに満ちていた。戸惑う声が、ほのかにこぼれる。

「……どうして、わたくしの名を……?」

 言葉が飲み込めなくて、怪訝に瞬く。白梅は、何を言っているのだろう。

「幼き頃、名乗り合ったではないか。まこと、冗談が過ぎるぞ」

「畏れながら、そのようなことは、覚えにございません。そもそも、お初に御目にかかりましたのは、昨年の秋でございますのに……」

 一点の曇りもない瞳。まさか、演技とも思えなかった。白梅が、こんな性質たちの悪い戯れをするはずがない。

 一体、何が、起きたというのか。わけのわからぬまま、居住まいを正す姿を見下ろす。

「長らく、誠にお世話になりました。身体も快復いたしましたので、この上は、社に帰らせていただきとう存じます」

 丁重ながら、一歩隔たった口調。

 常ならば、しかるべき距離を取りつつも、どこか親しみを感じられた。今の白梅にとって、己はただ、仕えるべき帝でしかないのだ。

 これが、咎に対する答えなのか。

 純白の長い髪の流れる頭を見つめ、低くこぼした。

「……好きにするがよい」

「ありがとうございます」

 安堵した面立ち。決定的に変わってしまった恋しい姿を、ただ茫然と眺めた。


主上おかみ。どうか、それまでになされませ。このままでは、玉体に障ります」

 若竹の声が、頭で響いて巡る。盃を掴んだまま、脇息にもたれかかる。

 白梅は、瞬く間に床上げして、都を去っていった。

 子供の頃、密かに会っていたことも、元服前に別れてしまったことも――思い出と呼べるものは全て、記憶にない、の一点張りだった。

 むしろ、不信感すら滲ませて、思い違いでは、と否定した。少しでも距離を詰めれば、謂われなきことだと、怯えて泣いた。

 全く取りつく島もない態度。

 何が起きたのか、混乱したまま、帰っていく後ろ姿を見送った。

「……なぜだ、白梅……なぜ……」

「主上……」

 悲しく慮る声が呟く。

 しかし、若竹には、まことの伴侶である妻がいるのだ。しょうではあるが、誰憚りなく睦み合える、生涯唯一の伴侶が。

 どうして、このように在るのだろう。父と母は、短くも幸せに、寄り添っていたというのに。

「……桔梗ききょうであれば、よかったのだ……さすれば、何も阻むものなど――」

 それでも、あの白く輝く姿が、恋しかった。可憐な笑顔が、鈴のような愛らしい声が――そして今の、楚々とした淑やかな佇まいが、心を捕らえて放さなかった。

 何ものにも染まらない純白。触れた肌と唇の、柔らかさ。

 忍び込んだあの夜、戯れにもったいぶらず、抱いてしまっていれば――。

(……まだ懲りぬのか、私は……)

 父が、必要な時以外は、決して化身させなかった理由が、今ならよくわかる。己は、あまりにも、祖先に近すぎるのだ。

 そして、それが、父の懊悩の種であり、占が示したであろう苦難の元でもあった。それにもかかわらず、二十歳になった今でも、御することができずにいる。

 身を起こし、若竹を呼ぶ。溜め息をついて告げた。

「……いささか疲れた……今日はもう、やすむ……」

「しかし、もうすぐ詮議が終わりましょう。結果を、御裁可いただかなければなりません」

 もはや、新たな大御巫によって、政は安定していた。そして、若竹は、父親の血を継いで、非常に優秀である。

「……あとは任せる。左大臣にも、そう伝えよ」

 ふらつく頭を押さえ、腰を上げる。呼び止める声に、立ち止まる。

「せめて、后宮きさいのみや様に――妹に、お会いになられてくださりませ。御身を案じて、心を痛めております」

「……あとで、明月殿めいげつでんに渡ろう」

 深く、礼を述べる声。その直向きな忠心が苦しくて、振り返えれぬまま、帳台へと足を向けた。

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2024年12月28日 20:00
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神狼物語【中編】 清水朝基 @asaki0530

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